第4話 表示マークとご褒美ひとつ
「つまり、このタライのマークの下に横棒引っ張ってるのが弱く洗濯しろ、って事で、数字は温度、手のマークが入ってるのが手洗い、バツがついてるのが洗濯不可、って事か」
「そうです!」
机に肘を付き、タブレットに表示された画面をつまらなそうに眺めながらも、少し興味を惹かれつつある己に呆れながら、幸喜は深く長く溜息を吐き出した。
駐車場もある大きい店舗ではあるものの、駅から少し離れているせいか、モーニングが頼めるまで一時間を切った喫茶店の店内は、まだ人は多くなく、店員達も気を抜いているのだろう、小さな声で談笑したりのんびりと備品の補充をしている。
今回、この喫茶店を指定したのは茅乃の方だ。
メニューのどれもがとても大きい、と評判のその喫茶店は、幸喜も利用をした事があるけれど、飲み物一つでさえ食の細い者にとっては過酷と思えるサイズで提供されている。
何食も頼みたいならば、大人数か大食漢を連れてくるしかないけれど、茅乃は嬉々として「一度来てみたかったのだけれど、友人はこうした場所を利用しないので気になっていたんです。一緒に頼んでシェアしたら色んな種類食べれますよ!」と言い、その上で、座席毎に区切られてはいるけれど開放的で人の目があるという条件が整ったこの店舗を提示してきたのだ。
フードコートより距離が狭まるという事に若干の抵抗があったけれど、密かに検索したメニューを眺めている内に、その抵抗が虚しく消えていったのは幸喜だけの秘密である。
その時見ていた香ばしい香りが堪らないピザトーストにカツサンド、芸術的に美しい丸みと厚さがあるホットケーキは、幸喜の目の前に想像以上のボリュームで鎮座している。
「幸喜さん、飲み込みが早いですね」
「そりゃどうも」
一口サイズに切り分けてあるピザトーストに手を伸ばし、口に入れるとチーズの塩味とトマトケチャップの濃厚さを舌に感じ、後からぶわりとまろやかさが口の中一杯に広がった。
トーストはザクザクしていて噛み心地が良く、溢れんばかりに乗せられたチーズとの対比が堪らない。
思わず頰が緩みそうになるけれど、目の前で見つめてくる茅乃の透き通った茶色の眼に気がついて、幸喜は慌てて顔を引き締めた。
茅乃は何が楽しいのか、にこにこと笑いながらミルクティーの入ったカップを両手で包み、少しずつ飲み込んでいる。
「洗濯表示は兎も角、干し方の表記が鬼畜だな」
ピザトーストを片手に、昔の方が見やすいじゃないか、と咳払いをしつつ眺めた液晶画面には、四角のマークがずらりと並んでいる。
四角の中には棒が縦に一本、もしくは二本引いてあるものや横棒や斜線が入っているものもあって、一見すると何が何だかさっぱりわからない。
旧マークならば四角ではなく衣服のマークで、衣服の端に斜線が描かれているものは陰干しとわかる上に、胸元に平と書いてあるものが平干しという一目瞭然さである。
何て分かりやすいのだろう。
一目でわかるものこそ効率化を図れるだろうに、と幸喜は考えるけれど、茅乃は四つに切られていても大き過ぎるカツサンドに戸惑い恐々と持ち上げながら、首を傾げている。
「そうでもないですよ。平干しと吊り干しは横と縦の線で違いを出してあるから、分かりやすいじゃないですか」
「パッと見て分からないんじゃ、生活の一部としてやってられないだろ」
わかりやすさが一番、と豪語する幸喜は、更にその下に並ぶ図形に眉を顰めた。
「アイロンの表示も分かりにくいし……」
もういっそ洗濯機やアイロン本体自体に一覧を表記してくれ、と言えば、流石にそれには彼女も同意したらしい。
確かにその方が分かり易いですよね、と言うと、カツサンドの端の方を恐る恐る齧り、咀嚼すると、分かりやすく目を輝かせていた。
