第8話 雨音くぐってここまできたの


 燦々と照りつける太陽に晒していた布団を取り込んだ時のような、ワイシャツにアイロンをかけた瞬間のような、そんな香りが漂うのは、自宅からバスで十五分程のコインランドリーである。

 車が三台ほど停められる駐車場があり、住宅街の中にあるが出来てからさほど経っていないからか、ネットで調べた限りでは評価や口コミ一つさえ入っていない。

 清潔感がある外観は想像よりもずっと明るく開放的で、それ程圧迫感も感じられないので、幸喜はほっと胸を撫で下ろしたけれど、ばたばたと叩きつけるような雨の音に、うんざりした気持ちで透明のビニール傘越しに曇天を睨みつけていた。

 雨は嫌いだ。

 洗濯は乾かないし、気分は沈むし、服や靴が濡れて汚れるし……、心底、うんざりする。

 そもそも降水確率とは一体何だったのか、と言わんばかりの雨模様に、幸喜は本日何度目になるかもわからない溜息を零している。

 彼女の物凄い執念に、天候さえ味方をしてしまったのかもしれない。

 サーモンピンクの可愛らしい傘を揺らした茅乃は、大きなランドリーバッグを一つ、フリルのついたトートバッグを一つ、それから華奢な肩掛けの小さなバッグを一つ下げて幸喜の隣まで歩いてくると、嬉しそうに笑っている。


「良い雨模様ですね、幸喜さん」


 学校近くの神社で拝んできた甲斐があります、と軽やかな足取りでコインランドリーに入っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、その恐ろしいまでの執念に天候すら怯えているのではあるまいか、と幸喜は思わずにいられない。

 利用者が誰もいないコインランドリーの中は洗剤と干したての布団のような香りが漂っていて、外気の冷え切った湿気とは違う、あたたかな湿度をほんのりと感じられた。

 正面の壁に設定されている洗濯機は左側に三台。

 右側には乾燥機能付きの洗濯機が三台置かれていて、その前には簡素な長椅子が二つ置かれているだけで、外から見るより殺風景でちっぽけに感じられる。

 蛍光灯の軽薄そうな灯りに照らされているからだろうか、と考えて中を眺めていると、重たげな荷物を長椅子に下ろして息を吐き出した茅乃は、雨で湿った髪を手櫛で軽く整えながら顔を上げた。


「最近はカフェが併設している所もあるそうですよ。雑貨屋さんのようなお店なんかもあるそうです」


 此処は違うので色々準備してきました、と言って、端にフリルのついた可愛らしいトートバッグから沢山のお菓子やトランプなどを取り出している茅乃は、いつになく楽しそうだ。

 修学旅行じゃあるまいし、あんまりはしゃいで怪我するなよ、と幸喜が長椅子に腰掛けながら呆れて言うけれど、その言葉が耳に入っているかも正直怪しい。

 茅乃は早速ランドリーバッグを持ち、洗濯と乾燥がどちらも出来る洗濯機の側に設置された説明書きを読みながら、操作板を嬉しそうに撫でている。

 小銭もきちんと用意して準備万端らしい彼女は、振り返ると首を傾げて幸喜を見た。

 バッグを持ってきたものの、傘と携帯電話、財布以外の持ち物を持っていない幸喜は、長椅子から動かずに欠伸を零して彼女と同じように頭を傾けた。


「何?」

「幸喜さん、洗濯しないんですか?」

「しない。ここまで持ってくるのが面倒」

「もう、折角のコインランドリーなんですよ?」


 頰をふっくらと膨らませて怒る茅乃は、それでもすぐに笑顔で洗濯機に向き直っている。

 一体何が折角なのかさっぱり理解出来そうにない幸喜は、肩を竦めるとまた一つ欠伸を零していた。


 ***


「これ、久しぶりに食べたけど美味いな」


 洗濯機が稼働している音を聞きながら茅乃が開けてくれた菓子を摘むと、幸喜は指先で摘んだそれをしげしげと眺めた。

 クマの姿を模したビスケットは中にチョコレートが入っていて、正面にはパッケージにも描かれているクマのキャラクターがチョコレートで印刷されている。

 一つ一つ表情や服装などが違っていて、彼女曰く、ヒゲがついているクマが入っていたら幸せになれるらしい。

 何故ヒゲがついているクマが入っているだけで幸せになれるのかは定かではないけれど、女子の好きそうな話だな、と幸喜は思いながら、困った顔のクマが描かれているビスケットを口の中に放り込んだ。

