第五話

 <アダナミ>と<ユキシロ>の意思探査任務は順調に遂行されたが、成果としては芳しいものではなかった。つまり、何事もなく行って帰ってきたものの、何もわからない、分析する情報すらも見当たらないということだ。神室応助少佐は、希薄な出来事の羅列から何か情報的価値の高いものが得られないかと血眼になり、いつになく長考に耽っていた。

 惑星エウーリアスにおける意思探査任務のため、仮装航空巡洋艦<サギリ>が竣工した当時から乗り込み、情勢を分析し続けている神室少佐にとって、この状況が何を意味しているのかを探ることは困難を極めた。これまでの場合、たとえばメタファによる攻撃やルーフェの感じ取る感覚情報から位置情報を含めて分析を続けてきたのだが、今回はそれすらない。アダナミもユキシロも、僅かな敵意さえ感じなかったと報告している。

 要するに、先日の出撃時、エウーリアスの空は他の多くの人類居住惑星と同様の普遍的な空であり、これまで<サギリ>が直面してきた如何なる超常的事象とも無縁な惑星であったということになる。

 明らかな異常事態であり、本来は情報分析は神室少佐の専売特許だが今回は事情が異なる。異例のことながら機長である甘木少尉、ユーエ少尉にはそれぞれ口頭で所感を求めた。出頭した二人の優秀なパイロットは口を揃えて何も異常は無かったと報告した。

 異常とは言い難いが何か兆候のようなものは無かったか、と続けて問い質す神室少佐に、二人は顔を見合わせた。年長である甘木少尉が、少佐の座るデスクの向こう側に視線を固定して答える。

「報告ではなく、個人的な感想でもよろしいですか?」

「もちろんだ」

「ではまずお聞きしたいのですが、今回の飛行について、少佐は何か……何かが起こるという予測を立てておいででしたか?」

 質問の意図がわからず、神室少佐は少しだけ考えたが、当の本人に聞いたほうが早いと手を振って先を促した。居心地悪そうに後頭部を掻きながら言うには、次のようなことだった。

 飛行中に何も異常が無かったことは事実で、それは報告書にも記載した通りだし、帰投後に二人のパイロットが自主的にフライトコンピュータの記録を閲覧し確認を取ったことも履歴から確認が取れていた。二人は自分たちの飛行がこれまでにないものだと感じてはいたが異常と呼べる異常が無かったために、本当にそうだったのか、とゲンチョウのフライトコンピュータの記録まで参照して記憶と照らし合わせていたのだった。

 問題は無かったが、それこそが問題であるという認識はある。そこで甘木少尉とユーエ少尉が考えたのは、これは元々、神室少佐の飛行計画に織り込み済みの違和感なのでは、という推測だ。全ての飛行計画を統括し情勢分析を怠らない神室少佐が、先日の<ミズカゼ>の一件から、情勢の鎮静化を確認するための出撃だったのではないか、と。だが実際には、その考えでさえ二人には納得のいったものではなかった。というのも、不測の事態はいつでも想定し得るとはいえ、神室少佐が本当に<ミズカゼ>を多数のメタファが攻撃したことが異例であると認め、既に緊迫した情勢は過ぎ去ったものだと考えているのならば、二機を同時に出撃させる必要など無いからだ。例えば、<アダナミ>を飛ばして<ユキシロ>を緊急出動スクランブルに備え待機させるだけでもじゅうぶんだ。となれば、両機を同時に出撃させるのは、少なくとも神室少佐の考える範囲ではそれに見合った脅威が意思探査任務に発生し得ると想定しているからに他ならない。

 もちろん、神室少佐は必要と感じて二機同時出撃の計画を策定した。それは間違いなく事実であるのだが、実際に出撃した甘木少尉がそう感じているのであれば、状況そのものが神室少佐の思惑から外れたものとなっていたのは間違いないだろう。

 神室少佐は視線をユーエ少尉へと転じた。まだ髭も生えていないような茶髪の青年は右に同じと頷いた。つまり、これで甘木少尉の感覚がずれていた線も消えた。

「この出撃において、わたしが前回の<ミズカゼ>のような脅威に君たちが晒されると考えていたかどうか、ということを聞きたいのであれば、答えはイエスだ。わたしは<アダナミ>と<ユキシロ>が攻撃されると想定し、今回のローテーションとなった」

