わたしのせんたく
七狗
第1話 わたしのせんたく
新築、三階建の木造アパート、正面玄関はオートロック。
職場には自転車で三十分、という好立地のその場所は、バス通りに面してはいるけれど、日当たりは良い。
カーテンを開き、窓を開けると、
一週間程前から引っ越しをしてから、随分と職場が近くなった事で出勤時間を遅らせる事になった幸喜にとって、朝はのんびりとコーヒーを飲んでニュースを見てから出かけられる、貴重な時間だ。
今までならば溜めるだけ溜め込んで週末にまとめて片付けていた洗濯物も、朝に干してから出勤出来る。
アパートはバス通りに面しているので、ベランダで洗濯物を干していると、向かいにあるバス停には学生やサラリーマン、年配の女性が並んでいるのをよく見かけるが、洗濯物を見られたところで気にするような性格でもないので、部屋着も下着もワイシャツも全て、何も構わずに干している。
物取りの類を心配しなくはないけれど、吊り目がちでいつも怒っているかのような顔立ちの為に、学生時代にはドーベルマンというあだ名さえついていた幸喜からしてみたら、わざわざ此処に何らかの悪さをしに来ようとは考えもしないだろう、と思っているし、オートロック付きで三階に住んでいる以上、そんな事もないだろう、という警戒心のなさからでもある。
だが、今日ばかりは、そんな幸喜が考えを改めなければならない事が起きてしまった。
いつもバス停に並んでいる女子高生の一人が、幸喜のいるベランダをじっと見ていたのだ。
初めのうちは、自意識過剰だろうな、と自らを恥じたものの、それが二日、三日……そうして一週間、と続いてしまえば、流石に間違いだとは思えなかった。
幸喜はただ洗濯物を干しているだけなのだし、狼狽える必要は少しもないのだけれど、あまりに真っ直ぐなその瞳にたじろいでしまい、ここ数日は時間をずらし、バス停に彼女がいない事を確認してから慌てて洗濯を干している有様である。
女子高生にしてみれば、三十歳間近になる幸喜などおじさんと呼ばれて然るべき(勿論、幸喜自身はそう呼ばれる事は些か不満なのだが……)年齢なのだろうが、だからと言って、何かをしていたわけでもないのに蔑まれるなどもっての外だ。
道端の女子高生に洗濯物を見られていようと何と思われていようと、堂々としていれば良いのだ、堂々と!
幸喜は言い聞かせるように何度も頭の中でその言葉を呟き、女子高生の視線を無視していつも通り洗濯物を干すと、のんびりとコーヒーを飲みながらニュースを見て、身だしなみを整えてから部屋を出ると階下へ向かい、エントランスを抜けた。
だが、幸喜は正面玄関の扉を開いた瞬間、驚いて眼を大きく瞬かせてしまった。
それは、視線の先に思わぬ人物が待っていたから、である。
先まで艶のある色素の薄い長い髪、何者をも恐れぬ真っ直ぐな眼差し、セーラーカラーまで真っ白な制服。
見間違えようがないその少女は、確かにバス停で幸喜を見つめていた、例の女子高生だ。
両手で握り締めている学生鞄は少し重そうで、胸元のリボンと柔らかそうな長い髪が、緩やかな風に揺れている。
思わず立ち止まり、彼女を凝視してしまった幸喜は、眉間に皺を寄せると、彼女の横を通り抜けて駐輪場へと足を向けようとしたのだが、あなたの事を待っていました、そうはっきりとした声音が幸喜の動きを止めてしまう。
「はあ? な、何か?」
今までは、バス停からじっと見られているだけだった。
だからこそ、幸喜は彼女に嫌悪感を向けられているのだとばかり思っていた。
けれど、この状況では、それが明らかに違っていたのだ、と思わざるを得ない。
だが、もしも、万が一にも、この年齢の少女が自身に好意を持っていて、言い寄られたとしても、自分の年齢を鑑みれば犯罪になってしまうだけだ。
もしそういった事になったなら、どう断ったものか……、と頭の後ろを掻きながら、幸喜は彼女の真剣な眼差しを受け止める。
清楚そうな見た目に、ほっそりとした手足、意志の強そうな大きな瞳、可愛らしい、というよりは、綺麗な顔立ち。
そんな彼女が、もしも自分の言葉に傷つき、泣き出してしまったなら、きっと自分は周囲から悪い男として見られてしまうに違いない。