 口の中に広がった、ほんのりとした甘味が、何だか懐かしい。


「体育祭とか文化祭とか、友達だかクラスメイトだかに貰って食べてたな」


 その言葉に、途端に顔を曇らせた茅乃は大袈裟とも思える程に溜息を吐き出した。

 唇を少しだけ尖らせ、爪先を少し持ち上げる、その仕草は、拗ねた子供のようだ。


「もうすぐ、体育祭なんです」

「へえ、楽しそうじゃん」


 得意と言える程ではないけれど、体を動かす事は嫌いではないので幸喜がそう言うと、茅乃はぎゅうと眉を寄せて首を振っている。


「嫌です」

「運動、嫌いなのか?」

「嫌いではないですけど……、少し、苦手です」


 大縄跳びとかリレーとか、一体誰が考えた拷問なんでしょう、と非難めいた事を言った彼女は、両手で頬杖をつきながら、ぼんやりと洗濯機の中を眺めていて。


「私、鈍臭くて、のろいってよく言われるから」


 口の端だけを微妙に持ち上げた、中途半端な笑い方をして、彼女は言う。

 誰に、と言わない辺りが、どうにも引っ掛かりを思えて、幸喜はゆっくりと瞬きを繰り返して彼女の横顔を眺めた。

 長い睫毛の先が微かに震えていて、蛍光灯の灯りで淡く光っている。


「そういうの、あんまり言わない方がいいぞ」


 そのうちにそういう自分になってくる、呪いのようなものだから。

 そうして告げる言葉は、一体誰に向けたものなのだろう、と幸喜は思い、窓の向こうを見た。

 雨は一向に上がる気配はなく、陰鬱な気配を地面に留まらせている。


「呪われてるのかも、しれないです。私がそういう私であるように」


 淀みなく発せられた声に視線を戻せば、茅乃は顔を俯かせていて、色素の薄い長い髪で、その表情は伺い知る事は出来ない。

 ぐるぐると回る洗濯物は渦を巻き、軽薄な灯りに照らされた店内には、重苦しい雨音と水流の音が混ざり合っている。

 きっとあの日に戻れたとしても、結局の所、過去なんて変えられない、と幸喜はよく知っている。

 今もまだ、重苦しい雨のように、自分を追い詰めていくものに逃れきれていない事も、受け止めきれていない事も。

 だから雨は嫌いなんだ、と、息を吐き出し顔を上げて蛍光灯の灯りを見つめた。

 軽薄そうな光でも、この中は空の暗さを閉じ込める事なく明るく照らしてくれる。

 そんな事ないだろ、と呟くように幸喜は言って、茅乃を見た。

 長い髪が微かに揺れて、ゆっくりと彼女は顔を持ち上げている。


「洗濯マニアで、向こうみずで、一方的で、のんびりしてそうなのに積極的で、英語が苦手で、あとは……、少し世間知らず?」

「それ、私の事ですか?」


 酷いです、と言いながらも、困ったように茅乃は笑い、ぎこちない笑みを貼り付けたまま、口を噤んだ。

 そんな風に笑わなくて良いのに、と考えて、幸喜は小さく頷く。


「いつも笑って楽しそうに洗濯の話してて、そのくせ、変なところで気遣い出来たりするだろ。人間なんて色んな側面があるんだから、あんまり決めつけない方がいい」


 自分みたいになるから、とは言えずに、幸喜は大きく息を吐き出しかけて、止めた。

 視界の隅から、ほっそりとした白い指先が伸びてきたからだ。

 大きく眼を瞬かせて顔を上げれば、茅乃がゆったりとした速度で眼を細めて、腕を伸ばしてくる。

 けれど、決して触れられない距離を保ったまま、まるでまるで頭を撫でるかのように、ゆっくりと手を動かしていて。


「幸喜さんは、可愛いじゃないですか」

「……は、あ?」


 突然の言葉に驚いて上擦った声が出るけれど、彼女はますます楽しげに目元を緩めると、腕を下ろして口元に手を当てて笑った。


「それに、面倒見が良くてお人好し。ちょっと人見知りで目つきと口が悪いですけど、そこもチャームポイントです」


 誉めているのか貶しているのかわからない言葉に、思わず幸喜は唇を噛み、渋面を浮かべてしまう。

 年下の、それも女子高生に揶揄われている大人ってどうなんだ、と息を吐き出して話題を変えようとすると、すかさず追撃の言葉が降ってくる。


「照れてる時、鼻の頭に皺が寄る所も、とっても可愛いです」


 ワンちゃんみたいで、と満面の笑みで言われてしまい、とうとう逃げ道を見失った幸喜は、大きく息を吐き出して肩を竦めた。


「あー、もう、うるさい」

「もう、褒めてるのに」

「褒めてないだろ」


 じゃれるように二人が話しているコインランドリーの外は、勢いを落とした雨が、静かに降り続いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る