第9話 まっさらになれるって信じてる

 雨が、降っている。

 皮膚に突き刺さるような冷たさと、まとわりつく湿気が辺りに充満し、空気がのしかかる程に重苦しく感じられた。

 じりじりと胸底が痛んで、呼吸の音さえ響かないように小さな身体をぎゅうと丸めれば、鍵を閉めていた筈の扉の向こうから、雨音に紛れて微かな物音が聞こえている。

 怖い、とは思わなかった。思いたくなかった、だけなのかもしれないけれど。

 絶対に開けてはいけない、と自分の中で警告するように声が響いて、震える両手で鞄を強く握り直す。

 もしかしたら、を考える。

 もしかしたら、もしかしたら、きっと。

 やけに甘ったるい匂いが部屋の向こう側から漂ってきていて、ケーキを焼いたの、と優しげな声が聞こえていた。

 身動ぎをして視線を向けると、薄く開けられた隙間から、大きく見開かれた瞳が、見つめている。

 温度を全く感じられない、無感情で、目に映る全てを拒絶した瞳。

 思わず身体が大きく震え、その拍子に近くの壁にぶつかってしまい、微かに物音を立ててしまったけれど、それも雨音に掻き消され、どこにも届く事はない。

 身体の外側はすっかり冷たくなっているのに、頬だけがぼんやりと熱を帯び、抱えた膝に押し付けるとひんやりとしていた。

 此処はやけに冷たくて、息苦しくて、重苦しい。

 咄嗟に明るい窓の向こうに手を伸ばしたくなるけれど、此処を出たならもっと状況が悪化する事になるのは明白だった。

 視界の隅で何かがちかちかと光り、気になって後ろを振り返ると、真っ白になる程の酷い雨の中、ぼんやりと赤や黄色の光が幾つも見えた。

 寒さで赤くなってきた指先はすでに悴んでいて、助けを求めるように手を伸ばすと、ぎしり、と軋む。

 冷たい縁に手をかけ、身を乗り出すと、突然ぐるりと視界が上向いて、いて。

 重力を感じられなくなった身体が、下へ、下へ、と落ちていく。

 身体中が燃えるように熱いのに、驚く程の速さで冷たさが浸透していき、どんどん熱が抜けていくのを感じている。

 やけに遠くで、冷たい雨の音に紛れて、誰かの声が聞こえる。

 名前を呼んでいる、誰かの、声。



「幸喜さん……、幸喜さん!」



 叫ぶように名前を呼ばれて、は、と顔を上げた。

 刺すような明るい光に、破裂してしまいそうな程の鼓動が身体中に響いていて、無様に指先が震えている。

 呼吸の仕方が上手く思い出せなくて、浅く息を吐き出し、吸い込みながら、幸喜は静かに視線を動かして辺りを確認した。

 軽薄そうな蛍光灯の明かり。濡れた窓の向こう。安っぽい長椅子。無機質な洗濯機。流れていく冷たい雨。コインランドリー。

 そう、コインランドリーだ。

 今日は土曜日で、雨が降ったら茅乃と此処へ来る約束をしていて、それから、洗濯を待っている間にうとうととして眠ってしまったのだろう、昨日は残業で帰りが随分と遅くなってしまっていた、から。