だとしても、だ。
そう考えて、彼女の言葉を待つ幸喜は、こくりと唾を飲み込み、静かに呼吸を繰り返す。
震える手を握り締めた彼女は、意を結したように大きく息を吸い込むと、柔らかそうな唇をゆっくりと開いた。
「私、あなたの事が気になるんです」
***
幸喜が勤めているのは、医療機器を主とした組み込みのソフトウェア開発をしているこじんまりとした会社だ。
真面目というわけでは決してないのだけれど、もしもの事を考えて、幸喜はいつも一時間前には所属している部署の入っているフロアにいる。
通常ならば仕事前でだらだらとした空気の漂うフロアに、今日は他部署にまで届いてしまいそうな程の大きな笑い声が響いていた。
幸喜は緑茶の入ったペットボトルのキャップを開き、目の前で腹を抱えて笑い転げている同僚を冷え切った目で見つめている。
「聞いて下さいよ、部長! こいつ、見知らぬ女子高生に待ち伏せされたかと思ったら、あなたの洗濯の仕方が気になって仕方ないんです、って言われたらしいですよ!」
更なる笑い声を呼び起こそうとしているに違いない、同僚の
女性社員達に、クマのぬいぐるみみたいでかわいい、などとこっそり言われているらしい部長は、温和そうに笑みを浮かべながら、手にしていたビニール袋からお得用と書かれたチョコレートを取り出すと、幸喜にいくつか分けてくれている。
「可哀想に」だとか「コーヒー奢ってやろうか?」だとか、好き勝手に言っている同僚と違って、部長はなんて優しいのだろう、としみじみ思いながら、幸喜は深々と溜息を吐き出した。
「止めろって。部長も困ってるだろ」
「でも良いじゃん。お前の引っ越し先近くで真っ白なセーラー服の子、って事なら、
笑いっぱなしの今木は携帯を片手で操作すると、幸喜の目の前に、ある画像を突き出している。
画面の中で、白い校舎に向かう清楚そうな女子生徒達が「ごきげんよう」とでも挨拶しているかのように、片手を上げている。
どうやらこれが彼の言う、紬丘女子高校のホームページなのだろう。
その生徒達が着用しているのはセーラーカラーがついた真っ白な制服で、今朝見た女子高生が来ていた制服と同じものだった。
よくよく見てみれば、この地域でも有名な、所謂お嬢様学校と呼ばれる高校らしい。
制服も高値で買い取られてるみたいだ、と言い出した今木を鋭く睨みつけ、検索履歴まで完全に抹消させながら、幸喜は再び溜息を吐き出した。
女子高生に言い寄られている、というのはシチュエーションとしては確かに一度は期待してしまうものなのかもしれない。
だが、現実はいつだって、虚しいし、苦しいし、つまらないものだ。
「あのなあ、未成年だぞ。こっちが犯罪者にされんだろうが」
「それに、洗濯の仕方っつーか、干し方が気になってるだけだもんな! どんだけ汚かったんだ?」
「少なくとも見ず知らずの女子高生に因縁つけられる程じゃあない」
「まあまあ。これを機に、正しい洗濯や干し方を身につけたら良いじゃないの」
生活を豊かにするのは悪い事じゃあないよ、と、のんびりと笑う部長に、幸喜は頭の後ろをがしがしと掻いて頭を下げた。
そう、件の女子高生が幸喜に告げたのは、ベランダから見えた洗濯物の干し方や、洗濯の仕方についてだった。
「丸まったまま干してしまったら皺になってしまいますし、服も痛みます。それに、もしかして柄物と白い物を一緒に洗濯していないですか? 色移りしていますよ。余計なお世話だと思いますが、どうしても気になってしまったんです」
皺一つない真っ白の制服で、彼女は困ったようにそう言って笑っていた。
***
「……、何でいんの」
急なトラブルに巻き込まれ、思わぬ残業でうんざりとしながら帰宅し、駐輪場から正面玄関へと回った途端、幸喜は思わずそう呟いた。
正面玄関がオートロックで本当に良かった、と思わずにいられないのは、其処に今朝会ったあの白い制服姿の女子高生がいたからだ。
まさか学校へ行かずにあのままずっと此処にいたのだろうか?
それとも、タイミングを見計らって待ち構えていたのだろうか?
