第33話 番外編 ふたりのせんたく
「幸喜さん、あのね」
そう呼びかけられて読んでいた本から顔を上げると、すぐ目の前にある色素の薄い透き通った瞳と目が合った。
至近距離に茅乃の顔がある事に僅かに驚きつつも、付き合う前から人の家の前で待ち伏せをしていたり、何の躊躇もなくくっついてきたりしていた事を思い出し、ソファーの背もたれに後頭部をぼすりと押し付けた幸喜は、そのままふいと顔を背けてしまう。
あまりに積極的に近寄ってくるので危機感のなさを心配しなくはないけれど、女子高に通っていた事と年齢的な事を踏まえると、あまり男性と接する機会がなかった為に、上手く距離感を考えられないだけなのかもしれない。
だが、それならば何故自分にだけは犬みたいだの可愛いだのと言いながら平気でくっついてこようとするのか、いまだに謎だ、と幸喜は眉を寄せて考える。
まさか、本当に犬や猫のような扱いにされてはいやしないか。
そう考えている間、当の本人は無視されたと思っているのだろう、むう、と不満そうに頰を膨らませると、背けた視界の先に入って、手に持っていた本を奪い取ろうとしている。
「こら、邪魔すんなって」
「だって、洗濯が終わるまでって約束だったじゃないですか」
「あと少しで終わりだから、大人しくしてて」
「幸喜さんはそう言って絶対少しじゃないから駄目です」
早く構って、と言わんばかりの不満そうな顔をして、茅乃はソファーに飛び込むようにソファーのスプリングを弾ませて勢いよく座ると、ぎゅうと腕に抱きついてくる。
大人しそうに見えて彼女は案外頑固で、こうと決めたら絶対に動かないところがある。
聞き分けがないわけではないけれど、彼女の境遇を考えるとこうして我儘を言うようになったのは、それだけ穏やかに過ごせている証拠でもあるのだ。
そう考えると、無理に引き剥がす事など出来やしない。
観念した幸喜が、はあ、と息を吐き出してソファーの前にあるテーブルの上へ本を置くと、茅乃はぱっと顔を明るくさせている。
茅乃は元々スキンシップが好きな方なのだろう、幸喜自身、子供の頃から兄がとにかくべたべたとくっつくいてくるので慣れているし気にはならないのだけれど、それにしたって、時折頭を抱えたくなる距離感で接してくる事がある、のだ。
今だって、ソファーに座る幸喜の足の間に膝を揃えて乗せ、肩に両手を置いた彼女は、まるで抱き付くようにして顔を覗き込んでいる。
胸元が開いていたり足が露になるような露出のある服を着るタイプではないが、こうしてどこか抜けている所があるので、心配になるのは仕方がない事だろう。
当の本人は楽しそうに笑って、とってもかわいいお顔してますね、などと言っているので、頭が痛くなってくる、と幸喜は思い、深く長く息を吐き出した。
その様子に、茅乃は不思議そうに頭を傾けていて。
「幸喜さん?」
そもそも吐息がかかりそうなこの距離で、少しくらい動揺しないのだろうか、と考えて、幸喜は彼女の額に自分の額をくっつけた。
鼻先が触れそうになったところで、流石に近過ぎる事が理解出来たらしく、茅乃はみるみるうちに顔を真っ赤にさせ、視線をあちこちにさまよわせている。
この状況でどうして良いのかさっぱりわからないのだろう、ひえ、と上擦った妙な声まで出しているので、幸喜は思わず顔を背け、声を上げて笑ってしまった。
「な、なんで笑うんですか!」
身体を折り曲げ、ソファーに顔を埋めてしまいかねない程に幸喜が笑い転げていると、真っ赤な顔で怒った茅乃が肩をぽこぽこと叩いている。
笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を拭うと、頬を膨らませた茅乃がじとりと睨んでいるので、幸喜はごめんごめんと言いながら宥めるように彼女の頭を撫でた。
「自分からぐいぐい近寄ってくるのに、こっちから近づくと吃驚してるから、可笑しくて」
