第26話 夕暮れの鐘を鳴らしに
公園をぐるりと一周しようとしていたらしい朱音に連絡を取って合流すると、茅乃はそれまでの事を包み隠さず全てを彼女に話した。
話をしている間、茅乃はずっと幸喜の服の裾を握り締めていて、その指先からの震えが伝わってきている。
話を聞いていた朱音は、その内にどんどん顔を青ざめさせていき、両手で頭を抱えるようにして呟いていた。
「……ま、待って。ちょっと、待ってよ」
茅乃からの話でしか事情を知らない幸喜にとってはすんなり信じられる話でも、祖母を慕っている朱音からしてみれば、どうしようもない程に動揺するのは仕方のない事、なのだろう。
ましてや先程まであんなに仲良くしていた茅乃からそれを聞かされているのだから、余計にショックが大きいに違いない。
誰も現場を見てはいないものの、茅乃の携帯電話には祖母からの不自然な程の着信履歴があるし、今まで積み重ねてきた月日から、茅乃がどういう性格なのも知っている。
彼女達の祖母は余程巧妙に隠していたのか、茅乃がこんな嘘を吐くような子じゃないっていうのはわかってる、と朱音は言いながら、それでも信じ難い事なのだろう、戸惑いを隠せないまま唇をはくはくと動かしていた。
視線をさまよわせ、懸命に何かを思い出しているように見える朱音は、やがて何か思い当たる所があったのか、口元に手を当てて、ずるずると顔を俯かせていて。
「やだ、待って、うち、どうしよう……」
そう呟いて、泣き出しそうになってしまう彼女に、茅乃は手を伸ばしかけるけれど、幸喜が首を振ってそれを止めると、行き場を無くした手で胸元をぎゅうと握り締めて視線を逸らしていた。
朱音は暫く気持ちを落ち着かせるよう俯いて呼吸を整えていたが、あのね、と呟き、少しずつ話し出していた。
それは茅乃の母親が亡くなったばかりの頃、祖母が茅乃の父親に酷く当たり散らしている所を、偶然朱音が見かけてしまった時の事、らしい。
「うちもその時はまだ小さかったし、なんでおばあちゃんがそんなに怒ってるのかもよくわかんなくて……、でも、その時のおばあちゃん、今まで見た事ないくらい、すごく、すっごく怖くて、うちは茅乃のお父さんをいじめないで、って言うしか出来なかった」
ぎゅうと抱き寄せた自分の腕をさすりながら、朱音は唇を震わせて言葉を続ける。
「でも、そのせいで茅乃がそんな事になってたなら……、うちのせい、かも……」
祖母の怒りの矛先が父親から茅乃に向かった、と朱音は思っているのだろう。
その話を聞いた途端、茅乃は慌てて首を振り、違う、と声を上げていた。
「だって、朱音ちゃんはお父さんの事を庇ってくれたんでしょう?」
「でも、もっとちゃんと止めてたら、こんな事になってなかったかもしれないのに……っ!」
彼女の言葉に、茅乃は何も言わずに笑って、また首を振る。
朱音は眼球に目一杯水分を含ませながら、それでも絶対にそれを零してしまわないよう、鼻をすんと鳴らして顔を背けた。
自分の知らない所で行われた事だ、と、そう言って逃げる事も出来た筈なのに、彼女は真っ直ぐにそれを受け止めたし、自らを顧みてさえいた。
そうした所がきっと、茅乃が朱音を妬まなかった所であって、ここまで二人を繋いできたのだろう。
おそらく茅乃はそれらを十分に理解していて、少しだけほっとしたような顔をしていた。
「うち、おばあちゃんに話してみる」
黙り込んでから暫くして、朱音は周囲にも自分にも言い聞かせるようにそう言って、伏せていた顔を上げた。
眼は赤いけれど、涙はどうにか堪え切れたらしい。
茅乃は躊躇うように「でも」と口にしようとするが、それを制止するように、朱音は腕を伸ばして茅乃の手に触れている。
「もしかして、うちと茅乃のお母さんが似てるから、心配してる?」
その問いかけに、茅乃は何も返す事が出来ずに硬直しているが、それが最早答えになっているのは明確だった。
朱音は困ったように眉を下げて、茅乃の手を緩やかに揺らすように握り直している。
「けど、うちが茅乃のお母さんなら絶対にそうする。だって、茅乃が一人でずっと辛い思いをしてるのも、自分のお母さんが自分の子供を傷つけてるのも、そんなの絶対に嫌だよ」
彼女の言葉に、顔を歪ませて俯いた茅乃は、小さく何度か頷くと、ぎゅうと瞼を閉じていた。
やがて震える息を吐き出し唇を噛み締めると、しっかりと前を向いて、ありがとう、と言う。
朱音はそのまま、まるで母親が子供をあやすように茅乃を抱き締めて、背中を優しく撫でていて、その様子を見守りながら、幸喜は朱音に視線を向けて口を開いた。
「おばあさんと話す前に、親とは事前に話しておいた方が良いんじゃないか」
