第19話 アイネクライネを探してる
茅乃から連絡が来なくなって、もうじき一週間が経とうとしている。
拒否をされているわけでもなく、既読がつくので生存確認は出来ているし、一方的にメッセージを送れてはいる。けれど、返信が来た試しはない。
声を聞くどころかどういった状況なのかもわからないので、どうにも落ち着かず、やる事なす事全てに手がつけられなくなりそうだ、と幸喜は職場から自転車でのろのろと帰りながら、深く長く息を吐き出した。
日中は気にならないのに、夜になると少しずつ寒さが感じられるようになっていて、そんな些細な変化にすら、酷く気分が落ち込んでいく気がする。
仕事自体に支障は出ていないのだけれど、作業に集中し過ぎて声をかけられても気づけなかったり、休憩中にぼんやりとしている事があったりして、普段から温厚で周囲に気遣いを絶やさない部長だけでなく、能天気で遠慮の欠片もない同僚の
どうにか茅乃と連絡を取れないか、いっその事、志穂や修司の繋がりを辿って無理にでも接触するべきなのだろうか……、考えてはみるものの、もしそれで彼女から拒否されたり、余計に事態が悪化してしまったりするのではないか、とも悩んでしまって、身動きが取れずにいる。
だが、それも動こうとしない自分への言い訳でしかないのかもしれない、と再び息を吐き出すと、職場から自転車で三十分の道程はあっという間に過ぎていたらしい。
考え事をしながら運転していた、という事にげんなりとしながら車輪を滑らせて交差点を曲がり、自宅前のバス停がある通りに入った所で、幸喜はふと顔を上げた。
街頭のけばけばしい灯りに照らされたバス停の側に、誰かが立っている。
夕方は大抵混み合っている場所だけれど、それ以降はバスから降りて帰ってくる人や、反対方向のバスを利用する人の方が多く、今の時間からバスに乗り込んで行く人は少ない。というより、滅多にいない。
何かあったなら別だけれど、こんな時間に大変だな、等と考えていると、その人物は丁度、幸喜の部屋辺りを見つめている。
白っぽい服に、長い髪、若そうな女性。
バス停まで自転車を滑らすと、その人物は途方もない顔をして、ベランダを見上げていて。
「……、お前、何してんの?」
こんな所で。
数週間会っていなかった茅乃は酷く疲れ切った顔をしていて、思わずそう呟くと、焦点の合わないような虚ろな瞳が、どうにか幸喜を認識しようとしているのか、ゆっくりと瞬きを繰り返して見つめている。
白っぽい服だと思っていたのは白い制服で、鞄らしいものは手にしていない。
その代わり、爪が食い込む程に握り締めているのは携帯電話だ。
何かあったのだろうか、と思いながら道の端に自転車を置き、側へ近寄ると、彼女は小さく、あ、と微かな声を零した。
声を出した事に自分自身驚いたのか、大きく眼を瞬かせ、両手で口元を押さえた茅乃は、じりじりと足を引くと、突然背中を向けて駆け出してしまう。
あまりの事に驚いた幸喜は、僅かな時間呆然として、それから、慌ててその後を追いかけた。
色素の薄い髪を跳ねるように揺らして走る茅乃は、少しも周りが見えていないのだろう、何の躊躇もなく十字路さえ突っ切って行ってしまい、左右を確認する事すらしていない。
住宅街の中とはいえ、車や自転車が走っていないわけではないので、追いかけている幸喜にとっては気が気じゃない。
想像以上に彼女の足が速い事に、鈍臭いだの鈍いだの言っていたくせに、と幸喜は内心で悪態吐きながら歯を食い縛り、爪先に力を込めて彼女を追いかける。
茅乃は道を曲がるという事はせず、ただひたすらに住宅街の中をまっすぐに駆け抜けていて、時折勢いでつんのめってしまい、転びそうになるのを懸命に堪えて、それでも前へ前へと進んでいく。
暗くなった中でぼんやりと光るように見えるアベリアの花が植えられた住宅街を抜け、緩いカーブになっている道をぐんぐんと進み、小さな公園の脇を進んでいき、やがて、突き当たりに行き着いた所で、茅乃は突然の事に驚いたのか、慌てて立ち止まり、狼狽えた様子で左右を見た。
