第20話 星屑とメモリーレーン
鼻をすんと鳴らし、膝を抱えた茅乃はひとしきり泣いた後、大きく息を吐き出して手のひらでぐいと濡れた頬を拭うと、顔を上げていた。
無理に笑おうとするのでその表情はぎこちなく、既に赤く腫れぼったくなっている目元はどうにも痛々しく見え、ハンカチを差し出すと、戸惑ったように視線を向けてくる。
幸喜がそっとそれを彼女の目元に押し当てると、くすぐったいのか、彼女は困ったように笑っていた。
そんな姿を見ていると、幼い子供の面倒でもしているような気持ちになって、幸喜は苦笑いを浮かべてしまう。
「何かあったんだろ」
その言葉に、茅乃は一度口を開きかけて、止めた。
唇を噛み締めて視線を足下にうろつかせているのは、自分の中に溜め込んでいたものについて、話すかどうかを悩んでいるからだろう。
彼女は暫くそうしていたが、やがてへらりと曖昧な笑みを浮かべて、「大丈夫ですよ」と言い出すので、思わず幸喜は深々と溜息を吐き出してしまった。
「お前の大丈夫は大丈夫じゃないって今回のでよくわかったから、それは却下」
溜め込むだけ溜め込んで、挙句の果てにこんなふうに爆発するのなら、もっとちゃんと言ってくれればいいのに、と幸喜は考えて、けれど、それが出来ないからこそこうなってしまったのだろう、とも思い、ぎゅうと眉を寄せた。
もっと上手く聞き出せれば良かったのだろうけれど、生憎、口が上手くないのでこんな時でさえ、何と言っていいのかわからないのだ。
茅乃は暫く俯いて、自分の爪先をじっと見つめていたけれど、少しずつ冷えてきたペットボトルを手のひらの中でゆらゆらと揺らしている。
「委員会って言ってたの、嘘なんです」
「うん」
すんなりと頷いた幸喜を見た茅乃は、驚いたように顔を上げた。
「驚かないんですか?」
「別に。お前さらっと嘘吐く事あったし。何か事情があったんだろ」
幸喜があっさりとそう返せば、ばつが悪くなってしまったのだろう、茅乃は口先を尖らせて顔を背けると、抱えていた膝に頰を押し付けている。
バス通りには車が途切れる事なく走っていて、ライトが彼女の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
頼りなげなその姿を見つめていると、まるであの時の自分を外側から見ているような気持ちになって、幸喜はゆっくりと足元へと視線を向けた。
「別に、事情を話して欲しいとかじゃないから」
呟くように言うと、茅乃はゆっくりと振り返り、困ったように眉を寄せている。
「……何も言わなくても、いいんですか?」
「聞かれたくない事なんて沢山ある、って言ってただろ。俺だって言ってない事あるんだし」
それに、と付け足して、幸喜は一度口を噤んだ。
あの時、そんな事を望んでいたのかは、今でもよく、わからないけれど。
「助けてとか、苦しいとか……、多分、俺には重過ぎて言えなかった、から」
そう言って思い出すのは、ぼんやりとして覚束ない、幼い頃の記憶だ。
幸喜が小学生の頃に、母親はある病気を患った。
幼かった上に、幸喜が母親に関する事全てを知るのを嫌がった修司がほぼシャットアウトしていた為に、未だにどういった病気なのかは詳しくは知らされていないけれども、とにかく酷く怠く疲れやすくなってしまう上、精神的にも落ち着かずに苛立ったりする症状が出てしまうらしい。
父親は仕事で夜遅くまで働いていて、病状が酷くなっていた母親は次第に家事を疎かにせざるを得なかったので、家の事はほぼ全て、中学に上がったばかりの修司が片付けていた。
兄は幼い頃から器用でそれなりに何でも出来てしまう人であったから、そつなくこなしていたけれども、それが彼の負担になっているのはよくよく理解していたので、幸喜は拙いながらも彼の手伝いをしていたものだった。
母親の病状がようやく落ち着いてきた時、修司もやっと家の事から解放されて、学校生活を自由に過ごせる事がたいそう嬉しそうだった事は、幸喜もよく覚えている。
けれど、それから半年程経ったある日、学校から帰ってきたばかりの幸喜は、何故か突然、母親に強く手を引かれてベランダに放り出されていた。
それはとても寒い冬の日で、マンションの三階という場所からして閉じ込められてはどうする事も出来ず、そもそも、あまりに突然の状況に、ただただ呆然と立ち尽くしかなかった。
幸喜が冷たさのあまり身体が震えて窓に縋り付くと、カーテンの隙間から母親が瞬きもせず、目を見開いたまま自分を見つめている。
その、ガラス玉のように透明で、何も感じていないかのような無機質な瞳に驚いて背後に飛び退くと、ゆっくりと窓の鍵が開けられて、にっこりと笑顔を浮かべた母親が捲し立てるように何かを話しかけてくる。
その支離滅裂で意味を成さない言葉の羅列に、幸喜はただただ震え、怯える事しか出来ずにその場から動けなくなっていた。
後になって、母親は先の病気が治ると同時に精神病を患っていたのを聞かされたのだが、当時は母親の中身が突然何か悪いものと入れ変わってしまったかのように感じられていたものだ。
