第10話 痛いの痛いの飛んで来ないで
一週間だらだらと降っては止んでいた雨は週末にはすっかりと上がり、突き抜けそうな程の青空を見せている。
やっぱり晴れていた方が気分が良いし、何より、洗濯物が綺麗に乾いて良い。
茅乃はまだ完全に乾ききっていない通りを歩きながら、そうしみじみ思う。
先週末に幸喜とコインランドリーに行ってからも、別段変わりなく交流が続いている事に、茅乃はほっとしたのと同時に、何故だかどうしても、悲しい気持ちに、なってしまっている。
いっそ犬や猫なら、鳴いて鼻先を擦り寄せてでもしてくれたのだろうか、と考えて、茅乃は眉を下げて小さく笑みを浮かべた。
泣いたって鳴いたって、誰も助けに来てくれない事を、きっと彼も知っている。
けれども、その事を、確かに自分は酷く悲しいと思っているのだ。
悲しいだなんて、もうとっくに擦り切れて無くなってしまった気持ちだとばかり思っていたのに。
深く沈み込んでいきそうな気持ちを切り替えるように、気に入っている青いワンピースの裾を軽やかに揺らし、交差点まで歩いていくと、いつも学校へ向かう時に使用するバス停が左手に見えた。
向かいは幸喜の住んでいるアパートで、今日もきちんと洗濯物が下がっている。
朝に弱いのか、それとも仕事で疲れているのか、いつもその洗濯物の中には端が丸まっているタオルが見つかるので、つい確かめてしまうのだけれど、休日の為か、今日はきちんと皺を伸ばした状態で干されていた。
今週末、幸喜は用事があるそうで、会う約束をしていない。
幸喜は意図的に茅乃と顔を合わせないように洗濯物を干しているらしく、茅乃がアパートの向かいにあるバス停に向かう時には、すっかり洗濯物が並べられているし、そもそもここ一週間は天気が悪く、外干しが出来なかったので、彼がどうしているかは電話などでのやり取りでしか知れないのだ。
だから、というわけではないのだけれど、と茅乃はいつも学校に通う時に使うバス停まで歩きながら、考える。
だから、休日である今日にバス停に行くのは、あくまでも少し大きな駅の方へ買い物に行く為であって、その為にはそのバス停を利用する以外の方法がないだけであって、別にストーカーのように幸喜を監視をしているわけでなくて、ただ単にこのバス停を使うから必然的に彼の部屋のベランダが見えてしまうだけなのだ、と誰にしているのかもわからない言い訳を脳内でごちゃごちゃと拵えている、始末。
信号が変わる程度の僅かな時間ベランダを見てから、茅乃はそっと息を吐き出して視線を下げた。
幸喜の住んでいるアパートには隣に車が三台停められる駐車場があり、その奥に屋根付きの駐輪場が設置されている。
せめて幸喜の乗っている自転車さえ分かれば、不在かどうかくらいわかるのに、と考えてこっそり覗き込むと、思いがけない光景に、茅乃は思わず、え、と声を溢した。
幸喜が、駐車場にいる。
そこまでは別段変わった様子はなかったけれど、知らない男性が背後から幸喜を羽交締めにしている——ように見える、のだ。
何か揉めているのだろうか、幸喜は男の腕を引き剥がそうとしていて、それを男は飄々と躱している。
咄嗟の事に茅乃は気が動転してしまい、どうにかしなきゃ、そう呟いて、携帯電話を取り出すと、慌てて横断歩道を渡って彼らの元へと駆け出した。
「こ、幸喜さんを離して下さい! 警察を呼びますよ!」
ばくばくと激しく鳴り響く鼓動を押さえるように片手を胸に当て、もう片方の手を伸ばして携帯電話を突きつけながら茅乃が声を張り上げると、男はふらりと顔を向けていて。
その吊り上がった目元に既視感を覚えて茅乃が眼を瞬かせると、苛立ち混じりの低い声が男の前から響いてくる。
「
その声に、茅乃が思わず身を強張らせると同時に、男が、ぱ、と素直に手を離していた。
深く長く息を吐き出したのは、首周りを擦っている幸喜で、怒っているような声をしていたわりに、その表情は呆れ果てたものだ。
茅乃がいつもとは違う幸喜の様子に声をかけるのを躊躇っていると、目の前に先程の男性がひょっこり顔を出していて、驚いて声を上げそうになった茅乃は、慌てて口元を押さえて彼を見た。
好奇心で眼を輝かせている男は、幸喜より少し年上だろうか。
その顔立ちに先程から妙な既視感を感じるけれど、この状況下で上手く思考が回らない。
