第四話
給養班長にサラダとチキンソテーを頼み、ついでにアイスコーヒーを大きなグラスに注いでトレーに乗せる。テーブルに近づくと、ミズカゼは起立し、頭を下げて敬礼した。
「楽にしろ、ミズカゼ。おれたちは休暇中なんだ」
「しかし、階級はなくなりませんので」
「確かにな。うん、お前の言う通りだが、肩肘張る必要はないよ。階級っていうのは極度の緊張状態で最も効果を発揮するものだからな」
どっかりと腰を下ろし、みずみずしいトマトとレタスにフォークを突き刺し、口に運ぶ。ミズカゼはといえば、ほとんどミルクなのではないかと思えるほど白いカフェオレらしきものを、翠と同じくらい大きなグラスに注いで両手で握りしめている。時折、その液面に視線を落としては一口飲み、翠の顔へ視線を戻し、またカフェオレを飲むという動作を繰り返した。明らかに状況を理解できておらず困惑した様子だが、腹が減っているため一先ず食事に専念する。
何度か同じ動作を繰り返した後で、あの、とミズカゼは声を発した。サラダを片付けてチキンソテーにとりかかった翠は、鶏胸肉から顔を上げる。
「なんだ?」
「差し支えなければ、この食事の目的をお教えください」
「ああ、すまん。腹が減ってたから、つい夢中になって食べてた。おれが誘ったのは、君と話したいことがあったからだ。ちょうど時間もよかったし――」
「待ってください、これは逢引ですか?」
飲み込みかけたチキンソテーが逆流しむせ返った。周囲の<サギリ>乗組員たちがこちらへ顔を向けるが、すぐに自分たちの会話へ戻っていった。ルーフェと人間は珍しい組み合わせではあったが、彼らの興味を引くほどではなかったらしい。<サギリ>艦内では、得体のしれない様子で理解できないことを口走り、エウーリアスの意思を感じ取るサイキックの人工生命は触れづらいものとして扱われていた。翻って三人のパイロットには親近感を持っている乗組員が多いため、三人のレーダー員は戦闘機の付属品扱いをされているのかもしれない。
今のミズカゼの発言が誰にも聞かれていないことを、首を巡らせて確認しつつ、翠は頭を振った。まさか閉鎖的特殊社会の産物のような彼女の口から、逢引などと俗世的な言葉を聞くことになろうとは思いもよらなかった。
「そんなロマンチックなものじゃない。それとも、君にとってはこれがデートなのか?」
「いいえ、デートには該当しません。ただ食事をしているだけですし、話すといってもロマンチシズムの欠片もない内容でしょう。つまり、軍務です。違いますか?」
「その通りだ、だからこれはデートじゃない」あらかじめ明言しておくとして、フォークの先を彼女へ突きつける。「おれが話したいのはだな、ミズカゼ。一昨日のあの戦闘について、君の見解を聞きたいんだ。どう感じ、何を考え、どうするべきと思量しているのかを」
「お言葉ですが、わたしは休暇中です、少尉」
「だからさ、ミズカゼ。任務中におれたちはこんな話をする余裕はないだろう。だから、今、話している結果的に軍務に資するものであるとしても、こうして自由に会話し、意見交換することは重要で、有意義だ。違うか?」
少し考えこんだミズカゼは、なるほどと頷いた。
「任務中でなければ、休暇中にするしかないですからね。一昨日の戦闘についてですが、何をお聞きになりたいのですか」
「聞くというより、相談したい、というのが心根だ」
先ほど自室の前でアダナミと話して気付いたことを、翠はそのままミズカゼにぶつけた。彼女は時折うなずきながら話を聞き、本題であるミズカゼ自身のことを翠が何も知らず、それはエウーリアスを知らないことと同じなのだ、と締め括った。
