第四話
他人の言葉に耳を傾けるほど難しいことはない。それは別の知性から送られたものだからではなく、自己以外の知性から発生した情報であるがために、常に事象の真偽と意味の有無を天秤にかけなければならないためだ。人間は己が望むままに情報を認識することはできない、たとえ胸の内で抱く感情であっても、無意識が世界観を歪めることは多分にある。
とは言いつつも、目前で巻き起こる出来事に対して何もしない、または考え込んで何もできないということは雲泥の差があるわけだが、いずれにしろ反応を返さなければ致命的な結果を招く。自分に向かって投げられたボールに対し、当たるか当たらないか、当たったとしたらどれくらい痛いのか、もしかしたら怪我をするのかと悶々と考えていては取り返しがつかない。まず避け、評価を後で行うというのが最善であるのは明白だ。
思考と論理は必ずしも一致しない。そして論理とは思考の上だけで成立するものではない。事実と認識の間には埋めようのない隔たりがあり、事実は主観によって歪められる。
情報分析任務を主とする神室応助少佐だからこそ、そこまでは骨身に染みた情報部員の掟として理解できるのだが、今、目の前で怒り狂っている何者かに対してはどうにも対処しきれずにいた。
「今回の任務実行を承認した理由を、もういちどお聞かせ願えますか?」
緑色の瞳が、陽光を受け煌めく新緑の葉のように揺蕩っている。神室少佐は自身の育った街の光景を思い浮かべてほんの一瞬の間だけ感慨に浸ったが、その感情もミズカゼに敏感に察知され、喉を鳴らす彼女をなだめなければならなかった。
要翠少尉がヒタキの失踪先について興味深い洞察を得た。彼女が秘匿されたのはエウーリアスのいずこかであり、今回の事象を引き起こした主体はエウーリアスの意志そのものにあると仮定するならば、<ミズカゼ>を出撃させエウーリアスの反応をうかがうべきだと提案してきたのだ。つい二時間ほど前である。神室少佐としては思考経路が異なるものの同様の結論に達していたため問題なく承認し計画を策定し始めたところだったのだが、それを聞きつけたミズカゼの詰問に遭っていたのだった。
本来であれば、第二開拓艦隊という特殊ではあるが軍組織として編成された帳簿上に名前が載る存在である以上、ミズカゼには命令服従の義務が生じる。神室少佐が一喝し追い返せば済む話ではあるが、それはあくまで軍としての責任を分割した結果に過ぎない。だが
さらにいえば、ミズカゼの主張は至極真っ当なものでもあった。
「君の指摘には、正直なところ、わたしも疑問に思っている」落ち着かせようと一字一句を丁寧に紡ぐが、ミズカゼの眼力は緩まない。「エウーリアスから人類に対する意思疎通の一環としてヒタキが拉致されたというのが、要少尉の見解だ。そして君の言う通り、電動カートも同様の目的で送り込まれたものだったと類推できる。エウーリアスはすでに受動的な探査の対象ではなく、能動的に我々と接触しようとしている知性だ」
「ではなぜ、前者は自分の時間を惜しまずに捜索するのに、後者は冷徹にブルバップライフルで穴だらけにしたのですか。どちらも、エウーリアスからのエージェントであることは明々白々ではないでしょうか」
まるで人間の為すことなのだから、人間が説明しろと言わんばかりだ。
アダナミも怒りっぽいところはあるが、今のミズカゼのように真剣な憤りを表現するルーフェを目の当たりにするのは、この二年半続く意思探査任務の中でも神室少佐にとっては初めての経験である。彼女たちは普段、感情を隠しはしない。全て相手に通じて然るべきものだと考えている。だから言葉にして感情を伝えようとするときは、物心ついたばかりの子供のような稚拙なやり方になってしまう。気遣いや迂遠な言い回しをせず、直接、相手へ伝えるのだ。心を読める、読み合っているルーフェにとっては、気遣いという概念そのものが煩わしく感じられる時があるらしい。