朱音は顔を上げ、茅乃の頭を撫でながら体勢を直すと、その言葉にことりと首を傾けている。
「うちのママと茅乃のお父さんには話しておこうと思ってるし、出来たら一緒に話して貰いたいって思ってるけど」
「どっちもこの話を信じて貰えそうなのか?」
そう問いかけると、「平気だと思うよ」と朱音はすんなりと頷いている。
「うちのママも茅乃がこんな事を冗談でも言う子じゃないって知ってるから。それに、茅乃の携帯電話に残ってる着信履歴で言い逃れ出来ないだろうし。でも、ママはおばあちゃんにめっちゃキレるかも」
それもあるから事前の話し合いはやっぱ大事だね、と言って、彼女は困ったように笑っている。
幼い茅乃を心配して家で預かるよう申し出たのは朱音の母親だと言っていたし、姪にあたる茅乃を大事に思っているのだろう。
茅乃が朱音の母親にこの件について話すのを躊躇っていたのも、そういった事情があったからかもしれない。
視線を向ければ、茅乃も苦笑いを浮かべていた。
「でも、茅乃のお父さんが一緒なら怒鳴り込むような事はしないと思う。茅乃のお父さんは逆にすっごく優しくて、全然怒んないし。普通なら怒鳴って叱るような時も静かに注意する感じっていうか。今まで一度も怒った事ないんじゃない?」
「確かに怖い顔をしたり大きい声を出した事はない、けど……」
自らの父親が少し変わっているのかどうか悩み出している茅乃を他所に、瀬尾さん良かったね、などと朱音は言うが、一体何が良いのかさっぱりわからない。
幸喜が首を傾げていると、朱音は呆れた顔をしてから、溜息混じりに苦笑いを浮かべている。
「でも、流石に今回のはちゃんとお父さんにも聞いて貰った方がいいよ。知らなかったら、逆にすっごく悲しむと思うし」
朱音の言葉に、茅乃は震える両手をぎゅうと握り締めて、今にも泣き出してしまいそうな顔で俯いた。
「だから、ちゃんとお父さんにも言った方がいいよ」
「茅乃から言えないなら、それとなく津村から言ってもらってもいいんじゃないか」
二人からの言葉に、茅乃も少しずつ気持ちの整理がついてきたのか、緩やかに首を振って、顔を上げる。
「大丈夫、ちゃんと自分から言います。幸喜さんと、朱音ちゃんにも話を聞いて貰えたから。だから、頑張ってみます」
しっかりと前を向いてそう言った茅乃は、そう言って、柔らかく笑みを浮かべていて、幸喜と視線が合うと、嬉しそうに笑みを重ねている。
朱音と話し、彼女が茅乃の味方になってくれた事で、大分安心しているのだろう。
その事に安堵しながらも、自分の事とどうしても重ねてしまい、幸喜は視線を一度落としてから、口を開いた。
「あんまり他人の家族にこういうのはあれなんだけど……、病院とか、カウンセリングとかも、検討した方がいいんじゃないか」
彼女達の祖母があまりにも行き過ぎた行動をしているのならば、年齢的に認知症のような病気や、母親のように精神的な病気である可能性もないとは言いきれなさそうで、戸惑いながらも幸喜がそう言うと、携帯電話を取り出した朱音はすんなりと頷いた。
他人の意見を素直に聞き入れる所は、やはり彼女の美徳なのだろう、先程話した内容を一生懸命メモに打ち込んでいる。
「そうだね。そういうの調べるのも大事だし。家族だけでどうにかするんじゃなくて、そういう専門家の人に相談するっていうのもいいと思う。それもおばあちゃんと話す前にママ達と相談してみる」
「あとは、暫く茅乃とおばあさんが接触しないようにしておかないとだな」
全員が顔を合わせて話し合うまで時間がかかるだろうから、せめてその間だけでも、と言えば、朱音も納得したように頷いている。
あの尋常ではない怯え方からしても、茅乃と祖母の二人が直接顔を合わせるのは当分避けておいた方がいい、と言って、幸喜は視線を上に向けて考える。
昔の事を思い出してはみるものの、自分の時は、事故後の母親は強制的に精神科に入院させられていたらしいが、今回のケースではそれが出来そうもない。
ただ、茅乃は今現在祖母と一緒に暮らしているわけではないのだし、連絡手段も限られている。
連絡手段は全てブロックし、住んでいる場所についても後々検討した方がいいのだろうが、その辺りについては茅乃と父親が相談して決める事だろう。
「寮の場所は知られてるのか?」
幸喜の問いかけに、そういった可能性まで考えていなかったのだろう、茅乃は不安そうに瞳を揺らすと、幸喜を見上げた。
「場所までは、知らないと思います」
「けど、調べようと思えば調べられるよな」
「おばあちゃんも寮まで押しかけたりはしないと思うけど……」
そう戸惑うように言う朱音の言葉に、幸喜も「気持ちはわかるけど」と口にはするが、最悪の場合も考えておくべきだ、と彼女を諭した。