ミズカゼにこのことを話すことに良心の呵責を覚えないではなかった。お前は人間ではないのだと言っているに等しいからだが、それはおれの問題だと翠は開き直っていた。ミズカゼ自身がどう感じるかは、ミズカゼにしかわからない。この話を持ち出した際の彼女の喜怒哀楽も観察するに値する、重要な情報だと翠は考えていた。要するに人間扱いをしていないということなのだが、ミズカゼは人間ではなかった。その亜種で人権問題が云々と小難しいことを考える前に、ミズカゼはミズカゼであり、そしておれは彼女のことを知らないのだ、と翠は自覚できた。
ところが想像とはまったく異なる反応――無表情のまま、ミズカゼはいつも通り頷き、口を開く。
「少尉の仰りたいことは理解しました。率直に申し上げれば、そうですね……目から鱗です」
「驚いたってことか?」
恐る恐る問い返す翠に向け、ミズカゼは柔らかく微笑んだ。悪戯をした生徒を教え諭す教師のようだが、彼女の笑顔はより深い慈愛に満ちていた。
「ええ。一昨日の意思探査任務に出撃する前のあなたは、とても不機嫌で、そんなことは頭に無かったようでした。ただ飛んで、帰ってくることをを考えて、とても集中していた。任務終わりにエールを一本空けることを優先していた」
大仰なため息と共に、平らげたチキンソテーとサラダのトレーを脇に避け、コーヒーに口をつける。ほろ苦い黒い液体は確かな豆の香りを有する、航宙軍が調達する合成飲料よりも格段に味の良い代物だ。
「否定はしないよ。おれにとっては意思探査任務など、仕事のひとつでしかない。臨死体験ではないが、あの時、<ミズカゼ>――君のことじゃなくて、機体のことだ――の周囲は、死と敵意に満ちていた。メタファの翼が風を切り、機体外殻を掠め、気流を乱すのさえ、この肌で感じられたほどだった。あの時、意思探査任務は仕事ではなくなった。いや、仕事には違いないんだが、もっと原始的で直截的な闘争の場なんだ」
「生命の危険を感じ、本能的に生き残るための方策を考え始めている、ということでしょう。あなたはメタファの明確な殺意を感じ、これまで教条的にこなし過ごしてきた意思探査任務が、実は掌の中におさまっていたものが爆弾だったと気付いたかのように、脅威と感じた。そしてエウーリアスに留まっている限り、その脅威から逃れることはできません」
「君の言う通りだ。おれは正に今、戦闘中のように感じることもできるだろう。例えば百を超えるメタファが同時に<サギリ>めがけてきたらどう応戦すべきか、というようなことを真面目に考えるべきだとも思う」
無意識の内に、言葉の持つ意味と言外のニュアンスに世界観が歪められていたとも考えられる。他に、人間は役職や立場といった社会的しがらみがある。
ミズカゼとの会話により、ひとりでに歩き始めた思考がさらに走り始めたようで、しばらく翠は腕を組んで考えこんでしまう。そんな彼を前に、ミズカゼは思考の邪魔をしないように黙って俯いていた。
「要するに」ようやく腕を解いて、「ある意味で、おれは軍人としての立場を捨て、要翠という一人の人間として切実に生存戦略を練ろうとしている。そして君はこれまで、ずっとこれに取り組んできた。そうだろう、ミズカゼ」
「これ、というのは何でしょうか」
「意思探査任務のことだ。くそっ、何が探査だ。そんな余裕はない。はっきり言って、かなり危険な威力偵察任務だ、おれたちが、第二〇一飛行戦隊がやろうとしていることは。三機じゃ全然、まったく足りない」
今度はミズカゼが翠の言葉を咀嚼するように腕を組み、同意の印に首を縦に振った。
「同感です。わたしも少尉に言われて、あらためて気付くことができました。少尉の任務に取り組む際の心の動きには、以前から違和感があったのです。その理由は結局、あなたが意思探査任務を戦闘任務だと心の底から捉え、恐れていなかったからでしょう」