いつもは沈着なミズカゼのことだから、この怒りにも真っ当な理由があるのだろうと考えるものの、やはり翠に置いて行かれることが彼女の怒りの根本なのだとしか神室少佐には思えなかった。要するに、彼女は駄々をこねているだけなのだ、と。
翠にしても、ヒタキに恋慕を抱いているというような事情ではなく、第二〇一飛行戦隊の仲間として彼女を探しに行くべきであり、発見の確率が最も高い手段を提案して実行しようとしているだけなのだが。
もちろん、翠の提案は常軌を逸したものであり、彼の身の安全を完全に度外視したものであるのは神室少佐も認めるところだ。一方で、エウーリアスが接触を図ってきたこともまた事実であり、だとすれば簡単に翠を殺害することはないだろうという計算も裏にはある。
「ミズカゼ、君は要少尉の行動に疑義を唱えているという自覚はあるか。彼の行動はわたしも報告書で読み、実際に任務を指揮する立場にあったが、適切であると判断している。決して荒唐無稽な話ではないだろう。君もそれを理解しているからこそここへ来たのではないか?」
要するに、ミズカゼの怒りの理由は不条理や非合理に対するものではなく、あくまで彼女の感情が、感性が反駁しているだけではないのか、と伝えたわけだが、ミズカゼは押し黙ってじっと神室少佐の眼を凝視した。
その時、神室少佐はこのルーフェの真の恐ろしさをはっきりと肌で感じた。彼女は自分の心を読ませることにしたのだ。その眼差しは、確かに彼女の怒りを物語っている。
――わたしが申し上げているのは、少佐、それが人間の価値観なのかということです。我々ルーフェにも同じことをしないと言い切れますか?
「ではどうしろというのだ、ミズカゼ。ここは軍組織だ、人間もルーフェも関係ない。君が翠が独りでヒタキを探しに行くのが気に入らないというのであれば、君は翠の案よりも有効性の高い提案をしなければならないだろう。そしてどの案が合理的かはわたしが決める」
「要少尉の捜索案は、わたしも妥当だと判断します。ですがそれは過去の事柄が無かった場合です。要少尉は一貫した行動原理を欠いているように、わたしは感じています」
ゆっくりと頭を振って、神室少佐は否定した。
「それは嘘だな、ミズカゼ。君は艦内探索の時、彼の行動が非合理だと感じたのではなく、もっと別の印象を抱いたはずだ。それは要少尉の行動論理に疑義を投げかける理由にはならない。わたしにとって、彼の行動は正しく軍人として正しいものであり、納得のいく行為だ」
「少佐、わたしが言いたいのは――」
「他に何か話はあるか、ミズカゼ?」
ぴしゃりと言い放つ神室少佐の言葉は、退出を促すメッセージだ。
実際、彼は苛立っていた。ヒタキの生死が不明なまま、既に失踪から十二時間が経過しようとしている。拉致された先がどのような場所であるかは不明だが、ルーフェとして人間と同様の身体構造を持つ以上、水分補給さえままならないのであれば生命の危機に瀕しているはずだ。決して楽観できる状況ではない。可能な限り素早く彼女を奪還するための行動を起こすべきだ。
感情の機微を感じ取ったミズカゼは背筋を伸ばし、素早く敬礼。答礼を待たずに踵を返したのはささやかな意思表示か。
少し迷った末、ハッチを開いて潜ろうとしたミズカゼの背中に問いかけた。
「ミズカゼ、なぜ正直に言わないのだ。君は翠を一人で行かせるのがただ心配なだけのだろう? 人間がルーフェがと言いつつ、君は翠という個人を気にかけている。それで全て説明がつく。そして君の抱く心配や思いやりは決して恥じるべきものではない、誇るものだ。違うか?」
振り返った女の佇まいは、女神というよりは妖精のそれだった。
「ルーフェは人間とは違います、少佐。わたしが彼を慮るのは、彼がわたしの翼だからです。彼がいなくては、わたしは飛べない。この空をただ眺めるだけ、などという恐ろしい結末を迎えるわけにはいかないのです」
「君にとっては、翼こそ何よりも重要なものだと?」
「あの空以外に、ここには暗闇しかありませんから」