どちらにせよ、現時刻は夜の十時を過ぎた辺りだ。
バス通りに面しているとはいえ、女子高生がうろうろしていい時間と場所ではないだろう。
「まだ何か?」
眼を細めてそう素っ気なく幸喜が言うと、彼女はぱっと顔を上げ、はにかむように笑顔を浮かべている。
「あの、まだお伝えしたい事があって……」
その言葉に、幸喜は思わず溜息を吐き出した。
この女子高生の事だ。言う事は一つしか思い至らない。
「……もしかして、洗濯の事?」
「はい!」
問い掛けに迷いなく答える彼女に再び溜息を吐き出して、幸喜は頭の後ろをがしがしと掻いた。
朝に色々と聞いた気がしたのだけれど、それでも彼女はまだ言い足らないらしい。
あの時はあまりの衝撃に内容の大部分は右から左に抜けていたが、こんな時間に出歩いてまで言う事か、大体、何故そんな事を自分が言われなければならないのか、と幸喜は少し苛立ちながら部屋の鍵を出した。
予定外の残業で疲れ果てていて、見ず知らずの女子高生に気を遣える程、今は余裕がないのだ。
「お前さあ、」
「私、
「あー……、ハナカ、サン? 知らない人に名前をさらっと言わない方がいい。それから、こんな遅い時間に一人で独身男性の家の前にいたら危ないから。さっさと家に帰りなさい」
態々独身男性だと強調して言ったにも関わらず、警戒心の欠片もないらしい彼女は、全く意図を読み取れないらしい。不思議そうに眼を瞬かせると、ことりと頭を傾けている。
「ですが、あなたに会うにはこうするしか」
「駄目です。もう来ないように。わかったな」
何もかもが面倒になり、そう言ってオートロックを解除すると、茅乃はみるみる内に悲しそうな顔をした。
罪悪感に駆られ、今すぐ謝りたい気持ちになっている自身を内心でどうにか叱咤した幸喜は、絆されないよう心を鬼にして、「とにかく早く帰りなさい」とだけ言い残し、さっさと正面玄関を開けて中に入った。
どうして何もしていないのに、こんな面倒な事ばかり起きるのだろう、と幸喜は思う。
折角、綺麗な部屋に越してきて、平穏に穏便に暮らしていけると思ったのに、と。
遅い時間だという事を考慮し、音を立てないよう階段を登って部屋に入ると、幸喜は肺の奥底から溜め込んでいた息を全て押し出すように吐き出した。
もう疲れた。さっさと風呂に入って、さっさと寝よう。
うんざりした気持ちで鞄を廊下に放り投げ、洗面所に向かおうとした幸喜は、けれど、視界の隅に映ったベランダを見て、暫しの間、動きを止めてしまった。
ベランダには、今朝干したままの洗濯物が、夜風に揺られている。
そうして思い出すのは、先程の女子高生——茅乃だ。
流石にもう帰っただろうが、年頃の少女が変な事に巻き込まれてでもしたら目覚めが悪い。
一応、確認くらいはしておくべきだろうか。
暫し逡巡したものの、どのみち洗濯物を取り込まないといけないのだから、と誰に言うでもない言い訳を心中で繰り返しながら、幸喜はベランダへと足を向けた。
窓を開け、すっかり冷たくなった洗濯物を取り込みながら、密やかに顔を覗かせて玄関前を見ると、白い制服姿が見える。
まだ帰っていなかったのか、と幸喜はもう何度目になるかわからない溜息を吐き出した。
もう一度注意して、それでも駄目なら、警察に電話して補導して貰うべきだろうか。
今まで生きてきて、こうした事態をあまり体験してこなかった為に、どうしたものか、と悩む幸喜は、けれど次の瞬間、目を大きく見開いた。
慌ててベランダから部屋の中へ戻り、鍵と携帯電話を引っ掴んで正面玄関まで駆け降りる。
派手な音を立てて扉を開けると、顔を上げた茅乃が、今にも泣き出してしまいそうな顔で幸喜を見つめていた。
その隣には背の高い大学生らしき男がいて、嫌がるように身を引く彼女の腕を掴んでいる。
眉間に力を込め、態とらしくポケットに手を突っ込み、足音を立てながら近寄ると、男は引き攣った声を上げていた。
「おい、俺の妹に何か用?」
「え……、あ、いや、何か困ってそうだったので……」
しどろもどろになっている大学生らしき男の隙を見て腕を振り払い、慌てて幸喜の背後に隠れた茅乃は、震える指で幸喜のシャツの裾を掴んでいる。
その様子を見て、幸喜は思わず舌打ちを一つ零した。
男からは微かにアルコールの匂いがするので、酔った勢いで女子高生に手を出そうとしていたのかもしれない。
こんな風に怖い思いをするだろうと解っていたから、帰れと言ったのに!