こうしたものを食べ慣れていないのか、サイズの大きさに驚いているだけなのか、分からないけれど、彼女は新鮮な表情ばかり浮かべている。
互いに洗濯の話以外は極力していない為か、いまいち彼女の背景が見えてこない。
茅乃が今手にしているタブレットは彼女の私物であり、それなりの学校に通っている所から見ても、裕福な家庭で育ってはいるようだし、身なりもきちんと整えられているので、悲惨な環境というわけではなさそうなのだけれど。
大らかなのに向こうみずで、それでいてどこか不安定な所が、ある、そのアンバランスさはどうにも危なっかしい、と幸喜は思う。
ぎりぎりの所で彼女を拒絶しきれないのは、そういった所が目につくからかもしれない。
あの頃の自分みたいに、と考えて、幸喜は残りのピザトーストを口の中に放り込んだ。
「こうやって一覧を印刷して、インテリアみたいに飾る人もいるみたいですよ」
そう言って彼女が見せたタブレットに映っているのは、洗濯表示を印刷し、額に入れたものを洗濯機の近くに飾った、洒落た写真だ。
かわいい、今度私も真似してみよう、等とうっとりした表情を浮かべている茅乃に、手についた油を紙ナフキンで拭いながらの幸喜は呆れた顔で溜息を吐き出した。
洗濯物の一覧表示が可愛いかどうかについては、さっぱり理解出来そうにない。
「それにしても、消費者庁のホームページにも載ってるのは知らなかったな」
「ええと……、家庭用品の品質保持の為、とかでしょうか?」
「ふうん、こういうのも調べてみると面白いもんだな」
タブレットを眺めてしみじみそう言うと、茅乃は丸く大きな瞳を悪戯に細めて笑っている。
「幸喜さんは面倒臭がりなのに知識を取り入れるのは好きなんですね」
「まあ、色々知っといて損はないしなあ」
仕事柄、勉強自体は毎日のようにしていないと話にならないから、知識を取り入れるという作業は然程苦ではないのかもしれない、と言うと、茅乃は関心したように頷いた。
同じ内容をルーティンでこなす仕事ではない上に、知識があればある程に良い職種である。
わからなければ理解するまで調べるし、常に新しい知識を吸収する為に、部屋に置かれた本棚には関連する書籍がぎっちりと仕舞われている。
先日勉強の為に頼んでいた本もそろそろ発送されるだろうか、と思い返しながら、幸喜は、はた、と未だにちまちまとカツサンドを頬張っている茅乃を見た。
洗濯物に対しての執着は凄まじいけれど、遅い時間に待ち伏せをしていたり、週末に出かけている彼女は、果たして学生としての本分を全うしているのだろうか。
「お前こそ、ちゃんと勉強してんのか」
問い掛けに、ぎくり、と肩を揺らした彼女は、藪蛇だ、と非難めいた視線を向けるけれど、学生の本分は勉学である。
プライベートについて言及する気は更々ないけれど、そればかりは蔑ろにしてはいけない。
まさかと思い、幸喜が胡乱な目を向ければ、途端に彼女はしどろもどろになり、ええと、だの、それはあれです、だの、曖昧な供述ばかりを繰り返していて、言葉よりも雄弁に事実を物語っていた。
「数学は得意ですよ! その……、化学も好きです、し」
「お前、英語苦手だろ」
「な、なんでわかるんですか!」
「カン」
納得いかない、と頰を膨らませて怒り出す彼女に、幸喜は深く長く息を吐き出した。
見た目は大人しそうで優等生染みているけれど、肝心の成績は芳しくないらしい。
洗濯に対する執着心を勉学に当てたらどうだ、と幸喜が思っている事は感じ取っているらしく、しおしおと俯き肩を落としていく彼女は、今にも泣き出しそうな顔で小さく呟いている。