妖精は人にあらざる
翼を落とすのは人間だけとは限らない。神室少佐はただ無言でミズカゼの閉じたハッチを睨んでいた。
*
ロッカールームでいつも通りにパイロットスーツに着替える。これを身に着ける前に軽くシャワーを浴び、僅かな水分補給をし、備品の確認をするのもいつも通りだ。
普段と異なるのは、一連のルーティンワークを一人でこなしているということ。別室で同じように準備を整えている相棒は、今回はいない。たった一人でこの空を飛ばなければならないが、不安はなかった。本来であれば、空を飛ぶというのは孤独を意味するのだ。人間が翼を持てない理由のひとつは、大空に一人で羽ばたくことに耐えきれないからだ、と誰かが言っていたのを思い出す。
装備完着、フルフェイスのヘルメット右脇に抱えてロッカールームを後にし、ブリーフィングルームへ向かう。神室少佐が待ち受けていて、二人で突貫作業で構築した飛行計画を確認する。
ものの三十分程度で書き上げたにしてはまともなものだった。<サギリ>から発艦、北へ向け飛び、そのまま西へ移動。<サギリ>が軌道を一蹴したところで帰投コースに遷移、帰還する。エウーリアスへ戦闘の意思はないことを報せるため、護衛は無し。
「本当に、飛ぶのか?」
ブリーフィングを終えて部屋を出かけた翠の背中に神室少佐が声をかける。振り返りながら、そう問いかける意図はなんだろうと翠は訝しんだ。いつもの神室少佐なら、確認を終えた何事かに対し何かを言うことはない。いってこいと送り出すだけだ。
「ミズカゼに何か言われたのか、少佐?」
図星だったのだろう。少しだけ迷った挙句、神室少佐は首肯した。
「彼女はお前の身を案じている。今までにないことが起きすぎているんだ、わたしですら慎重にならざるを得ない」
「いいや、それは違うな。彼女は自分のことしか眼中にない。ルーフェが他人の感情を慮るなんてことはありえないよ、少佐」
「ルーフェは冷血だとでも? 彼女たちは人間の思いやりと優しさを肌で感じることのできる、唯一の存在だ」
「感情は美しいものになり得るが、だからこそ醜さを内包しなくちゃいけない。ミズカゼは天使じゃなければ女神でもない。ルーフェだよ、少佐。おれがヒタキを探しに行くのも同じ理由だ。知性にとって行動の裏にある理由というのは、案外、本人でも呆れてしまうようなものが大半だ。そこに任務や感情といった付属品を貼り付けてそれらしく見せてるだけさ」
「では、お前は今回のヒタキの捜索に関してはどんな付属品を添えているんだ?」
「それは彼女を見つければわかるだろう。ああ、そうだな、おれはそれを確かめに行きたいだけなのかもしれない。実際にはヒタキなんてどうでもいいと思っていて、意思探査任務が少しでも進展することを期待してるだけなのかもな」
神室少佐は問答の一言一句を反芻しているのかしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて顔を上げた。
「必ず生きて帰ってこい、少尉。この話の続きが重要だ。わたしはお前以外とこの話題を共有する気はない。今の所は、な」
「了解、少佐」
挙手敬礼を交わし、なるほど、やはりおれの言葉は正しかったと翠は得心した。
神室少佐は、ただこの話の先に意思探査任務を進めるための手がかりがあるのだと感じたから生きて帰ってこいと言ったに過ぎない。要翠という一人の兵士の生命を重視したからではない。<ミズカゼ>が撃墜されようとも、意思探査任務を完遂できればそれでいいと思っている。そしてそれは翠も同じなのだ。
彼を冷血漢と呼ぶことはできない。任務は重要であり、感情は後からいくらでも脚色できる要素に過ぎなかった。即ち心という存在の意味が無いと言えば飛躍になるだろうが、今、ここで取るべき行動の中で感情は邪魔にしかならない。結局は、任務の成功率を上げるにはそうするしかないのだ。
だからこそ、ルーフェを冷酷な存在と呼ぶのは短絡的に過ぎる。結局は同じ理由なのだ。
