第6話 ラベルを剥がして鍵を詰めたら
駅構内を抜けロータリーを過ぎた先、五分ほど歩いた場所にある映画館の側まで歩いて行くと、幸喜は入り口の端の方に寄って大きく息を吐き出した。
人が出入りしている自動ドアからは、空調が効いていているのか、ひんやりとした空気が流れている。
きっと今、酷い顔をしているのだろう。
幸喜は思わず片手で顔を覆い、深く長く息を吸い込んで、吐き出す事に集中した。
何か考えてしまえば、朧げだったもの全てが繋がって、ずるずると嫌な事ばかりを思い出してしまいそうだったからだ。
せめてどこかで休みませんか、と不安そうに声をかけてくれる茅乃は、薄い青色のハンカチを差し出してくるけれど、それに頭を振る事でしか、今の幸喜には答える事が出来ない。
指の隙間から見える顔色は青白いだろうし、身体はどっと冷や汗をかいている。
一体、どうしてこうなってしまったのだろう、と幸喜はうんざりしながら考える。
大きなターミナル駅で知り合いに出会う確率なんて然程多くないだろう、と思っていたのが裏目に出たのだろうか。
彼女に自分の存在を知られたなら、次に何が起こるかなんて、想像に難くない。
考えうる全てが面倒になって、幸喜が肺の中の息を一気に吐き出すと、視界の隅に茅乃の色素の薄い髪が映った。
のろのろと視線を上げれば、不安そうに瞳を揺らした茅乃がじっと見つめている。
「お前、よくあんな嘘をすらすら言えるな……」
いつものように軽口を叩くけれど、自分で思っているより随分と声は震えているし、弱々しく感じられて、情けなさに、幸喜は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
声をかけられた事に安堵したのか、茅乃は頰にかかった髪を耳にかけ、困ったように笑っている。
「ああいう時はさらっと流すように言った方が、案外すんなり騙されてくれますよ」
やけに手慣れたような言い方に、幸喜は思わず眉を潜めた。
その軽やかな言葉とは裏腹に、どこか諦めたような表情をした彼女は、幸喜の視線に気がつくと、仕様がないとでも言いたげに笑って、顔を俯かせていた。
茅乃は幸喜のプライベートを根掘り葉掘り聞いてくる事はない。
それはつまり、自分からも話したくない事があるからだろう。
そこが、彼女を拒絶しきれない大きな理由の一つだ、と幸喜は思う。
期待を持って近づいてくる癖に、全部を諦めたようなその表情が、中途半端な笑い方が、嫌でも脳裏から離れていかない。
それはまるで、真夜中に鏡を覗き込むよう、な。
目を逸らしたくてたまらないのに、見つめた瞬間、その中の何かを覗き込んでしまいたくなってしまう。
「お前、変に気を遣ったろ」
お前じゃなくて茅乃です、と訂正しながら、茅乃は慣れていないらしい映画館の中を覗き込みながら首を傾け、よくわからない、とでも言いたげな演技をしている。
茅乃はただ、困っていたから助けただけ、なのだろう。
その事に、幸喜は申し訳なさと有り難さを同じ程に感じて、緩く瞬きを繰り返す。
彼女は嘘を吐き、いつも以上にはしゃいで、自らをその場から離れられる都合の良い言い訳にした。
黙っている事も出来た筈なのに、と考えて、幸喜は口籠もりながら、彼女に問いかけた。
「……、何も聞かないんだな」
その言葉に苦笑いを浮かべながら、聞いて欲しいって顔していませんよ、と茅乃は返していて。
「私だって、言いたくない事なんてたくさんあります」
何だって話した方がいい、って他人は言うけれど、私は、どんどん自分が惨めになる気がする、から。
中途半端に笑った彼女のその言葉に、心底同感する、と幸喜は思う。
自らの事を話せば話す程、自分がどんな人間なのかを理解し、形作ってしまうのが怖いのだ。
