第2話 部屋の中に響く

 羽中茅乃はなかかやのという女子高生に連絡先を渡してからというもの、彼女は一日も欠かさずに幸喜に連絡を入れてくるようになった。

 向こうみずで勢いのまま動いているようだけれど、気遣いもあるようで、連絡は一日に一回。夜七時過ぎから八時の間だけ。

 それも、業務連絡のような定型文でも目が滑る程の長文でもないのだけれど、返事が面倒に感じない量のメッセージを送ってくるのである。

 少しずつ連絡の頻度を減らし、自然と疎遠になろうとしている幸喜の魂胆を彼女は見抜いていて、だからこそ、奇妙で微かな繋がりを決して途切れさせないようにしているのだろう。

 社会人の幸喜にとって、それは、煩わしいようでも何処か有難くも感じられるものでも、あって、自身がどれだけ拒んだとしても、人里離れた山奥で自給自足でもしない限り、仕事であれ生活であれ、他人と関わりを持たなければ生きていけないのだ、と知らしめているかのようだ、と幸喜は思う。

 至って平穏に、これ以上の何かをすり減らしたくなくて、こんな所まで来たのに、と考えて、風呂上がりにぼんやりと眺めていた携帯電話をテーブルの上に置いた。

 間取りを見た時は然程広さを感じなかったのに、改めて見つめてみる部屋の中は思っていたよりずっと明るくて、自分自身がちっぽけに見える。

 立ち上がり、つけっぱなしのテレビから単調なニュースが流れている事に今更ながらに気づいて、幸喜は冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。

 丁度バラエティ番組が大量に流れている時間帯だけれど、今ばかりは浮ついた笑い声を聞くのはどうにも憚られ、つまらないニュースを聞き流していると、テーブルの上に置いていた携帯電話が震えている。

 見慣れない番号が画面に表示されているのを確認し、ペットボトルの蓋を開けて中身をごくごくと飲み込むと、喉の奥がすっとする。

 大きく息を吐き出してペットボトルを冷蔵庫に戻すけれど、携帯電話は健気にも執念深くも感じられる程に、その震えを途切れさせる事はない。

 一向に諦めそうにないそれに幸喜が観念して画面を操作すれば、明るい声が部屋に響いていた。


「幸喜さん、こんばんは!」


 声の主は茅乃で、何度もコールしていたというのに、ほんの少しも悪びれる様子も、そして、怒っている様子もない。

 寧ろ、その声は喜びを全力で表している。

 電話をしていいか、というメッセージを度々送られていたので、悩んだ挙句に面倒になった幸喜は、先程了承の返信をしたばかりなのだけれど、彼女は僅かな躊躇もなく電話をかけてきたのだろう。


