第28話 あなたのせんたく

 早朝のきんとする寒さが、ようやく落ち着いてきた気がする。

 そんな事を思いながら窓を開け、眩しい陽光に目を眇めながら、洗濯カゴを片手にベランダへ出た幸喜は欠伸を一つ拵えて、大きく伸びをした。

 少し前までは暖房が欠かせない程に寒かったのに、テレビから流れている天気予報では、週明けには桜の開花宣言があるだろう、と若いアナウンサーがやけに明るい声で伝えている。

 カゴから洗濯物を取り出し、一つ一つ皺を伸ばして丁寧に干していき、残り一つになったタオルを手にした所でふと視線を下ろすと、バス停の近くで見慣れた人物が嬉しそうに笑って手を振っている。

 タオルの端を伸ばしてから溜息混じりに手を振り返せば、納得したように何度も頷いているので、きっと少し前から洗濯物を干している姿を見られていたのだろう。

 そう思うと途端にむず痒い気持ちになって、頭の後ろを掻きながらカゴを手にして部屋に戻る、幸喜はテーブルの上に放り出していた携帯電話を手繰り寄せ、手短にメッセージを送る。

 着替えを済まし、出勤準備をして最後に戸締りを確認すると、幸喜は階下に降りた。

 正面玄関を開ければ、白いボウタイブラウスとペールピンクのスカート姿の茅乃が携帯電話を片手に笑顔を浮かべて待っている。


「会うのは明日の予定だろ」


 欠伸を一つ零して幸喜が言えば、茅乃はふっくらと頬を膨らませて、だって、と子供のように拗ねた物言いをしている。


「本当は今日が私の誕生日なんですよ?」

「しかたないだろ、金曜なんだから」


 これから仕事に行かなければならない人間に無茶を言わないで欲しい、と言いながら駐輪場へと足を向ければ、茅乃は軽やかな足取りで後ろからついてくる。

 今日が彼女に誕生日だというのは、散々、それこそ毎日連絡を取る度に言われていたのだ。

 そうそう忘れる事はないけれども、平日に祝ってやれる程に仕事は楽ではないし、暇でもない。

 だからこそ明日出かける約束をしていたのだけれど、彼女はどうしても今日に顔を合わせなければ気が済まなかったのだろう。


「誕生日は特別なんです。ちょっとくらい好きな人の顔を見に来たって良いじゃないですか」


 自分の気持ちはずっと変わらない、と、そう幸喜に言い聞かせるように、彼女はいつもこうして気持ちを伝えてくる。

 あの日に幸喜が言った言葉を、彼女は律儀に待っているのだ。

 考えておく、と言った事も、待ってて欲しい、と言った事も。

 それら全てを信じて待っていてくれている。

 その事に心底ほっとしているのを、彼女は知っているのかもしれないし、知らないのかもしれないけれど、と考えて、幸喜は鼻先にぎゅうと皺を寄せて、はいはい、とぞんざいに答えた。

 それが照れているだけなのだと知っているのは、この場では間違いなく彼女だけだろう、と幸喜は思う。

 その証拠に、彼女は嬉しそうに頬を緩めて笑っていて。


「明日会うんだから、わざわざこんなとこまで来なくたって良いだろ」


 片道一時間もかかる道程を、それもこんな朝早くに来るなんて、と照れ臭さを誤魔化すように幸喜が言うと、茅乃はことりと首を傾けて、不思議そうに瞬きを繰り返している。


「怒っているんですか?」

「心配してんの」

「幸喜さん、最近何だかすごく心配症じゃないですか?」


 車道側を歩かないようにだとか、帰りが遅くなったりしていないかだとか、ちゃんと食事や睡眠をとってるのかだとか、何かと口を出しているのが気になるのか、「もう高校生じゃないのに」と彼女は呆れるように言った。

 それでも、彼女はそうして心配されるのは嬉しいのだと言わんばかりにはにかみながら笑うので、幸喜は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 ここ最近、彼女は以前より我儘にもなってきているけれど、それは彼女がそれだけ気を許している証拠でもあるし、今までずっと閉じ込めてきた甘えでもあるのだろう。

 それが自分に向けられる事にくすぐったいような嬉しさを感じながら、自転車の鍵を差し込んで開錠すると、幸喜は小さく息を吐き出した。


「いいだろ、別に。好きな子の心配くらい」


 そう言った瞬間、茅乃が思わずと言った具合に「えっ」と声を上げた。

 自転車のハンドルを掴んで車体を引き出し、不思議に思った幸喜が首を傾けると、彼女は透き通るような色素の薄い瞳を大きく見開いて、顔を見上げている。

 赤く染まった頰と、揺れたその目を暫し見つめて、視線を地面に下ろし、それから持ち上げて、幸喜は自身の発言を反芻する。

 十分過ぎる程に口が滑った事は、すぐに理解した。

 したのだけれど、それは明日に、もっとちゃんとした形で伝えるべき言葉であって、今更誤魔化しがきかない事は理解しているけれど、それでも、にこ、とぎこちない笑みを貼り付けて、幸喜は自転車のハンドルを握り直す。