名前をつけられ、ラベルをつけられ、そうして棚に並べられた自分を改めて見つめるのは、それを目の当たりにするのは、どうしたって、今の自分には耐えられそうにない。
もうじき次の回が始まるのか、少しずつ入場口に集まってくる人の群れは誰もかも楽しそうで、横に居る茅乃は、映画館の入り口に貼られた何枚ものポスターをぼんやりと眺めている。
他の誰かを羨む事もなく、他の誰かの中に入ろうともせず、かといって、幸喜を追求する事もない。
ただ隣に居てくれるだけの彼女の側は、少しだけ、息がしやすい気がしていた。
「何観たいんだ?」
幸喜がそう言うと、茅乃は眼を大きく瞬かせ、ぽかんと口を開けている。
思いもよらない事だったのだろう、その幼さに、思わず幸喜は唇の端に笑みを乗せる。
「映画、観るんですか?」
「観たそうにしてただろ」
「でも、幸喜さんってこういう密室になる所は嫌がるじゃないですか」
「今回は良いよ。お礼だ、お礼」
言いながら、違うな、と幸喜はひとりごちて、頭の後ろをがしがしと掻いた。
彼女は確かに、幸喜の異変を感じ、助けてくれたのだ。
それに対して彼女を適当に扱うのは、あまりにも不誠実だろう。
大きく息を吐き出して、幸喜は茅乃の瞳をしっかりと見つめた。
透き通る明るい茶色の瞳は、真っ直ぐに見つめ返している。
「ありがとな、助けてくれて」
照れ臭いのをどうにか押さえ込み、幸喜がはっきりそう言うと、茅乃は嬉しそうに顔を綻ばせて笑った。
曖昧な笑い方ではない、気持ちと表情が一致したようなその笑顔は、今まで見せた事のないもので、年相応の幼さが全面に表れている。
幸喜は小さく息を吐き、眉を下げて笑うと、茅乃を連れて映画館の中に入った。
改めて中に入ると、映画館の中は空調が効いていて涼しく、次の回が始まったのだろう、人の数はまばらだ。
ロビーにある売店からはポップコーンの香りが漂ってきていて、一際大きいモニターには予告編が流れていたり、券売機の前で上映時間を確認している人達が話をしていた。
茅乃に声をかけようと幸喜が顔を向けると、何故だか頰を紅潮させた彼女は、売店のメニューを見つめて両手を握り締めている。
「こ、幸喜さん! 映画館の中って、ポップコーンだけじゃなくって、ホットドッグもチュロスも、アイスまで食べて良いんですか?」
信じられない、と目を輝かせる彼女は、まず映画を選ぶ事という事をすっかり忘れているらしい。
もしかして、映画館に馴染みがないのだろうか。
幸喜自身、映画好きというわけではないが、流石に彼女ほど知らないという事はない。
あんまり食べていたら周りに怒られませんか、と真剣に悩み出す彼女に、一体どれだけ食べようとしているのだろう、と考えて、思わず笑い出そうとしてしまう口元に手を当ててしまう。
「好きなだけ食べていいよ」
ただし腹は壊すなよ、と釘を刺せば彼女は恥ずかしいのか頰を膨らませていたけれど、直ぐに嬉しそうに笑っていた。
***
真っ赤なチェックスカートにブルーシャツ、紺色のベストを身につけた女子高生達の一人が、後ろを振り返った。
買ったばかりのコスメが入ったショップ袋を下げ、カラフルな色合いのカップに入ったミルクティーを手にしたその少女の、長い黒髪は艶やかだけれど、毛先はピンク色のグラデーションになって染められ、風に揺られている。
後ろを振り向いたまま立ち止まっている事に気がついたもう一人が、どうしたの、と声をかけるけれど、彼女は視線を動かさない。
「別に。知り合いがいた気がしただけ」
違ってたら良いんだけどね、と、ぽつりと呟いた少女は、けれど、ストローの端を齧りながら、視線の先にある映画館を睨むようにじっと見つめていた。
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