「油断していたからな」
「それは仕方のないことです。人間はあの惑星の地表を見ても、大自然と青空、そして宇宙を畏怖するでしょうが、ルーフェからはまったく異なって見えます。エウーリアスには知性が宿っているといわれていますが、わたしからすれば、知性と感情が無数に存在して、蠢いているように感ぜられます」
「アダナミとユキシロも同じなのか?」
「彼女たちと話してみないことにはわかりませんが、恐らく異なるでしょう。ルーフェは意図的に設計された塩基配列により、生来の感覚鋭敏化処置が施されていますが、世界観は異なります。要少尉と甘木少尉が、同じエールの味を同じ味と認識しているか証明できないのと同じです」
「だが、間違いなく人間であるおれや甘木少尉とは異なる感覚を君たちは持っている。君の言葉を信じるのであれば、エウーリアスには複数の知性が活動していることになる。エウーリアスたちということだ」
「これはあくまで私見ですが、その表現も正確ではないでしょう。人間やルーフェの脳構造においても、例えば脳のある一部分が視覚を司り、もう一部分が聴覚を管轄するのと似ています」
「なんだかな」
「なんです?」
憮然とした顔で翠は手にしているグラスを睨み、中身を一気に飲み干した。ミズカゼがやや表情を強張らせるのを見て、自分の苛立ちが彼女に伝搬しているのだと気付いた。
「そんなことも考えずに飛んでいたのかと思うと、忸怩たる思いを抱かずにはいられない。間抜けじゃないか、おれは」
「そんなことはありません。要少尉の操縦があったからこそ、<ミズカゼ>は墜ちなかった」
「お世辞はいいよ。はっきり言って、<ミズカゼ>は君一人で操ったほうがいいだろう。そのほうが効率的だ」
肩を竦める翠を、ミズカゼはじっと見つめる。顔を凝視されて少し戸惑ったが、突然、彼女がそんな反応を示した理由がわからず、眉をひそめた。
やがてミズカゼはゆっくりと頭を振りながら、呟くように言った。
「あなたはもう少し、ご自身についても学ばれたほうがよさそうですね」
「どういうことだ?」
「今日はここまでにしましょう」
すっくと立ち上がり、ミズカゼはグラスを手にさっさと歩み去ってしまった。いつの間にか彼女もグラスを乾かしており、返却口にそれを突っ込んで軽く給養員に礼を言うと、食堂を後にする。
わけがわからないまま、何か彼女の気に障ることを言っただろうかと考え、いや、そうではないと諫める。
きっとミズカゼのいう通りなのだ。おれは自分自身についても、何も知らないに等しい。この惑星に在りながら、要翠という人間に何ができるのか。
少し考えてから、自室に戻って寝ることに決める。そのあとで、格納庫へ行き任務機の帰投を見届けよう。
<アダナミ>と<ユキシロ>の翼なら、少しはエウーリアスの冷たい空気を運んできてくれるはずだから。
*
自室に戻ってシャワーを浴びる。こざっぱりとした体でベッドに潜るのが目覚めてからの習慣で、空調を少し強めに利かせた室内でタオルケットを体に巻き付け横になった。まるで子供のようだと誰かに言われたのを思い出す。特に反駁も困惑も覚えなかった。何故なら、彼女は未だ子供のままで間違いないのだから。
ミズカゼは自室の天井に這いまわるダクトや配線の束を見つめながら、しかし大人でもない、と自らの持つ特殊性を意識した。
人間の基準で世界を測るのは愚かなことよ、とユキシロに諭されたことがある。ミズカゼも特段、アダナミのように直情的なわけではないのだが、ユキシロは三人いるルーフェの中でも特に思慮深い個体だ。寡黙で物静か、怒ることは滅多にない。<サギリ>艦内はマンタリア星系でも特に人口が多いわけではないが、エウーリアスの引力圏内では間違いなく最大の人口過密地帯だ。それでも集中すれば意思探査よろしく色々と感じ取れるものがあるわけだが、ミズカゼはユキシロの感情の機微をあまり感じたことがない。