そんな茅乃が戸惑い、狼狽えていると、彼は笑みを浮かべたまま首を傾けている。
「あれ? もしかして、君が茅乃ちゃん?」
「な、何で、私の名前、知って……?」
「修司」
顔も知らない相手に名前を知られている事に驚愕し、ぞわりと足元から湧き上がってくる恐怖心から、思わず幸喜を見上げると、彼は男から庇うように茅乃の目の前へ立った。
その広い背中に、ほ、と息が漏れ出てきて、茅乃は思わず彼のシャツの裾をそっと掴んでしまう。
微かに洗剤の匂いがして、無意識の内に鼻先を近づけようとすると、「怖がらせてどうすんだ」と幸喜が男に向かってやや怒った口調で言うので、茅乃は慌てて彼を見上げてしまっていた。
以前アパートの前で酔っ払いの男に腕を掴まれた時にくらいしか聞かなかった、厳しい声だ。
幸喜を助ける筈が、すっかりと立場が逆転してしまった事に落ち込んでしまった茅乃がしおしおとしょぼくれていると、男は困ったような声で話をしている。
「うーん、怖がらせるつもりはなかったんだけどなあ。ほら、俺達とっても仲良しだし、怖くないよ」
頭を傾けたまま肩を竦め、困ったように眉を下げて笑う彼は、そう言うと幸喜の頭を撫で回しているけれど、幸喜はうんざりした様子でその腕を振り払っている。
幾ら何でも距離が近すぎる対応に茅乃が呆気に取られていると、幸喜は深く長く息を吐き出し、振り返って茅乃を見た。
複雑そうな顔をしているけれど、本気で怒っている様子はないので、本当に仲の良い友人か何かなのだろうか。
服の裾を掴みながら狼狽えていると、彼は面倒そうに口を開いている。
「悪かったな。こいつ、俺の兄貴。
「……幸喜さんの、お兄さん?」
思いがけない言葉に改めてまじまじと二人を交互に見れば、確かに顔の造りはよく似ているが、それを気付けない程に雰囲気がまるで違う、と茅乃は思う。
目つきが悪くて愛想もなく、一見すると怒っているようで近寄り難い幸喜と違い、修司は終始笑顔を絶やさず温和そうで、その笑みも人懐っこくて人好きのするものだ。
幸喜さんがドーベルマンなら、お兄さんはゴールデンレトリバー、かな。
そんな事を密やかに茅乃が考えていると、修司はにこりと笑いかけている。
「俺が関わるとちょっとやばいしバグるけど、普段はまともな筈だから」
「幸喜が大好きなだけでやばくもバグってもないけどなあ」
「自覚がないやばい奴は皆そう言うんだよ。ていうかいちいち近づくな」
怖がってるだろ、と、庇うように茅乃の前に腕を伸ばした幸喜は、茅乃の顔を覗き込もうとしている修司を追い払って軽く蹴り飛ばしていた。
いつもならば邪険に扱われている事が多いけれど、修司がいるからか、それとも怯えた顔をしているからか、わからないけれども、今ばかりは特別扱いをされているように感じられてしまっている現状に、思わず緩む頬を両手で押さえた茅乃は、すっかり浮ついた気持ちになっている自分を内心で嗜めた。
「怖がらせるつもりはなかったんだけど、ごめんね?」
「い、いえ、こちらこそ、すみません……」
そう言って眉を下げて笑いながら謝ってくる修司は、人の入り込まれたくない場所に決して無遠慮に踏み込まない幸喜と違い、いつの間にかそこに入り込んでいるような、独特の距離感で接してくる。
人によっては酷く嫌われそうだが、学校でも目を引いてたくさんの人に囲まれるようなタイプの生徒も似たような性格だったな、と思い、茅乃は密やかに息を吐き出した。
遠慮の無く踏み込みながら素直に謝れる辺りが、人に好かれる秘訣なのだろうか。
そうだとしても、と茅乃がそっと幸喜の顔を覗き込めば、彼は困ったような顔で謝ってくれていた。
そうだとしても、自分にとっては、こうして側にいて安心出来る、幸喜のような人の方がいい、と茅乃は思う。
傷付く事を知っているから、傷付かないように接してくれる彼の側は、酷く安心するから。
幸喜の背中から離れず、伺うように見た修司は、少し考える素振りをすると、茅乃に視線を合わせて楽しそうに、言う。
「じゃあさ、お詫びにうちでご飯ご馳走するよ。志穂がご飯作ってくれてるから、これから皆で食事する予定なんだ。良かったら茅乃ちゃんも一緒にどうかな」
「はあ? 何言ってんだ」
「大丈夫大丈夫。志穂もいるし」
「志穂さん?」
修司の提案に幸喜は唖然とした顔をしているが、茅乃は以前駅で会った女性を思い出し、思わず頭をことりと傾けた。
