第22話 十秒数えたら顔を上げるの
朱音を帰るのをきちんと見送ってから、幸喜は来た時と同じように茅乃と一緒に電車に乗り、バスに乗り継いで帰ってきていた。
流石に遅い時間に一人で帰すのは憚られ、タクシーでも呼ぼうかと考えていたのだけれども、茅乃がどうしても寮の近くまで送って欲しいと言うので、幸喜は仕方なくそれに応じて住宅街の中を一緒に歩いている。
学校の寮での暮らしがどんなものなのかは、そういった経験のない幸喜にはわからなかったが、こんな時間に出歩いていてもいいものなのだろうか。
気になって茅乃に聞いてみれば、規則はあっても他の寮生が誤魔化してくれていたり、届け出を出すのを忘れていただとか言い訳をすれば大目に見てくれる事が殆どのようで、然程問題はないらしい。
厳しすぎるのも考えものだが、そんなにも緩い状況では逆に不安になってくるのだけれど、今回のような状況では助かっているのは確かなのだから、と幸喜は考えて、「ならいいけど」と言って肩を竦めた。
前を歩く茅乃は幸喜の目の前に回り込むと、わざわざ足を止めさせてまで問いかけてくる。
「そんな事より。幸喜さん、朱音ちゃんといつの間に知り合っていたんですか?」
寮まで送って欲しいというのはあくまでも口実で、ただ単にこれが聞きたかっただけなのだろう。
バスや電車内では極力おかしく見られないよう気をつけていたのもあり、話をしにくかったが、暗い帰り道なら、と考えていたらしい。
頰を膨らませて両手を握り締め、あからさまに怒った様子の茅乃に、幸喜は深々と息を吐き出して、頭の後ろを掻いた。
「別に、知り合いっていう程じゃあないって」
「いつですか? いつ会ったんですか? 私に会うより前じゃないですよね?」
そう言って問い詰めてくる茅乃は、ずいと距離を縮めているので、幸喜は後退りをするように身を引いてしまう。
何をしたわけでもないのにしどろもどろになってしまうのは、彼女が身体をくっつけてしまう程に近寄ってくるからだ。
「違うって。ていうか、近寄り過ぎ。離れろ」
「嫌です」
「あのなあ、茅乃」
嗜めるように名前を呼べば、幸喜の腕にぎゅうと抱きついた茅乃は、むずがる子供のように頭を振った。
そのまま頰を肩口に押し付けられているので、彼女の方へ顔を向けてしまえば、吐息がかかる程に距離が近くなっている。
突然の事に吃驚して幸喜が固まっていると、茅乃は聞き取れるのがやっとという程の小さな声で、言う。
「だって、私の方が絶対に幸喜さんの事、好きだもん……」
腕に伝わる柔らかい感触やあたたかな体温、鼻先を擽る花のような甘い香り。
どさくさに紛れて何だかとんでもない事を言われたりしている気がするけれど、混乱した頭では上手く思考が回らず、幸喜は慌てて腕を離そうと力を込めるが、茅乃はそれに対抗するように、ますます身体を密着させてくる。
彼女の柔らかな丸みを帯びた頬は紅潮して赤くなっていて、水分を含み潤んだ瞳が真っ直ぐに見つめていて、それを目の当たりにした幸喜は、わっと顔が熱くなるのを感じていた。
「ちょ……っと待て。俺、あいつの名前も知らなかったし、会ったのさえ二回目だし、どこの誰だかも知らない! それに、連絡先だってお前にしか教えてないって!」
浮気を疑われてる彼氏のような事を言っているのは理解しているものの、他にどう言っていいかもわからず、混乱したまま幸喜がそう弁明していると、茅乃は口先を尖らせながら、ことりと首を傾けている。
「本当、ですか?」
「本当! 本当だから、一旦離れてくれ……!」
むう、と不満げにしながらも、茅乃がどうにか腕を解放した事に安堵して、幸喜は顔を背けて深呼吸を何度も繰り返した。
学生じゃああるまいし、こんな事で動揺するなんてどうかしている、と胸元を押さえている幸喜とは違い、茅乃はつまらなそうに右足の爪先を持ち上げては下ろし、ゆらゆらと揺らしている。
くそ、と悪態を吐きそうになりながらも、幸喜は頭を振って息を整える。
「あいつとは二週間くらい前に、たまたま人を助けるのを一緒に手伝っただけだよ」
「そうなんですか?」
そうして朱音と会った時の事をざっくりと説明すると、茅乃は何故だか次第に表情を強張らせて、俯いてしまっていた。
先程一緒に居た時には仲が良さそうだったのに、と考えて、幸喜は躊躇いながらも問いかけてみる。
「あいつは、平気なんだよな?」