眼下の格納庫へ降り立つと、<ミズカゼ>の駐機されている右前方に立っている人影があった。
流れる砂金のような長い髪。華奢で美しい出で立ち。新緑を詰め込んだような緑眼。ミズカゼ。
「要少尉」
「ミズカゼ」
お互いを呼び、視線が交錯する。努めて避けてきたミズカゼという存在を目の当たりにし、翠は複雑な感情を抱いた。
ただひとつ言えることは、彼女とこうして飛行前に相見えたのは僥倖であるということ。
格納庫の騒音の中で、やけにはっきりと聞き取れる声で彼女は言った。
「わたしは
「おれは
はっきりと動揺したミズカゼはなんと答えようかと口を開け閉めしている。翠はそんな彼女を横目に歩み出て、ゲンチョウのキャノピへ向けラダーをあがった。
いつも通り機長席に着き、閉じたままの後部キャノピを目視確認してから機長席のキャノピを閉じた。酸素供給ホースをヘルメットに接続する。プリフライトチェック、完了。<ミズカゼ>、発艦準備が整う。
<サギリ>の格納庫が赤色灯で照らし出される。警報と共に、<ミズカゼ>が載ったランディングパットが滑り出した。第一、第二、第三耐爆隔壁を通り過ぎた。停止し、左右からアームが伸びて機体を宙吊りにする。左側からエンジンスタート。<ミズカゼ>は気付いているだろうか、今日は身軽なまま飛ぶのだということを。
「こちら<ミズカゼ>、発艦用意よし」
「発艦を許可する。カウントダウン開始」
既にランディングパッドが割れ、下方のエウーリアスの青い海、緑色の大陸、そして白い雲の筋が目に映る。やや上方のランプが黄色点灯。三度明滅した後、アームが機体を離した。
自由落下、次いでスロットルレバーを押し込んで加速。滑らかな機動で<ミズカゼ>は機首を起こし、ヒタキ捜索のための軌道へと遷移すべく加速を開始。十秒と経たずに
拍子抜けするほど平穏な飛行が続く。<ミズカゼ>のSY-190RAエンジンは力強く大気を圧縮し押し出しているが、音速の一・五倍の速度で大気中を等速運動している機体の中では何も感じない。
超音速巡行の静けさが満ちているキャノピー内で、ああ、これこそヒタキに感じてもらいたかった
三年前、この惑星の上空をただの航空機で飛行したパイロットが何人いたのかは知らないが、こんな静かな気持ちでは操縦桿を握っていられなかったはずだ。開拓委員会が
右手で握る肘掛けから伸びた圧力感応式のサイドスティックを握り、機体を左ロール、上下反転させる。頭上を覆っていた濃紺と漆黒の高高空特有の景色が消え去り、エウーリアスの海洋と大陸、その上を覆う雲海が視界を占めた。重力で頭に血が上るが苦も無く耐え、翠はその景色のあらゆる箇所へと視線を走らせる。
どこかにヒタキがいるはずだった。地表のどこかに降り立っているとすれば見つけようがないが、暗闇を見つめ続けるよりは現実的であるはずだ。何しろ宇宙空間に放り出された人間やルーフェがどうなるかは想像に難くない。戦闘機パイロットとしての鋭い視力があれば、空に浮かぶ点でしかなくとも判別できる。
しばらくそのままエウーリアスを眺めて飛んでいたが、膝の間から生えている
「ターン・レフト。確認しろ、ミズカゼ」
半ば無意識に機体を水平姿勢に戻して言ってしまう。もちろん、後部座席には誰も座っていない。
習慣とは恐ろしいものだな、と苦笑いしながらHMDの水準器を神経質に眺めていると、予想だにしない応答があった。
「ターン・レフト、
機体を左へ傾けながら、翠は操縦桿のボタンを順序立てて素早く押し込んだ。後部レーダー員席に装備された小型カメラが映す内部映像をHMDにワイプ表示させる。
本来は加圧ブロックごと隔離された後部座席の搭乗員の状態を目視確認するための機能だ。高機動時にブラックアウトしたり、応答がなかったりする場合に一目で相棒の様子を確認できる。心拍数や酸素濃度などの詳細な数値を参照せずとも、映像を出せば一目瞭然というわけだ。