一度、アダナミがそんなユキシロに突っかかっている場に出くわしたことがある。後で聞いた話では任務中に甘木少尉と軽い口論になり、飛行中に蓄えたストレスを通りがかったユキシロにぶちまけていたようだが、その間も彼女はどんな感情も表出させることなく、ただ黙ってアダナミの罵倒を聞いていた。聞き流してはいなかったと思う。しかし、本当に目を開け耳をふさいでいないのかと疑念を抱くほどに、ユキシロからはどんな感情も流れてはこなかった。翻ってアダナミのほうからは爆竹が爆ぜるが如く騒がしいものが飛び出していた。
「おれの相棒がお前でよかったよ」
要翠の言葉に、ミズカゼはどういうことだろうと首を傾げてしまった。何故なら、彼はアダナミとユキシロの小競り合いを目の当たりにしているはずなのに、心の底から甘木少尉に同情していたからだ。ミズカゼの目には、いま同情されるべきは間違いなくユキシロであるように写っていたのだ。
実際、アダナミの罵詈雑言はミズカゼにとっても聞くに堪えないものだったし、ユキシロは本当に通りがかっただけなのだから、公衆の面前で謗られるいわれはないはずだ。だからミズカゼはユキシロに同情した。しかし翠は甘木少尉こそがかわいそうだと憐憫を感じているらしい。これはいったいどういうことか。
そんなことを考えながら、いつも通り食堂のいちばん奥まったテーブルのさらに角でデザートのモンブランにフォークを突き立てた時、唐突に目の前の席にトレーを持ってやってきたユキシロが鋭くミズカゼを睨みながら、ミズカゼに言ったのだった。
「あなたは人間になりたいの?」
「いいえ。どうしてそう思うの?」
「あなたは人間を気にしすぎる。彼らの心を感じたからといって、何になるの」
珍しく苛立ちを垣間見せたユキシロはそのあと、一言も発することなく食事を終え、去っていった。わたしの感情を感じてごらんなさいと言わんばかりであったが、ミズカゼは少し考え、ユキシロの言葉は正しいと結論付けた。
結局、創造主がルーフェに求めているのは人間としての役割ではない。人間を求めるなら、これまで厳しく規制されていた遺伝子改良技術を再興させて高価なルーフェを三体も製造する必要など、無いからだ。人間など宇宙に星の数ほどいるのだから、その内、優秀な適性を持つ者を選び出してエウーリアスへ送ればいい。しかし、実際にはそうならなかった。なぜわたしたちはここにいるのだろうか、という疑問を明白に持たずにいたミズカゼは、しかしユキシロの言葉を受け止めてもその疑念には至らない。ここにいるのだから、それがすべてだ、と受け入れていた。
結局、ユキシロは人間に迎合しているようなミズカゼの態度が気に入らなかった、それだけの話だった。ユキシロは自己の
わたしも今日は色々と気付くことができた、とミズカゼは内省しつつ目を閉じる。要翠少尉から食事に誘われた時は驚きよりも困惑が勝ったが、彼の思考方式の変化は目覚ましかった。いつもどこか不機嫌でミズカゼと距離を置いていた翠の姿は、今やどこにもない。人間の生存本能はルーフェにはない才能だ、と驚嘆すると共に、それを意識していない彼自身に少しだけ危惧を抱く。