「そう。駅で会ったでしょ? 茅乃ちゃんの事もね、志穂から聞いたんだよ」
「聞いたっていうか、聞き出した、の間違いだろ」
幸喜は面倒そうな顔をしていて、どうにかこの話を打ち切ってしまいたいのは明らかだった。
志穂は義理の姉と言っていた。
ならば、彼女は兄である修司の配偶者なのだろう。
彼女と会った時に、身内ならではの親密さを感じられなかったのはそのせいだったのだろう、と考えて、茅乃は口元に指を寄せた。
あの時、幸喜は酷く動揺していたけれど、今はいつもと変わらない、とは言えないまでも、落ち着いた様子をしている。
それが何故なのか、きっと彼は話してはくれないだろう、とは思うけれど。
茅乃は考えて、手のひらをぎゅうと握り締めた。
コインランドリーでうなされていた時や、駅で見た何処か怯えているかのような表情をしていた時、ほんの少し、あの眼が、自分と似ているような気がして、どうしても気になってしまった、のだ。
きっと、あの時手を伸ばしたくなったのは、自分がそうして欲しかったからで、それが、どんなに自分勝手で自分よがりな思いなのかを、理解していても。
この繋がりが呆気なく切れてしまったら、本当に自分が自分ではなくなってしまう気がして。
だから、と揺らめいた視界を振り切るように、茅乃は幸喜に顔を向けた。
戸惑うように見つめ返してくる彼を見て、茅乃は両手をぎゅうと握り締める。
「私、行きます」
茅乃の答えが思いがけないものだったのだろう、幸喜は口をぽかんと開けて驚いている。
「ま、待て待て。良く考えろ。おかしいだろ」
「幸喜さんも一緒に行くんですよね。それなら行きます」
「だから、駄目だって」
どうにか宥めようとする幸喜に、茅乃はどうにか食い下がっているけれど、流石に兄弟の家に連れていく、という事が彼の倫理観に反しているのだろう、なかなか首を縦に振ってはくれない。
何か良い言い訳がないかと思っていると、修司が楽しそうに問いかけてくる。
「茅乃ちゃんって高校生だよね?」
その問いかけに、茅乃は思わず頷きかけて、慌てて顔を背けた。
果たして修司が信用していい人物かはわからないけれど、正直に答えるのはあまり良くない気がしたからだ。
この辺りならそうだなあ、と両腕を組み、指で腕を叩きながら、修司は何処か楽しげに次々と近隣の高校の名前を言っていく。
「
笑みを浮かべながらも、しっかりと反応を見ている修司の視線に耐えかね、思わず肩が跳ね上がってしまうのを、彼は決して見逃さなかったらしい。
正解を言い当てた事を確信して、小さく何度も頷いている。
「紬丘なら、志穂の友達に卒業生がいるよ。しかも、家庭科実習の助手やってる人が。名前、篠原さんだったかな。幸喜は色々気にしてるみたいだけど、何かあったらそこらへんから上手く誤魔化すから大丈夫だよ」
何故彼が実習助手の名前まで正確に言い当てる事が出来ているのか甚だ疑問だが、確かに存在する人物と名前が一致している。
その事があまりに恐ろしく、茅乃は怯えて幸喜の背中にぴったりとくっついた。
「あ、あの人、本当に幸喜さんのお兄さんなんですか……?」
茅乃の問い掛けに、幸喜は渋面を浮かべて、それについては俺も時々疑問だけど、と言いながら、溜息を吐き出している。
「修司。いい加減にしないと本気で怒るぞ」
「でもさあ、来たいって言ってるのに置いてくのも可哀想でしょ」
だから言い訳を作っただけ、と笑顔を浮かべる修司に、幸喜は呆れた表情を浮かべている。
口先だけで勝てる相手ではないのだろう、暫く視線を俯かせて悩んだ幸喜は、深く長く息を吐き出すと、顔を向けて茅乃を見た。
「俺の言う事は絶対に聞くし、不安かもしれないけど心配しなくていいから。……それより」
確かめるように見つめてくる幸喜に、茅乃はぱちぱちと瞬きをしてから、にっこりと笑顔を浮かべた。
今彼が浮かべているのは、諦めて観念している時の表情だ、と理解したからだ。
「本当に行きます。絶対に行きます」
茅乃があからさまに喜んで頷きながらそう言えば、幸喜は額を押さえて溜息を吐き出している。
「……もう勝手にしてくれ」
「はい!」
じゃあ早速行こう、と意気揚々と言う修司の後を、二人はゆっくりと着いて行った。
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