茅乃は小さく何度も頷くと、視線を上げ、困ったように笑っていて。
「朱音ちゃんは、大丈夫ですよ。朱音ちゃんと一緒にいればすぐにわかります。すごく優しくてあったかい子だって。朱音ちゃんは本当に、とても大事に、大切にされてて……、優しい気持ちを知ってる子だから」
茅乃が朱音を良く言っているのはそれが本当の事だからなのだろうけれど、朱音を良く言えば言う程に、どうにも苦しげになっていく茅乃の様子に、幸喜は思わず顔を顰めてしまった。
今日少し会った限りではあるけれど、朱音自身がそう悪い人物には思えなかったので、妙な呼び方をしていた祖母とやらが何か関係しているのだろうか。
まだ腫れぼったく赤みの引かない目元や、緩やかな睫毛の先や、柔らかそうな髪を耳にかける仕草をぼんやりと見つめていると、茅乃はその視線に気がつき、口端を歪ませながら笑っていて、幸喜は思わず手のひらを強く握り締めた。
そんなふうに笑わなくていいのに、と、思う。
いつもみたいに、楽しそうに、洗濯の話でもして、笑っていればいいのに、と。
そう出来ない事が、もどかしくて不甲斐ない。
そんな事を考え、十分程歩いた所で、茅乃は白っぽい外観のマンションのような建物の近くで立ち止まった。
恐らく其処が彼女が住まう寮なのだろう。
目線の高さより上にある塀で周囲をぐるりと囲んでいるせいか、想像より威圧的に感じられて近寄り難いけれど、生活の一部としている茅乃には安心して過ごせる場所のようで、ほ、と息を零していた。
パーカーを返さないと、と茅乃は言うけれど、その内に返してくれればいいと幸喜が返せば、何故だか落ち込んだように頷いて、俯いてしまう。
うろうろと視線を彷徨わせているのは、名残惜しさを感じているからだろうか。
その様子に思わず苦笑いを浮かべると、幸喜はひらひらと手を振った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また、明日……」
力なく手を振って、淋しそうに笑う茅乃が寮の方へと向かうと、幸喜も元来た道を戻ろうと足を踏み出した。
数週間ぶりに会えたかと思えば、追いかけたり、泣かれたり、従姉妹を探す事になったり、それが先日会った少女だったり……、たった数時間でとても沢山の事が起きたせいか、整理が追いつかない情報が頭の中をぐるぐると巡っている。
ゆっくりと思い出してくると、何だか無性に恥ずかしくなってきて、思わず幸喜は足を止めた。
初めて会った時、否、ベランダから見られていた時から、彼女には振り回されてばかりだ。
は、と息を吐き出して、何気なく、本当に何気なく振り向くと、茅乃が先程別れた場所から少し離れた所で、口元を両手で押さえたまま、立ち尽くしていた。
帰ったんじゃないのか、と幸喜が困惑しながらも近づいていけば、茅乃はぎゅうと眼を瞑って視線を逸らしている。
「何してるんだよ。早く帰れって言っただろ」
「ええと……、その、すみません」
わかったら帰れ、と言って、今度はちゃんと彼女が帰るまで見守っていると、茅乃は帰り道に足を向けているのに、名残惜しそうに何度も何度も後ろを振り返っているので、それを見ていた幸喜は堪えきれず、思わず吹き出して笑ってしまう。
茅乃はそれを見つめてぱちぱちと瞬きを繰り返していたけれど、次第に彼女も可笑しくなってしまったのか、照れたように笑みを零していた。
「目元、ちゃんと冷やしておけよ」
「はい」
「何笑ってんだよ」
「だって、幸喜さん、振り返ってくれたから」
ずっと振り返ってくれないかなって思ってたから、すごく嬉しくて。
そう言って、柔らかく眼を細めて彼女は笑う。
言いながら、恥ずかしくなってしまったのだろう、赤らんできた顔を誤魔化すように髪を耳にかけると両手を握り締めて、小さく何度も頷いている。
そうして、また明日、と言うと、軽やかにスカートの裾を翻して、茅乃は今度こそ道の向こうへと駆け出していった。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、溜め込んでいた息を盛大に吐き出して、幸喜は顔を俯かせる。
暗い時間帯で良かった、と、幸喜は間違いなく赤くなっているだろう自身の頰を誤魔化すように、手の甲で押さえていた。
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