「前回は危なかったんです……、本当に、本当に……」
その様子から、流石に追撃する気にもなれずに、幸喜は溶けかかって薄まっているアイスコーヒーを啜ったが、湿っぽい空気が混じって、何とも言えない水っぽさが口内に広がっている。
「英語は単語を覚えてないと話にならないから、まずは単語を覚えるしかないな」
最近は本屋でも分かり易い英語の参考書や持ち運びに便利なチェックシートなど豊富に取り揃えているし、アプリなども出ているのだ、そうした力を大いに利用すれば良いのに、と幸喜は考えるけれど、茅乃はそもそもそうした事に労力を割きたくないのだろう。
しまいには「そういう幸喜さんは出来るんですか?」等と恨めしそうに言う始末だ。
その苦手な英単語を毎日のように入力していると知ったら、彼女は卒倒するのではないのだろうか。
考えて、幸喜は小さく笑ってカツサンドを手に取った。
「仕事で使うものだから、英会話が出来るとかそういうもんじゃないけどな。仕事で使うんだよ。英語のドキュメントも多いし」
「ふうん」
茅乃は話題が逸された事に安心したのか、それとも、幸喜の仕事について興味を惹かれたのか、笑って話を聞いているので、幸喜はすっかり居心地が悪くなってしまう。
良いからお前はちゃんと勉強しろ、と釘を刺せば、再び唇を尖らせていたけれど、瞬きを繰り返す内に、ぱ、と顔を綻ばせていて。
「じゃあ、頑張ったご褒美を下さい」
「はあ?」
彼女の突拍子もない発言に、手にしたカツサンドを取り落としそうになって慌てて掴み、再び皿の上に置いた。
パンに挟まれていたパン粉とキャベツが落ち、テーブルの上に散らばっているのを紙ナフキンで集めながら、一体何を言い出しているのか、と幸喜は溜息を零してしまう。
「お願いします! それがあれば頑張りますから!」
「金銭に関わるものは無理だっつんてんだろ」
「違います。褒めて欲しいんです。よく頑張ったね、って。そう言って欲しいんです」
ただそれだけ、と、告げる茅乃は悲痛そうな表情でも何かを羨んでいるような表情でもない、確かに幸喜を見つめているのに、ここではない誰かを見つめているかのような、曖昧で中途半端な笑みを浮かべている。
そんな中途半端な笑い方、しないほうが良いよ。
いつか誰かに言われた言葉を思い出して、幸喜は思わず掴んでいた紙ナフキンを握り締めていた。
「わかった。約束な」
自分でも驚く程にすんなりとそう言うと、提案した茅乃の方が、何故だか困惑した表情を浮かべている。
「え……、あ、あの、本当ですか?」
「何だよ。やらなくて良いならやらないけど」
歯切れの悪いその態度に、からかっていたのだろうか、と幸喜が渋面を浮かべると、彼女は慌てて首を振っていて。
「違います。幸喜さん、そういうの嫌いそうかな、って思ったから」
朧げになった記憶が押し寄せてきそうで、目を眇めてそれを押しとどめながら、幸喜は握り締めていたナフキンを丸めてテーブルの端に置いた。
目の前の茅乃はただ、困ったように幸喜を見つめている。
自分には与えられなかったものを、彼女に与えた事で、無かった事にはならないのに。
それでも、と考えて、幸喜は視線をテーブルの上に移して息を吐き出した。
「そういうのが必要な事もあるだろ」
茅乃はその言葉に、ぱちぱちと瞬きを繰り返していたけれど、やがて嬉しそうに顔を綻ばせて頷いている。
そんな彼女の屈託のなさに、幸喜は仕様がないとでも言いたげに笑みを浮かべていた。
それでも、あの頃の自分まで救われているような、そんな気がしているのだ、と、密やかに考えながら。
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