「ええと、じゃあ、俺は仕事行くから」


 そうしてそそくさと会社へ行こうとすると、直ぐ様ほっそりとした手が伸びてきて、がっちりと腕を掴まれた。


「駄目です。全く誤魔化しきれてないです」


 爪を立ててまで掴まれているので地味に痛い、と顔を引き攣らせながら幸喜が恐る恐る視線を向ければ、茅乃は頬を膨らませて、わかりやすく怒っている。


「待った。今の無し」

「もう聞こえちゃいました」

「頼む。明日ちゃんと言うから」

「この状態で明日なんて拷問です」


 始めこそ駄々を捏ねている子供のように腕を引っ張って文句を言っていたものの、そのうちに、お願い、と言って泣き出しそうになってしまっている彼女に、幸喜は慌てて自転車を元の場所へ戻して彼女に向き直った。

 僅かに躊躇ったものの、その手を掴んで、まっすぐにその色素の薄い瞳を見つめると、水分が含んだ瞳が揺らいでいる。


「頼むから聞かなかった事にして。そういうのは、ちゃんとしたいから」


 そう言って指を絡めて手を握り直すと、視線を逸らした茅乃は片手で口元を押さえながら、みるみるうちに顔を赤くさせていた。

 あまり見られない光景に驚きながらも、次第に自分の行動に恥ずかしさが押し寄せてきて、顔が熱くなってきているのを感じ、幸喜も同じように顔を俯かせてしまう。

 出勤前の、それも駐輪場で、いったい何をしているのだろう。

 そう他人事のように思いながらも、横目で彼女を見ると、口先を尖らせた茅乃が真っ赤な顔のまま顔を上げ、ずるい、と呟いている。


「でも、幸喜さんのそういう所も好きなので、一日だけ我慢します」


 だから明日は覚悟して下さいね、と念を押している茅乃に、幸喜は眉を下げて笑いながら頷いた。

 駐輪場の側はさして人通りは多くはないけれど、バス通りに面しているので、自転車を出して振り向くと、丁度到着したバスに乗り込む人々が見えた。

 少し前までそれに乗って学校に通っていた彼女は、頰の赤みが引いているのかどうか手を当てて確かめながら、その様子を眺めている。

 そこからベランダを見ていた彼女を思い出しながら横顔を見つめていると、そうだ、と茅乃は顔を上げていて。


「幸喜さん。洗濯物、一つだけ端が丸まってましたよ」


 そう言われて、幸喜は思わず顔を歪めて苦々しい面持ちを浮かべてしまう。

 洗濯に関する事にはめざとい彼女に指摘されて以来、文句の一つも出ないよう、十分気をつけて干していたのだ、そんな筈はない、と幸喜は首を振って彼女の言葉を否定する。


「いや、今日はちゃんとやった。絶対やった、はず」

「でもなってましたよ」


 茅乃はそう言うけれど、どうしても納得がいかず、ここからじゃ分からないから、と幸喜は言い、自転車を引き出して表に回ろうとすると、腕を引かれて大きく眼を瞬かせた。

 目の前で彼女の髪が揺れて、ふわりと甘い花の香りが、して。

 耳元に微かに吐息がかかると、頬に唇が押し当てられている。

 あたたかでやわらかな感触に驚き、は、と口から声が漏れると、茅乃は悪戯が成功した子供のように、楽しそうに笑っている。


「ごめんなさい。今の嘘です」


 これでおあいこにして下さいね、と言った彼女の言葉に、頰を押さえた幸喜は、折角落ち着いてきた顔の熱が再び戻ってきているのを感じて、深く長く息を吐き出した。

 その照れ臭さを誤魔化そうとぞんざいに彼女の頭を撫でると、彼女は子供のように屈託なく笑いながら、きゃあきゃあと声を立ててはしゃいでいる。

 乱れてしまった髪を手櫛でそれなりに直してやると、心地良さそうに眼を細めるので、幸喜は指先で彼女の頰に触れた。

 嬉しそうに擦り寄ってくるその様子に、思わず頰が緩んで、吐息が零れてくる。


「今日は、洗濯物よく乾きそうですね」


 そうして、青空に流れるような洗濯物を眺めて彼女が言うので、幸喜は笑って頷いていた。

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