「もし変に執着してるなら、ストーカーみたいに連絡が取れなくなると逆上するケースもあるし、完全にないとは言い切れないだろ」
「寮に帰る時は寮生の子達と一緒なので、普段は大丈夫だと思います」
「外出の時も危ないだろうから、もし何かあるなら誰か一緒にいてくれるよう頼むしかないな」
話をしている間に、茅乃は微かに震えている指先を誤魔化すように両手を握り締めている。
その様子を見た朱音も不安そうにしていたが、突然何か閃いたようにぱっと顔を上げた。
「休日に外に出る時は瀬尾さんと一緒にいれば安心じゃない? 大人の男の人だし、わりと身長高いし、目つき悪いし、いっつも怒ってるみたいな顔だし、それから口も悪いし無愛想だし」
「後半悪口になってるぞ」
あはは、と笑う朱音に呆れていると、服の裾を引かれて幸喜は視線をそちらに向けた。
茅乃が困ったような顔で伺うように見つめて「でも、それだと幸喜さんに迷惑が……」などと殊勝な事を言うので、幸喜は思わず呆れたように肩を竦めてしまう。
「今更だろ。今までだってどれだけ振り回されてると思ってるんだ」
そう言うと、彼女は頬を膨らませながらも気まずそうに顔を背けている。
振り回している自覚はあるようなので、そこは彼女なりの甘えなのかもしれない。
「瀬尾さんが無理な時は茅乃とうちがなるべく一緒に行動してるよ。うちと茅乃が最近めっちゃ連絡しまくって一緒に遊んでるアピールしとけば、おばあちゃんも茅乃に連絡しようとするの止めるかもしれないし」
「ああ、それは結構効果あるかもな」
朱音と朱音の母親に気付かれない程に行動を徹底しているのなら、朱音の言動を気にする可能性は高いだろう。
幸喜が賛成すると、朱音は眼を輝かせて茅乃の手を取った。
「それに、茅乃と暫く遊んでなかったもん。一緒に行きたいって思ってたとこ、いっぱいあるんだよ」
これからも一緒に遊んでくれる? と不安げに眉を下げて言う朱音に、茅乃は躊躇う事もなく、「もちろん」と笑って頷いていた。
答えを聞いた朱音はきゃあきゃあ笑いながら頬をくっつけてはしゃいでいる。
すっかり今朝の明るさを取り戻している二人を見て、幸喜は肩を竦めながらも息を吐き出して小さく笑った。
物事全てが片付いたわけではないのだけれど、茅乃が思っているより周囲はちゃんと彼女を自身を見ているし、話を聞いてくれていて、味方になってくれている。
彼女が足を踏み出すきっかけさえあれば、何も恐れる事はなかったのかもしれない、と考えて、その事に僅かに淋しさを覚えてしまっている自分自身に、幸喜が思わず嘆息していると、朱音が顔を覗き込んでいる。
「うちだけに相談されてたらおばあちゃんに言っても丸め込まれてたかもしれないし、益々事態が悪化しただけかもしんないし、そういう意味でも瀬尾さんがいてくれて助かったよ」
その言葉に、幸喜は苦笑いを浮かべて緩く首を振った。
「話聞いてちょっと口出しただけ、だけどな」
「でも、そもそも瀬尾さんがいなかったら、茅乃は絶対にうちに話してくれなかったよ」
昔から茅乃は自分のやりたい事や欲しいものを絶対に言おうとしなかったから、と言って、朱音はゆっくりと眼を細めている。
彼女と朱音は幸喜が会うよりずっと前から、それこそ一緒に暮らしている期間もあったのだ、その茅乃から相談されなかったという事は、幸喜が思うより淋しさを感じているのかもしれない。
「茅乃とおばあさんを繋げられるのは津村しかいないよ。もし二人がちゃんと会って話をする機会を作るなら、津村がいないと駄目だろ」
幸喜の言葉に、そっか、そうだね、と、朱音は自分に言い聞かせるように何度も頷いてみせた。
「うちはさ、茅乃もおばあちゃんもどっちもすっごく大事で大好きだから……、だから、多分、どっちかの味方になるっていうのは、難しかったと思う」
だから、と言って、朱音は口端を引き上げて、に、と笑う。
「茅乃の味方になってくれて、ありがとね」
少し泣きそうな顔をして言うものだから、幸喜は思わず苦笑いを浮かべて頷いて、それから、自分の手のひらを見つめた。
ずっと逃げてきた事に、自分もちゃんと向き直らなければいけない。
ゆっくりと手のひらを握り込んで顔を上げれば、茅乃が心配そうに顔を覗き込んでいる。
大丈夫、と言う代わりに頷くと、茅乃の指先が手にそっと触れている。
決断をするのは今でも、きっとこれから先いくら経っても恐ろしいのかもしれないけれど、こうして手を握ってくれる人がいるのなら、きっと大丈夫だ、と、その手を握り返していた。
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