今、ワイプにはヘルメットを着用したパイロットスーツ姿の女性が映っていた。ヘルメットバイザは遮光のため光を反射しており、顔を窺うことはできない。だがミズカゼほど華奢ではない、しなやかな体つきは見覚えがあった。
ヒタキが後部座席に座っている。彼女は機械的に、教育で教え込まれた通りに旋回方向と修正進路を復唱したのだ。
なるほどな、と翠は酸素ホースがぶつかるのも構わずに頷く。突然いなくなるのだから、突然あらわれるのは道理だ。問題はそのヘルメットの中身だ。それを探るには言葉を使うしかない。ミズカゼがいたのならばある程度は探りを入れることができただろう。取りうる選択肢は限られているが手も足も出ないわけではない。そう考えている間にも<ミズカゼ>が旋回を終え、ぴたりと予定進路にベクトルを乗せた。
ふと、翠は他人の心を覗き見ることが当たり前だと感じている自分に気付く。人間はそんな風に設計されていないはずだが、軍組織であり、<サギリ>という閉鎖環境にいるためか、特に抵抗なく受け入れてしまっている。ルーフェを相手にするとなれば、人間には意思疎通を図ることしか手段が無い。なるほど、ミズカゼがこの出撃を止めるわけだ。
「ヒタキか?」
恐る恐る問うてみると、意外にも彼女はすらすらと答えた。
「肯定も否定もしないわ。あなたが信じるかどうか、わからないから」
「君、いや、お前は……エウーリアスなのか?」
「怖がらないでもいい」動揺を読み取り、ヒタキと思しきルーフェはなだめた。「少しばかり
操縦桿を握る手が震えるので、オートパイロットに切り替えようとし、思いとどまる。電動カートの一件があるのだ、機体制御を自動システムへ任せるのは非常に危うい。今はヒタキを操るのにエウーリアスがすべてのリソースを投入しているという根拠がないのだ。隙を見せれば機体制御でさえも掌握される可能性もある。
「怖がらなくてもいいといったのに。人間は可能性の大小ではなく、有無で恐れを抱くのね」
「仕方ないだろう。お前はおれたちが全霊を賭けて探してきた相手だし、ヒタキにしたことを思えばおれ一人などどうとでもできるだろうから」
「否定はしないけど、できることとやれることは違うでしょう。例えば、あなたはあの航宙艦に乗り組んでいる誰かを射殺することができるけど、やらない。社会規範、倫理観、そしてあなたの心がそれを許さないから。今のわたしもそう、無差別にあなたがた人類を排斥しようとは思っていない」
「口約束を信用するほどお人好しじゃない」
「では、人間社会において物的な保証はないけれど良識と常識とが前提に置かれているのはどうして?」
思っているより、相手は人間社会や行動規範について見識が広いようだ。話題を変えるために疑問をぶつける。
「知性を乗っ取るなんて、なんて奴だ。人間では手も足も出ない」
「普通の人間には、こんなことはできない。これは一種の緊急避難的措置なの」
「ルーフェならば誰でも構わないのか。ヒタキである必要はなかった、彼女は運が悪かっただけか」
「人間は自らが不快に感じるけれど、必要に迫られて何かを選ぶことを苦渋の決断と呼ぶ。ヒタキの体を借りているのは他に選択肢がなかったから」
「要するに、生まれたばかりで確固たる自己を確立できていないヒタキの人格を乗っ取るしかなかったということか」
小さな溜息。呆れたというよりも悲しむような彼女の声に、翠は苛立ちを覚えた。人間を知った風な物言いは、エウーリアスも人類の情報を集めていた証左だろうが、この会話の中でそれを確かめることはできない。核心に立ち入るような深い問いかけをすれば、またヒタキはいなくなってしまうかもしれなかった。この場の主導権は相手にあり、どう逆立ちしても翠がそれを取り返すことは不可能だろう。
切実に、翠はヒタキというルーフェに同情し、哀れんだ。心という、自分自身を保つためには神聖不可分な領域を土足で踏みにじられている彼女は、今まで通りではいられないだろう。