あの時を思い出すと、今でも思う。
人間の中身は、こんなにも簡単に壊れていくものなのか、と。
不思議な事に、そうした変化には波があるようで、大抵兄が学校から帰宅した時にはぐったりとして寝室に引きこもってしまい、朝から夕方辺りまでが特に異常な行動をする事が多かった。
金切り声を上げて暴言を吐かれたり、ゴミ箱の中身を投げつけられたり、腕を捻り上げられるくらいはまだいい方で、酷い時には包丁すら持ち出して顔に押し付けられそうになった事さえあった。
いつも口を挟めないほど捲し立てる話し方をするくせに、何故だか修司の言葉だけはしっかりと届くようで、見かねた修司が母親を宥めては大人しくなっていたのを、幸喜は申し訳ない気持ちで見ているしかなかった。
ごめんな、お母さんはまた病気が悪化しているだけだから、という修司の言葉を信じるほかはなく、また、家の事で振り回されていた修司がやっと解放されて楽しげに過ごしているのを見ていると、再び家に囚われてしまう事に酷く罪悪感を覚えてしまい、母の奇行をどうにか兄には悟られないように、と幸喜は兄には内緒で、荒れている家の中を片付けるようになっていた。
そうして、そんな事が続いていたある日、連日母親に振り回されて酷く疲れきってしまった幸喜は、また腕を強く掴まれてベランダへと放り出されていた。
その日も冷たい雨が降る寒い日で、頭の中は既にぐちゃぐちゃになってやけにぼんやりとしていて、窓の向こうで独り言を言いながらこちらを見つめる母親から目を逸らせば、ベランダの向こうで赤や黄色の光が見えていて。
もしかしたら、そっちに行けば、少しは楽になれるだろうか——。
そう考えていた事までは覚えているけれど、そこから先はよく覚えておらず、気がついた時には病院のベッドの上で幾つものコードやら点滴やらに繋がれている状況だった。
父からも兄からも、勿論母親からも、詳しい話を聞く事は出来ず、ただ事故に遭ってしまったのだとだけ言われて、幸喜は困惑したまま頷く事しか出来なかった。
そもそも高熱にうなされて身体中があちこち痛くて堪らなかった上に、日に何回も交換される点滴や傷口の確認などに追われて、それどころではなかったのだ。
漸く痛みも落ち着いてきた頃には、噂話をしている看護師達の声に聞き耳を立てて、三階のベランダから転落したにも関わらず、額を何針も縫う傷と足の骨折だけで済んだのは幸いだった、という事と、その幸喜を一番最初に発見したのは学校から帰宅したばかりの修司と、一緒にいる志穂だった、という事、母親が精神科に入院をしている事を知ったのだけれど、その事について父や兄、見舞いに来た人達全員に聞いてみても、誰一人答えてはくれなかった。
特に兄である修司は苦しそうに顔を歪ませて何度も何度も頭を下げて謝罪を繰り返していて、今でさえその話をするのは躊躇われ、聞くに聞けずにいる。
病室から離れた場所で罪悪感に苛まれて泣いている兄を見ているのは、まるで画面越しの出来事のように遠く感じるのに、同時にとてつもない申し訳なさをも感じてしまっていたのだ。
頻繁に見舞いに来てくれていた志穂も、幸喜の前では気丈に振る舞っていたけれど、時折、ロビーや談話室で泣いていたのを見かけた事があった。
大抵は修司が側にいて志穂を慰めていたけれど、修司には志穂が、志穂には修司がいてくれた事は本当に良かった、と幸喜には思えたものだ。
あの時、助けて、と口に出来なかったのは、そんな場所さえ壊してしまいそうと思っていたからで、だからこそ、彼らには何も言えなかったのだろう。
ぼんやりと顔を上げれば、不安そうに見つめてくる茅乃と目が合って、幸喜は苦笑いを浮かべた。
ごめん、と呟くと、彼女は緩やかに首を振る。
何かを壊してまで、自分が救われたいと、願っていいのか、と。
そう彼女も怯えているのかもしれない。
考えて、幸喜は手のひらを握り締めた。
「でも、助けになれる事があるなら、手を貸したいって、思ってるよ」
例えばあの少女のように、誰かに助けを呼ぶなんて出来ない。
でも今は、それで良い、と思う。
それはきっと、自分と同じように、声を上げる事が出来ない人の気持ちに寄り添えるという事ではないか、と思うから。
「全部を言わなくても、一つも言えなくてもいい。俺が出来る事なら何でもする。それで茅乃が辛い思いをしなくて済むなら、それだけは言って欲しい」
勿論、話したい事があればちゃんと聞くから、と言えば、唇を噛んだ茅乃は一度俯いて、それから、震える息を吐き出すと、顔を上げてしっかりと視線を合わせていて。
水分のたっぷり含まれた瞳から、水玉が溢れてしまわないよう、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
「幸喜さんは、本当にお人好しですね」
そう言うと、茅乃は笑って、静かに話し出していた。
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