苛立ちながら茅乃に視線を向けて、幸喜はどうにか怒りを抑えて彼女に問いかける。
「何、困ってんの?」
「ま、全く困っていません!」
「おい、困ってないってよ?」
で、どうすんの?
威圧するようにそう言って睨みつけると、男は慌てて「すみませんでした!」と叫んで逃げ出してしまった。
幸喜がその姿が見えなくなるのを確認していると、後ろにいた茅乃は震えた声で、小さく呟いた。
「わ、私、あなたの妹じゃありません……」
「ああ言うしかねえだろ」
咄嗟に吐いた嘘だが、我ながらよく出来た嘘だ、と幸喜は肩を竦めて笑ったが、茅乃の顔は引き攣り、強張っていて上手く笑みを作れていない。
その両手もほっそりとした肩も、かたかたと細かく震えていて、彼女の恐怖心が見て取れる程だ。
「あのなあ、だから止めろって言っただろ。親御さんも心配するだろうが」
「……、両親は心配していないので、大丈夫です」
「そういう問題じゃあない」
息を吐き出し、頭の後ろをがしがしと掻けば、申し訳なさそうに眉を下げて彼女は俯いてしまう。
子供のよう——実際、子供なのだけれど——に口をへの字にして、ぎゅうと鞄を抱き締めている彼女は、今にも泣き出してしまいそうに顔を歪ませていくので、どうしたってこんな事になったんだか、と幸喜はポケットから財布を取り出して、予備として持ち歩いていた名刺を探し出した。
その行為に僅かに戸惑ったものの、あんな事はもう御免だ、と幸喜は思う。
こんな風に、見ず知らずの女の子を怖がらせてしまう事も。
「俺に会いに来るならもっと明るい時間に来る事。それが出来ないなら警察呼んで補導して貰うぞ」
腰に手を当て、はっきりとそう言うと、彼女は慌てて首を振っている。
「そ、それは困ります!」
「それが嫌なら約束はちゃんと守ってくれ。頼むから」
「……、はい」
どう見ても納得はいかないと言わんばかりの不満そうな顔をしていたが、流石にもうあんな怖い思いをしたくはないのだろう。
頷いた茅乃に僅かな罪悪感を感じながら、幸喜は名刺を彼女に差し出した。
茅乃は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせると、ゆっくりとそれを受け取って、じっと見つめている。
名刺には、名前と会社で使用している携帯やメールアドレスが印刷されているが、裏面には個人の携帯番号が書いてある。
親や親戚のように、連絡が必要だけれど機械に疎い、という身内に配っていたものの余りだけれど、ここまでされては流石に放り出すわけにもいかないだろう、と考えて彼女に渡そうと決めたのだ。
我ながら、詐欺に遭っても可笑しくない人の良さだ、と呆れながらも、幸喜は苦笑いを浮かべていた。
「それと、変な時間にふらふらしてるんなら、こっちに連絡してくれ。裏側の方の番号な」
「え?」
「まあ、都合がついたら、だけど」
そう言うと、彼女はぱっと眼を輝かせた。
「あ……! あの、ありがとうございます!」
それがあまりに眩しい笑顔だったので、幸喜はむず痒い気持ちになって、頭の後ろを掻くと深々と溜息を吐き出した。
とりあえずこのまま帰すわけにいかない、と幸喜はタクシーを呼び、なけなしの五千円札を握らせて、茅野をタクシーに押し込んだ。
流石に家まで送っていくのは倫理に反するだろう、と考えたからだ。
ドアが閉まってから運転手に住所を伝えるよう言い聞かせると、彼女は慌てて五千円札を返そうとしたが、幸喜は聞こえないふりをした。
「じゃあな」
「あの」
「うん?」
眉を下げて見上げてくる彼女は、おずおずと口を開くと、先程渡した名刺を持ち上げていて。
「お名前、セオ、コウキさん、で、良いんですよね?」
「そうだよ」
「コウキさん。ありがとうございます。必ず連絡しますね」
嬉しそうに笑ってそう言った彼女は、そのままタクシーに揺られて帰っていった。
その姿をしっかりと見届けて、幸喜は漸く正面玄関から階段を登り、部屋に入った。
リビングには、先程慌てて放り出した洗濯物が積まれている。
所々皺くちゃになったそれを見ていると、思わず困ったように指摘していた彼女を思い出してしまう。
「まったく……」
勘弁してくれ、と幸喜は呟くけれど。
その口元は、柔らかく持ち上がっていた。
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