当然のことだが、人間は社会の中で、人間にしか囲まれて過ごしたことがない。ルーフェのように、少しずれたり、エウーリアスほど特異な知性の存在と介入を許さない構造を作り上げている。人間そのものへの遺伝子改良を厳重に封じてきたり、人工知能技術の進歩を、まるで爆弾の製造工程を見るように戦々恐々としつつ監視するのは、つまり人間社会に対する脅威、人間しか存在しないからこそ社会ができているという暗黙の了解を脅かす概念として認識しているからだ。異なる知性が共存すれば、そこには生存競争が発生する。常時感じる姉弟夏力に対し、多くの人間は適応よりも逃避と拒絶を選ぶだろう。要翠は、一昨日の戦闘まではそのどちらでもない宙吊り状態のまま、自分が命を懸けていることに気付いていなかった。
第二〇一飛行隊に赴任した当初から、ミズカゼはその違和感に気付いていたが、何を言うでもなく本人の為すがままに任せた。第一にこれは軍務であり、命令を発するのは神室少佐で、<ミズカゼ>は彼の言う通りに飛べばいいからだ。その時はまだメタファの攻撃も限定的なもので、生命の危機を間近に感じる機会がさほどなかったことなどが理由だ。翠の信頼をミズカゼが得ていなかったからでもある。身も知らぬ人間の形をした何かに、「貴方の認識は甘すぎる、このまま飛んでいては死ぬだけだ」と甘言したところで嫌な顔をひとつされて終わりだ。
ユキシロの、ルーフェとして人間に忖度せず自立した姿勢を取るのは、それが理由ではなかろうかとミズカゼは考えた。このままでは飛行隊は全滅する、人間などに任せてはおけない、というエリート意識だ。それは間違いないのだが、人間との関係性を損なえば別種の危険が発生する可能性がある。人間のほうが数が多いのだ、ルーフェは危険だ、となれば、<サギリ>艦内において抹殺される事態ともなり得る。突飛な想像だが、ユキシロは潜在的なエリート意識が強すぎるあまり、そんな可能性を見落としてしまっていると思われた。三人のルーフェにとっては意思探査任務の遂行こそが存在理由であり、何より優先すべきことで、ミズカゼとアダナミの存在は足を引っ張るだけだとも考えているかもしれない。
違う、わたしにとって重要なのはユキシロではない、とあらためて要翠へ意識を戻す。
あの青年は特別だ、とミズカゼは直感を得ていた。そんなことはミズカゼの短い生涯の中で初めてのことだった。何かの才能を持っているのではなく、例えば海の中に光る真珠を見つけ、見失ってしまったような、そんな感じだ。間違いなく他の人間とは異なるのだが、それがどの部分、どんなところで、という具体的な説明を行うにまで思考が至っていない。
感覚が鋭敏すぎると、時折、こうして思考が後を追い言語化が難しい場合がある。ルーフェには、ルーフェ自身ですら持て余す何かがあり、それが人間でいうところのサイキックなのだろうとミズカゼは思う。つまり、これがわたしの武器だ、と。
――<ミズカゼ>は君一人で操ったほうがいいだろう。そのほうが効率的だ。
翠の言葉を思い出し、胸の内で例えようのない怒りが湧きたつのを感じて、ミズカゼは戸惑った。寝返りを打ってうつ伏せになり、薄い枕に顔をうずめてみるが、石鹸と自分の髪のにおいがするだけで答えはない。理由はわからないが、この感覚はあまり考えないほうがいい気がする。
翠が、ミズカゼを評価し信頼しているからこそ放った言葉なのだと、頭では理解できている。しかし、もし彼の言葉通りに相成ったとしたら、それは彼女が、彼を置き去りにするということだ。本人に自覚はないようだが、要翠は非常に優秀な戦闘機パイロットだ。身体能力、動体視力、判断力、決断力のほとんどが高水準でバランスを保っている、人間のハイスペックモデル。
(なんだか、調子が狂うなぁ)
人間はこんな時、酒を飲むのだろうかと他愛もない思考を最後に、ミズカゼは浅い眠りに落ち込みそうになったが、すぐにブザーの音が響いて目を覚ます。寝台から起きてブーツに裸足を突っ込み、入口までいってハッチを開いた。