「し、仕方ないじゃないですか。私、誰かとお付き合いするの初めてですし……」
犬猫と同じ扱いをされているのでは、などと複雑な気持ちでいたものの、こうした反応をしているというなら、流石にそれはないのだろう。
その事に密かに安堵したのは、絶対に話すつもりはないけれど。
引きずっていた笑いを抑えながらゆっくり息を吐き出していると、茅乃はふいと顔を背けて口先を尖らせている。
色素の薄い髪が頰にかかっているのに気づいてそっと耳にかけてやると、彼女は何故だか困ったように眉を下げて、ぎゅうと両手を握り締めている。
「あの、幸喜さんは……」
「ん?」
「その、私と付き合う前、とか、その、他の……」
質問しようかしまいか迷っているのか、もごもごと何かを言おうとしては止めて、また口を開いてを繰り返してい茅乃は、おそらく彼女と付き合う以前の女性関係について聞きたいのだろう。
けれど、幸喜が僅かに口を開こうとすると、慌てて手のひらを押し付けて、わーわーと叫んでいる。
「駄目です、絶対に言っちゃ駄目! 言ったら言ったこと一生後悔させますから!」
「はいはい」
言い出したのは自分のくせに、と思いつつ、今付き合っている相手に元恋人の話をするなんて火に油を注ぐどころかダンプカーでガソリンスタンドに突っ込んでいくような真似をしたくもないので、幸喜としてもそのまま保留にして貰えた方がいいのだけれど。
すっかり拗ねてしまったらしい茅乃を宥めるように、幸喜はその丸い頭をゆっくりと撫でた。
彼女は始めこそ口先を尖らせていたが、そのうちに少しずつ機嫌が戻ってきたらしい、心地良さそうに眼をゆっくり瞬かせている。
「それで、」
「はい?」
呼びかけに、茅乃は不思議そうにことりと首を傾けるので、それに合わせるように、幸喜も首を傾けた。
動作に合わせて彼女の長い髪が目の前で揺れ、もう馴染んできた甘い花の香りがする。
「そろそろキスしてもいいんですかね?」
茅乃は眼を丸くしてぱちぱちと瞬きを繰り返すと、肩口に頰を押し付けて、何故だか頰を膨らませている。
よく見てみると頰に赤みを帯びているので、照れているのだろうか。
その様子が何だか面白くて小さく笑いながら指先で頰をつつくと、込み上げてきた笑いに堪えきれなくなったらしく、膨れていた頬は震え出し、そのうちに彼女は声を上げて笑い出してしまった。
以前のような曖昧で中途半端な笑い方をする事はもう殆どなくなって、今ではまるで無邪気な子供みたいな笑い方の方が多くなっている、と幸喜は思い、彼女の腕をそっと引き寄せた。
その事に、ふふ、と吐息混じりに笑った茅乃は、当たり前のようにぎゅうと抱きついて、頰をぴったりとくっつけてくる。
ひんやりとした自身の皮膚とは違い、彼女の体温がじんわりと伝わってあたたかく、輪郭がぼやけて溶けていくようで、心地がいい。
「いいですけど、私からじゃなきゃ駄目ですよ」
顔を上げてそう言った彼女は、目元、鼻先、頰に、そっと唇を触れさせているので、今度は幸喜が子供のようにぱちぱちと瞬きを繰り返してしまった。
「だから、どうして自分からなら平気なんだよ」
「だって、恥ずかしいんだもん」
その言葉に、ふは、と息を吐き出して幸喜は笑うと、彼女がしたように、目元、鼻先、頰に唇を寄せて、額をくっつける。
恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、透き通る瞳はゆっくりと柔らかに細められ、彼女はそれはそれは嬉しそうに笑っていて。
彼女と自分の二人がたくさんの選択をしてきた先で、こうして笑い合えるのは、なんて幸せな事なのだろう、と感じながら、唇を重ね合わせていた。
わたしのせんたく 七狗 @nanaku06
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