 ゆっくりと思い出していく現在の状況に、時折古い記憶が入り混じり、酷い目眩を感じて、幸喜は思わず両手で顔を覆ってしまう。

 冷えきった手のひらとは違い、眼球だけがやけに熱を持っていて、熱かった。

 それまで見ていたもの全てを忘れてしまいたいのに、瞼の裏にこびりついて離れていかない。

 あの眼が見つめている。

 部屋の向こう側で、じっと見つめている。

 そんな事、もうある筈もないのに。


「洗濯が終わったから、声をかけたんですけど……」


 大丈夫ですか、と僅かに震えた声で問いかける茅乃は、心配そうに顔を覗き込んでいる。


「……わ、るい。……寝ぼけてた」


 のろのろと顔を上げ、吐き出した途切れ途切れの言葉に、幸喜は内心で舌打ちを一つ零した。

 みっともない所を見られた事より、不安にさせた事に対しての罪悪感が勝り、深く長く息を吐き出していた。


「……お仕事で、疲れていたんですね」


 茅乃は追求する事もなく、安堵の息を零してバッグの中から緑茶のペットボトルを差し出している。

 冬でもないのにひんやりとしているそれに額を押し付けて、幸喜は足元をじっと見つめていた。

 雨で濡れ、泥がついた靴は、なんてみっともなくて、惨めたらしい。

 いい加減にしてくれ、と、思う。

 曖昧で朧げだった筈の記憶が、年齢を重ねるごとに鮮明になっていき、現実味を帯びた鮮やかさで思い出される瞬間、酷い目眩を引き起こし、心に重く沈み込んでいく、のだ。

 一体いつまでこんな事が続くのだろう、と考えていると、茅乃の淀みない声がコインランドリーの中に響いている。


「幸喜さん、これ、食べませんか?」


 最後の一個に入ってたんです、と言って彼女が手渡してきたのは、食べると幸せになるとか言われてるらしい、ヒゲがついてるクマがチョコレートで印刷された菓子だ。

 手のひらに転がる、子供染みていて軽薄で滑稽なそれを見つめて、幸喜は搾り出すような声で、言う。


「幸せになんてならなくていい。これ以上不幸にならなければ、もう、それで」


 だって、これ以上惨めになんてなりたくない、これ以上の何処にもいけなくたって、苦しい事が、悲しい事がなければ、もう追い詰められて脅かされずに済むのだから。

 震える息を誤魔化すように深く呼吸を繰り返せば、大丈夫ですよ、と彼女は言って、そっと洗濯機の側まで歩いていき、透明な扉に指先を押し付けていて。

 蛍光灯の明かりに照らされたその指先は、やけに白く感じられる。


「全部、洗濯すれば良いんです。嫌な事も苦しい事も、何もかも、全部洗い流せば良いんです」


 自分の形さえ残っていれば、また、まっさらな自分になれるから。

 感情を全て抜け落としたような顔をして、静かにそう告げる彼女の横顔はまるで温度を感じられない。

 ゆっくりと瞬きを繰り返し、茅乃を見つめた幸喜は、思考を置き忘れたまま、ぽつりと問いかけた。


「……それが、お前が洗濯を好きな理由か?」


 振り返る茅乃は、肯定も否定もせず、ただただ淡く微笑んでいる。

 今までのぎこちない曖昧な笑い方とはまた違う、それは、全てを拒絶し、何もかもを諦めた時に浮かべるものだ、と幸喜は思う。

 その感触、その温度、目に映ったものが何なのかを、自分は良く知っている、とも。

 顔を歪めて視線を俯かせれば、彼女が渡してくれた菓子が手のひらの中にあって、暫らくそれを眺めていた幸喜は、ぽんと口の中に放り込んだ。

 幸せになったのかは到底理解出来なかったけれども、ほんのりとした甘みが口の中に広がっている。

 結局の所、こうして全てを噛み砕いて、飲み下して、身体の一部にしていかなければいけないのだろう、と思う。

 どんなに痛くたって、恐ろしくたって、何度脅かされていったって、それが自分を構成する一部なのだと、理解して、折り合いをつけていかない限り、ずっと。

 ごくりと飲み干すと、幸喜は緩慢な動きで自分の鞄を引き寄せて、中からあるものを取り出した。


「手、出して」


 不思議そうに首を傾けながらも、そう言った幸喜を全く疑う事なく茅乃は手を差し出してくる。

 差し出された、未発達の子供らしさを失わない、嘗ての自分さえ持ち得ない柔らかな輪郭を保つ手のひらを眺めた幸喜は、瞬きを繰り返すと、そこに鞄から取り出したものをそっと乗せた。

 彼女の色素の薄い大きな瞳は弾かれるように瞬いて、次第にゆっくりと焦点を合わせ、温度を取り戻している。

 はくはくと何度か唇を動かした彼女は、ひゅうと勢いよく息を吸い込むと、大きく口を開いていて。


「これ、一個千円以上する柔軟剤の試供品じゃないですか!」


 信じられない、と慌てふためく彼女の様子がおかしくて幸喜は思わず口元に手を当てて笑ってしまう。

 彼女が握り締めた白地にアイボリーの花が印刷されたその小さな袋は、洗濯洗剤を買いに行ったドラッグストアで偶然貰ったもので、普段なら面倒で捨ててしまう事も少なくはないのだけれど、ゴミとして捨ててしまうくらいならば、活用してくれる人の元へ渡した方がいいのでは、と考えて持ってきたものだ。


「やる。俺は使わないから」

「本当にいいんですか? 絶対に返したりしませんよ?」

「どーぞ。見た感じ女性向けっぽい香りだろうから、貰ってくれた方が逆に助かる」


 そう言うと、彼女はわっと歓声を上げて嬉しそうにそれを握り締めていた。

 洗濯に関するものだから欲しがるかもしれない、と思って持ってきたのだけれど、流石に此処まで喜ぶとは思わなくて、幸喜は強張っていた身体からすっかり力が抜けていくのを感じていた。

 ありがとうございます、と何度も礼を言う彼女は、ふふ、と、吐息混じりに笑みを零すと、困ったように眉を下げていて。


「あのお菓子を食べたのは幸喜さんなのに、私の方が幸せになってどうするんですか」


 幸喜さんって、本当にお人好しですね、と笑う茅乃の後ろから、うっすらと明るくなっているのを感じて、幸喜は窓の外を見た。

 散々降っていた雨は勢いを落とし、重苦しかった雲も薄くかかる程度に変わっている。


「雨、上がりましたね」


 しなやかな指先が窓の向こうを指し示しているのを見て、幸喜は笑って頷いていた。

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