なんとしてもヒタキを救い出さなければならない。翠は決意した。即ち、一人でこの星の意思と相対し、生還することを。一人の人間として果たし得る責務であるかは、覚悟という言葉が使われた歴史の例に漏れず、翠の意思決定にいささかの影響も及ぼすことはなかった。
「少し借りているだけよ。彼女もこの声を聞いているし、わたしが感じる限り、彼女が不安や恐怖を抱いている様子はない。ヒタキは全てを受け入れている」
「それが事実だとしても気に入らないが、まず聞きたい。お前はエウーリアスなのか?」
「それは、あなたが人類なのか、という問いかけと同じ。あなたは人間には違いないけど、人類という総体を体現する知性とはいえない。人間だと答えることはできるけど、人間すべてを代表することはできない」
「君以外にも知性が存在し、一概にエウーリアスを代表する意思とは断定できないのか。君に名前はあるか?」
「名前など意味はなさないでしょう。どこにいるか、それだけが重要なはず」
「お前はヒタキを拉致し、その身体を奪うことで<ミズカゼ>に乗り込んできた。お前は人類と意思疎通を取る必要があり、そのためにここへ来たのだろうと考えているが、正しいか?」
ひときわ巨大な積乱雲が下方を通り過ぎていく。少し目線を上にあげれば濃紺と漆黒が層をなす宇宙空間が帳を下ろしている。
超音速巡航中の機内は耳に痛いほどの静寂が満ちており、心なしか翠を責め立てているような気がした。空気感を感じた程度でしかないが、これがよりはっきりすればルーフェの感じる敵意となるのだろうか。
意外にもエウーリアスの意思を思われる彼女は、行儀よく頷いた。ヘルメットが上下に動く。それを見て、翠は彼女が自分に見られていることを知っているのだと気付いた。
「正しいわ」
ようやく話が通じるということだ。
データリンクを確認する。<ミズカゼ>はスタンドアロン状態ではない。常に<サギリ>からの情報支援を受けており、この状況もリアルタイムで、<サギリ>の艦橋の薄暗がりで神室少佐たちが監視しているはずだ。特に無線通信も飛んでこないことからすると、現場の判断に任せるということなのだろう。たとえ<ミズカゼ>が撃墜されたとしても、情報は残る。
「お前は、人類を排除したいのか」
「いいえ、わたしはあなた方を殺害したいのではない。それが目的なら、既に実行している」
「しかし、メタファによる攻撃は続いている。惑星地表に降り立った人間と資材は全て消滅した。エウーリアスという惑星は人類を拒んでいるのではないか」
「拒んではいない。こちらも準備を整えたかっただけ」
「戦いの?」
「対話の、よ。あなたの名前は?」
突然に問われたが、翠はすんなりと答えた。
「要翠少尉。ソルベルト連邦第二開拓艦隊、第二〇一飛行戦隊所属だ。おれ個人の名前は、姓が要で、名が翠だ」
「では、翠。あなたは国家という集団に属して社会を構成する一員となっている。他の国家に属する何者かから、『人間は善人か?』と問われたとして、回答できるかしら」
「できないな。なぜなら、善人も悪人も存在するからだ。なるほど、エウーリアスの意思は複数存在するのか。思ってもみなかった」
「誤解を恐れずに言うのなら、人間のように完全に分かたれた知性を有するわけではない。どこにいるかが重要なの」
「大陸だ」
唐突に意識の中に割り込んできた神室少佐の声に、翠は度肝を抜かれる思いだったが、すぐに理解した。同時にサイドスティックを傾け背面姿勢に移行。眼下を流れる翠と砂色の混じった亜大陸を目視する。
エウーリアスには三つの大陸が目立つが、他に七つの亜大陸も確認されていた。いま翠は北極に近い位置から西へ転進している高緯度地域を飛行しており、視界には亜大陸のひとつが入っている。鳥類の片方の翼をもぎ取り、地面へ放り投げたような形をしたその亜大陸は緑が豊かで北部は積雪で白く染まっており、北西から南東へ貫く山脈が猛々しい雄大さを誇っていた。