どちらに行っていいのか、自分でも良くわからないのだろう。
今しかない、と手を伸ばしたすんでの所で、身を捩りすり抜けていく茅乃の後ろ姿に、思わず幸喜は冷たくなった空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「……っ、茅乃!!」
静かな住宅街に、声が響いている。
自分の鼓動と、叫んだ声に脳がぐらぐらと揺れるような感覚を覚えて前を見ると、あれだけ動き回っていた彼女の足は、ぴたりと止まっていた。
幸喜はぜいぜいと煩い呼吸をどうにか整えようと大きく息を吐き出し、無理に取り込もうとした酸素が上手く肺に届かずに軽く咳き込むと、膝に手を当ててまた息を吐き出した。
茅乃は振り向く事もせず、その場で俯いたまま、引っかかるような呼吸を繰り返しながら身を竦めている。
「……何してたんだ?」
こんな遅くに、と言いかけて、見ただけでも彼女の肩ががたがたと震えているのがわかって、思わず幸喜は口ごもった。
茅乃は顔を上げる事はなく、地面を見つめたまま、何でもないです、と掠れた声で呟いて、胸元を押さえた両手を強く握り締めている。
幸喜が息を整えながら近づこうとすると、茅乃は一歩後退り、ひ、と唇から引き攣った声が漏れ出ている。
段々と荒くなっていく呼吸に、何か言わなくては、と焦った幸喜が口を開くと、彼女は耳を押さえ、その場に蹲るかのようにしゃがみ込み、身を縮めてしまう。
「お、怒らないで下さい……、ごめんなさい、お願いします、怒らないで、お願いだから、もう怒らないで……」
泣き出しそうな声をしているのに、泣いてはいない。
泣く事すら出来ないのだろう、圧倒的な恐怖に脅かされている時、溢れるような涙は案外、出てこないものだ。
大きく目を見開いて息を潜め、傷つけられないよう震える身体を丸めて、ただその恐ろしさが過ぎ去るのをじっと待つしかない。
それを、幸喜はよく知っている。
同じものが、この身体にもあったのだ。
いや、今でも、この皮膚の内側に残り続けているのだろう、と幸喜は思う。
茅乃は過呼吸を引き起こしそうな程に呼吸が浅くなっていて、それに伴って身体の震えも酷くなっていく。
夜の空気は冷えている筈なのに、皮膚の外側はやけに熱く内側だけがやけに冷たく感じられ、胸底が騒めいていく。
幸喜はゆっくりと瞬きを繰り返し、静かに彼女の側にしゃがみ込んだ。
「茅乃」
名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ね上がる。
幸喜は彼女の神経を刺激しないよう、出来る限り慎重に、口を開いた。
「俺、怒った声してるか?」
その言葉に、茅乃はすぐに頭を振る。
その事にほっとして、幸喜は言葉を続けた。
「怒った顔、してる?」
茅乃は暫くそのまま動く事はなかったけれど、じっと我慢強く待っていれば、次第に浅くなっていた呼吸が戻ってきている。
震えも少しずつおさまってきている事に安堵していると、彼女は静かに顔を上げていて、ゆらゆらと揺れる瞳が、怯えを隠さないまま幸喜を見つめている。
色素の薄い瞳が、街灯の灯りで透き通って見えた。
「……して、ない」
微かなその呟きに、幸喜は息を吐き出し立ち上がると、笑って頷いた。
自分の状況を少しずつ理解出来始めたのか、茅乃は気まずそうに顔を背けて俯いている。
歩けそうか、と問い掛ければ、すんなりと頷くので、幸喜は彼女を連れて、放っていた自転車の元まで戻り、そのままアパートの駐輪場まで一緒に歩いていった。
スーツ姿の男と制服姿の女子高生が、こんな時間に一緒にいるのを見かけられたら流石にまずいだろうと考えて、幸喜は茅乃を見た。
「とりあえず、そこの駐車場の所で待ってて。着替えてすぐ戻るから」
茅乃はすんなりと頷くので、幸喜はすぐにでも部屋に戻ろうとして、はた、と立ち止まった。
果たして彼女は本当にちゃんと待っているだろうか。
もしいなくなってしまえば、またこんな風に会える事はなくなってしまうだろう。