「電話はこっちからかける、って送った筈だけど?」

「五分以内なら通話無料のプランに入っているので大丈夫ですよ!」


 優しいんですね、と、柔らかい声音が聞こえて、幸喜は思わず溜息を吐き出した。

 通話料金は勿論、五分以内という制限を伝えてくる辺りも巧妙で、電話で拘束される時間も然程長くないと知れば構える事がないだろう、と理解して言っているのだろう。

 押しが強く、どんどんと内側に入ってこようとするのに、妙に気遣いをする所が彼女にはある。

 人が嫌悪感を抱くだろう境界線を知っていて、ぎりぎりのラインまで踏み込む癖に、その向こう側は決して入り込もうとしないのだ。

 それは、逆に自分の懐には入って欲しくない、とも言っているかのようだ、と考えて、幸喜はリビングに置いたソファーに腰掛ける。


「それより、下の名前で呼ぶの止めて貰えないですかね」

「どうしてですか?」


 悪びれる様子もなく聞いてくる茅乃に、幸喜は再び溜息を量産した。

 彼女と話していると、その内に溜息製造機と化してしまうのではないか、と思わずにはいられない。

 親しいわけでもないのに名前など軽率に呼ぶものではない、ましてや歳上に対して、と幸喜が苦言を呈するけれど、彼女は楽しそうな声を電話越しに返してくるばかり。


「でも、親しくなるには名前を積極的に呼ぶと良いって聞きました」

「ならなくていいんで」

「幸せと喜び、で、幸喜さん。良いお名前ですよね」

「人の話を聞け」


 けれど彼女は全く話を聞く様子はないらしい。

 ところで、と早速話題を変えようと話しかけてくる。


「幸喜さん、今度の土曜日はお暇ですか?」


 唐突な問いかけに、幸喜は思わず身構える。

 連絡先を渡したのは自らだとしても、こうして連絡を取り合っているだけでもリスクが高いというのに、もし会って欲しいなどと言われたら、更に危険は増してしまうからだ。


「何で?」

「質問を質問で返すのは失礼ですよ」


 彼女の言葉に、口端を引き攣らせた、幸喜は頭の後ろをがしがしと掻いた。

 風呂上がりで湿気を帯びた髪はまだしっとりとしていて、時折爪に髪がひっかっている。


「へえ、人の家の前で勝手に待ち構えてるのは失礼じゃないんだな」


 先日、アパートの前で待ち伏せをした挙句、酔っ払いに絡まれて泣き出しそうになっていた彼女は、流石にその時の事を持ち出されると弱いようで、電話の向こうでしどろもどろになり、拙い言い訳をしている。

 申し訳なかったと思っていますけど、と困り果てたと言わんばかりの声でいうものだから、裏があるようにはどうにも思えず、幸喜は罪悪感を覚えてしまい、追求する気にはなれなかった。

 彼女の何がしかの琴線に触れたのが自分だとしても。

 考えて、幸喜は頬杖をついて考える。

 そうだとしても、彼女が何故自分にこれ程に構って来るのか、自分にはさっぱりわからない。

 自分には、何もないのだ、と思うのに。


「幸喜さんと、たくさん話したい事があるんです」


 けれど、彼女は真剣な声でそう言うのだ。

 諦めてきた全てを手のひらに乗せて差し出してくるような純粋さは、今の自分にはどうしても眩しくて、目を逸らしたくなる、と幸喜は思う。

 その癖、それを払い除ける事も出来ないのだから、重症だな、と考えながら、幸喜は顔を上げて目蓋を閉じた。

 目蓋の裏側から、ぼんやりと光を感じている。


「話、って、洗濯の話だろ?」

「そうです。洗濯の話です!」


 自分自身のスタンスを決して崩そうとしない彼女の姿勢に、幸喜は、ふ、と軽やかに息を吐き出した。


「電話で十分じゃないか」

「そんな事ありませんよ。洗剤の種類だってグッズだって家電だって沢山見て欲しいものがありますし、話題は幾らでも尽きません」

「はあ、そっすか」


 その情熱は一体どこからやってくるのだ、とぼやいていると、電話の向こうが突然しんと静まり返っている。

 不思議に思って幸喜が声をかけようとすると、微かな雑音と共に彼女の声が響いていて。


「もしかして、今は忙しい……、ですか?」


 途端に悲しそうな声でそう問いかけるものだから、幸喜は再び溜息を吐き出してしまう他はない。


「……、今は、そうでもないけど」


 返事を聞くなり、やった、と電話の向こう側で小さくはしゃいだ声が聞こえてくる。

 連絡の頻度を減らしたとしても、結局、彼女は諦めようとはしないだろう。

 酷く突き放さなければならない筈なのに、どうしてもそれが出来ずにいる自分自身に呆れながら、幸喜はソファーの上で身体を横たわらせた。

 緩いスプリングが揺れて、身体を頼りなく沈ませている。

 眼を閉じると、じゃあ約束ですよ、と念を押すように何度も彼女が言う声が聞こえている。


「忘れないで下さいね。私、絶対に待ってますから。何時間でも!」

「これ程説得力のある待ち合わせもないな」


 人の声を耳元で聞きたくない、という理由でスピーカーにしていた携帯電話から、部屋の中に彼女の声が広がっていくのを感じながら、幸喜は緩やかに目蓋を開いた。

 明るくて広く感じていた部屋の中は、いつの間にかちっぽけで騒がしい。


「楽しみにしていますね」

「はいはい」


 絶対ですよ、と何度も言い聞かせるような彼女の声に、幸喜はいつの間にか口元を微かに緩めていた。

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