翠と神室少佐の解釈が正しいと伝えたいのか、HMDのワイプ表示に映るヒタキが操縦桿から手を離して拍手をする仕草が見えた。
「これでようやくお話ができそうね」
ヒタキは軽やかに、嬉しそうにそう言った。
*
<サギリ>の艦橋に設けられた航空管制ブースで神室少佐は素早く振り返る。
そこには三人の妖精が立っていた。
砂色のミズカゼ。
朱色のアダナミ。
白色のユキシロ。
いま現在、惑星エウーリアスの大気圏内に在るのは<ミズカゼ>の機長席に座る要翠少尉のみだ。レーダー員であるミズカゼはここにいて、メルカトル図法でエウーリアスの全容を映している大型スクリーンの映像を瞬きもせずに凝視している。<サギリ>は直線距離で二万キロメートル以上離れた位置の軌道を周回していて、今すぐに<アダナミ>、<ユキシロ>を増援に向かわせたところで翠を救い出すことはできない。
要翠は今、たった一人で惑星そのものと対峙し、渡り合っている。これまでの会話を聞いていても、まったく気後れせずに言葉を返している彼の胆力には畏敬の念さえ抱くほどだ。何気なく発する言葉ひとつで、自身の生命どころからエウーリアスの持つ人類観にも影響を与えかねないと翠は理解しているはずだ。
いや、それ以上だろう。何しろ自分は数万キロを隔てた位置で話を聞いているだけだ。今まさに機上にある翠の肌の上に張り付いているはずの緊張感は筆舌に尽くしがたいもので、音声だけでは判別できない翠にしか知覚できない情報は膨大なものになる。そうした点では、この状況で人類もルーフェも、彼の代わりに第一人者となることは不可能だ。
正に知性の戦いだ、と神室少佐は全身が総毛立つことにも気づかないまま、状況の中に埋没していく自我を必死に現実へと繋ぎとめる。
手も足も出ないのは確かだが、備えを怠る理由にはならない。神室少佐はルーフェたちの前まで歩いていき、薄暗い画面に映る<ミズカゼ>のアイコンを指さした。
「誰でもいい、要少尉の置かれた状況を感じ取れる者はいるか。ユキシロ、どうだ」
「遠すぎます」白い女の赤い瞳は、どことなく落胆しているように沈んだ色をしている。「今すぐゲンチョウに乗り込み肉薄するのならば話は別ですが、ここまで労力をかけて翠に接触したと考えると、メタファによる妨害も無視できない規模となるでしょう。アダナミ、どう?」
「わたしも同意見。人間にはわからないと思いますけど、敵意は鋭くて痛いので、数百キロ先からでも感じ取れることがあります。でも今回は桁が違う」
「なんとなく、わかる。優しさよりも怒りのほうが直接的で強いものだ」
「驚いた。わたしたちの感覚を人間が理解できるなんて」
「わたしたちは人間を基に設計されているのだから、不思議ではないわ」
冷たく言い放つミズカゼをちょっと見て、アダナミは納得したようにうなずいた。ユキシロも片眉をあげている。
ミズカゼは、画面を凝視したままだ。目を離せないのではなく翠のことを考えているのではないかと神室少佐は思ったが、言葉にはせずに二人のルーフェと、背後で佇むパイロットへ命じる。
「<アダナミ>、<ユキシロ>の両機はスクランブル用意。だが装備は通常任務用のものをぶら下げていけ」
「あいつを迎えにいくので?」
甘木少尉の間延びした声に、神室少佐は首を横に振った。
「いや、<サギリ>への攻撃に備える。要少尉の言動でメタファによる攻撃が行われるかもしれない」
「可能であれば、迎えに行きましょう、少佐。要少尉はぼくたちにとって必要な人だ」
「ユーエ少尉、そんなことは言うまでもない。だがそれは君たちも同じだ。さあ行け」
ユキシロ、アダナミ、甘木、ユーエの四名が敬礼もそこそこに駆け出していく。ミズカゼだけがそこに残った。
神室少佐は彼女の視線の先を辿りながら、その中に答えが無いものかと目を凝らす。
冷たいディスプレイの向こうから、言葉を交わす男女の声が聞こえてきた。
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