とはいえ、茅乃が自分との約束を破るようには見えないし、暫く会っていなかった反動なのか、流石に考え過ぎだとは思うけれど……、と、どんどんと不安が募っていくのに耐えきれず、幸喜は思わず振り向いてしまった。
茅乃はそれに気づいていないのか、俯いたまま、地面を見つめている。
「茅乃」
名前を呼ぶと、彼女は驚いた顔で見上げていて。
「ちゃんとそこにいろよ」
「は……、はい」
寒さのせいか、赤らんだ頬を押さえて茅乃が何度も頷くのを見て、幸喜は小さく笑って自宅へと戻った。
***
着替えを済まして鞄を持ち、部屋を出ようとした所でふと思い出して、幸喜は洗ったばかりのパーカーを手にした。
急いで階下へ下りて玄関を抜け、駐車場へと向かう前に近くの自販機で飲み物を二つ買っていく。
心配していたものの、茅乃はアパートと駐車場の間にある縁に背を丸めて腰掛けていた。
ちゃんとそこに彼女がいた事にほっとして、それから、名前を呼ぶと、困ったような顔をして頭を下げている。
「これ着てて。寒いし、制服だと目立つだろ」
黒いパーカーを差し出せば、困惑した顔を向けていたものの、自身の格好を見下ろした茅乃は、ぎゅうと眉を寄せると、おずおずとパーカーを受け取った。
茅乃は首を傾けてパーカーを見つめていたが、何を思ったのか、突然それに鼻を寄せて匂いを嗅いでいる。
「か、買ったばっかのだし、洗ったばっかだから、汚くない、筈、だけど……」
動揺を隠せないままそう言うと、戸惑っていた筈の彼女はすんなりと頭からパーカーをかぶって着込んでいた。
自分には丁度いいサイズのパーカーも、彼女が着ると袖も裾も少し長く、それが恥ずかしいのか、えへへ、と照れくさそうに頰を緩めて小さく笑っている。
「その、何の洗剤使ってるのかな、って気になって」
「何だ、気にするのはそこか……。普通の安いやつですけど」
内心ほっとして彼女の隣に座りながらそう答えるけれど、彼女はまた袖口やフード辺りの匂いを嗅いで、不思議そうな顔をしている。
「でも、何だかとっても良い匂いがするんですよね。柔軟剤は何を使ってるんですか?」
「それはもう良いから。っていうか、もう匂い嗅ぐな」
急激に恥ずかしくなってきて、幸喜は慌てて先程自販機で購入したあたたかいミルクティーを差し出そうとして、止めた。
彼女の手が、酷く赤い。
一体どれくらい外にいたのだろうか、と考えて、幸喜はペットボトルの蓋を少し開けてから、彼女にそれを差し出した。
茅乃は呆然とした顔でペットボトルを見つめてから、何故か泣き出しそうな顔で幸喜を見上げている。
「何?」
「蓋を開けてくれるから……、どうしてかなって」
「どうしてって……、寒そうだし、その手だと開けにくそうだから」
そう言って見た彼女の指先や関節は腫れるように赤くなっていて、いかにも痛そうだ。
寒さで悴んでいるだろうから、上手く手に力も入らないかもしれない、と思ったからこそ蓋を開けたのだけれど、彼女はそこまで潔癖だったろうか、と幸喜は首を傾けた。
一緒に食事をしたのは何度もあるが、今までそうした事を気にした事はなかった筈だけれど。
どうも彼女の気持ちが掴めず、よくわからない、と幸喜は息を吐き出そうとして、止めた。
俯きがちの彼女の横顔、そこから覗く瞳からは、ぱたぱたと大粒の涙が落ちている。
「な……! なん、っでそこで泣くんだよ」
泣くタイミングがおかしいだろう、と狼狽えていると、震えた手が幸喜の服の裾を握り締めている。
街頭の灯りで光を弾くように落ちていく水玉の跡を見つめていると、茅乃は震える唇を開いては閉じ、呼吸を繰り返しながら、瞼を押さえていて。
「寒いからってパーカーを貸してくれたり、開けにくいだろうからってペットボトルの蓋を開けてくれたり、雨で濡れて汚れた服を洗濯してくれたり……、そういうものが、ずっと欲しかったんです」
そういうささやかでやさしいものが、私はずっと、欲しかったの。
そう言って、彼女は膝を抱えて、嗚咽を堪えながら泣きじゃくっていた。
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