そこに立っていたのはアダナミだった。真っ赤な髪の毛に碧眼を輝かせ、通路から薄暗い居室に差し込むほのかな明かりを反射してきらめいている。その目が驚きに丸くなり、ミズカゼの頭の先からつま先までを眺めまわす。
「なんて格好してんのよ、破廉恥ね」
そこで初めて、自分が下着姿だったことに気づく。艦隊支給の色気もないスポーツタイプのものだが、ミズカゼ本人が自覚せずとも、細いがメリハリのある背の高い肢体と長い砂金のような金髪、そして透き通った緑眼が妖艶な雰囲気を醸していた。
「ごめんなさい、寝てたものだから。何かあったの?」
アダナミはシャワーを浴びたばかりなのだろう、湯気が立つほど頬を上気させていて、洗い立ての軍服を身に着けていた。そういえば<アダナミ>は<ユキシロ>と編隊を組んで意思探査任務に出ていたのだと思い出す。
「異常事態が起きたのかという問いなら、違うわ」アダナミは腕を組んでミズカゼの顔を見上げた。「ちょっと話せる?」
(今日はみんな、わたしと話したいのね)
反射的に心の中で呟くと、アダナミが眼を瞬いた。
「なに?」
「何でもない。どうぞ、中に」
下士官の居室は全て同じ作りだが、<サギリ>は元々の採掘船より少ない人数で運用されているため、一人一室の贅沢な使い方をしている。ミズカゼは今の今まで眠っていた寝台に腰かけ、アダナミは反対側の使っていないものに飛び込んだ。小さな少女の体がぼふんとスプリングで跳ねる。
「単刀直入に聞きたいんだけど」
「うん」
「さっき、要少尉のこと考えてた?」
隠すことでもないのでこくりと頷くと、アダナミは目を輝かせて前のめりになった。
「もしかして、それって恋?」
「違うと思う」
バッサリと切り捨てられ、アダナミは途端に興味をなくしたのか、なんだぁ、と言って寝台の上にころんと転がった。彼女は三人のルーフェの中でいちばん少女趣味というか、年相応、思春期の人間の女性らしい感性を持っている。恋、などという言葉が飛び出してくると思っていなかったミズカゼは、個体が異なるとこうも世界観に食い違いが出るものかと興味深くアダナミを見つめた。
だが、次にアダナミが発した言葉がミズカゼの胸に突き立った。
「まあ、そりゃそうよね。さっき<サギリ>に帰投した時、ミズカゼの憎しみを感じたし」
「え……憎しみ? わたしが?」
「うん。ミズカゼ、すごい怒ってた。ぜったい翠が何かしたんだと思っていたんだけど、違う?」
「違うわ。要少尉は紳士的で、良くしてくれる」
「なら、さっきの怒りは誰に、何に対しての怒りなの?」
問いかけられ、返答に窮した。先ほど考えていたのは、確かに翠についてだ。少し怒りを感じたのは確かだが、憎悪、というアダナミの表現がやけに気になった。わたしはそれほど要少尉に執着しているのかしらん、と考え、いやそんなことはない、やはりアダナミの勘違いではないかと考え、そう伝えた。
納得していない様子だったが、そう、とだけ言ったアダナミは来訪した時と同じように唐突に去っていった。興味がなくなったというより、いま問い質したところで面白い話が聞き出せるわけではないと判断してのことだったが、ミズカゼは思いがけず降って湧いた疑問に頭を悩ませた。
つまり、ミズカゼは要翠をどう思っているのか、ということだ。ただの機長、信頼のおける同僚。戦場で命を預けるに値する相棒。それだけだ。答えは明白であるのだが、しかしどこかにしこりの残る答えであるのも事実で、ミズカゼは不貞腐れたように寝台へまた潜り、目を閉じる。
翌日、ミズカゼは人生で初めて寝坊した。
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