「攻撃の確率は?」

「かなり高いというのが見立てだったよ。言うまでもなく、外れたがね」

「合点がいきました。少佐は今回の探査任務が何事もなさ過ぎたと感じておいでなのですね?」

「その通りだ。わたしの認識齟齬の有無を確かめるために、君たちをここへ呼んだ」

「であれば、我々も同じ感想です。少なくともメタファによる襲撃は発生するだろうと踏んでいたもので、肩透かしですよ。なあ、ユーエ、お前もそう思うだろ」

「自分は」まだ声変わりもしてないような高い声でユーエは口を開いた。「最悪の場合、この出撃で死ぬだろうと考えていました。<ミズカゼ>の戦闘から何かを知ろうと考察を重ねるのは、人間だけではないはずです。エウーリアスも、同じように我々の行動を考え、対応を行った、とは考えられないでしょうか」

 それはこれまでも同じことなのだが、指摘としては鋭い、と神室少佐は頷いた。既に超自然的現象が発生し、意思の有無に関わらず実体を持たない何か概念的なものを有している可能性の高いエウーリアスにおいて、反射的な対応は無かった。本当に人類を敵視し、滅ぼそうとしているのならば、先日の<ミズカゼ>攻撃のように多量のメタファを投入すれば事なきを得る。だが実際には威力偵察のように、時折、意思探査任務を実行している飛行隊機をメタファが要撃インターセプトするに留まっている。

 予測では、エウーリアスは。しかしそうしてはいない、となれば単純な敵意や反感よりも、より深い理由がエウーリアスの意思決定に含まれているのは間違いないだろう、だからこその意思探査任務であり、それはレコード盤のどこにマインドが刻まれているのかを探るシーキングような作業となる。エウーリアスは広大だ。惑星ひとつぶんの思考を人間の脳で理解するには地道に情報を収集し、あらゆる角度から分析を重ねていくより他にない。

 ユーエ少尉の指摘は、それは人類のみならず、エウーリアスにとっても同じことが言えるのではないか、ということだ。もちろん、神室少佐としても先に述べたような前提をパイロットよりも深く認識していたからその前提に立って飛行スケジュール、および任務の主眼を設定していたわけだが、こうしてパイロットにも違和感を抱かせる程状況が変化しているのは、つまりエウーリアスが人類に対するアプローチを変えたとも解釈できる。

 那須大佐との会話の中で伝えた、戦闘機パイロットの認識問題がここで浮上してくる。甘木も、ユーエも、当事者として違和感を覚え、うっすらと危機感も抱いているはずだが、状況分析と意思決定を神室少佐に一任してしまっている。軍人としては上官の命令を信じ実行することは正しい資質だ、このエウーリアス以外では。だが軍紀は以前として存在しており、<サギリ>艦内に限定したとしても司令部に問題行動と取られれば憲兵隊の出番となるだろう。神室少佐が部下に自由行動と戦略考察という、およそ少尉という階級には相応しくない言動を行うよう能動的に促すことができないのはそれが理由だった。また、甘木少尉、ユーエ少尉、そして要少尉にしろ、上官からそのようなお墨付きをもらったところで喜ぶどころか不審に思うだろう。

 あくまで、この惑星での飛び方を覚えるには、各パイロットの自発的な成長に任せるしかないと神室少佐は結論付けていた。油断できない意思探査任務においてこのような不確定要素を抱え込むのは神室少佐の本意ではもちろんなかったが、それ以外にやりようがなかった。最終的には、<サギリ>に乗り組む人員全てに同じ危機感を共有することが理想ではある。それを洗脳と呼ぶのだ、と神室少佐は知らず、逸る自分を諫めた。

「ユーエ少尉の指摘は考慮すべきだが、現状ではまだ何もかもが確定的ではない。我々は可能性に着眼し考察する必要がある」

「では、今後も意思探査任務は継続するんですね」

「もちろんだ。君たちにも、一層の健闘を期待したい。以上だ」

 二人は敬礼、執務室を後にした。神室少佐は今しがたの会話を反芻し考えたうえで、携帯端末を操作しメッセージを送信した。

 程なくしてやってきたのは、軍服のズボンにティーシャツというラフな出で立ちの要翠少尉だ。彼は入室してくると型どおりの敬礼をしてから、執務机の前で休めの姿勢を取った。

 僅かな変化に、神室少佐は目を見張った。要少尉からすれば、いつも通り仏頂面の神室がじっと顔を凝視してきただけであるが、内心の驚きを表情に出さないよう努力しなければならなかった。

 眼球から網膜、視神経を通じて大脳が収集する視覚情報は想像されるより膨大なものだ。そのすべてを言語化できる機能は人間には備わっておらず、神室少佐も、目の前に立つ一人の部下がこの数日間で如何なる人間的成長を遂げたのか、的確に形容する言葉を探すのに手間取った。それほどまでに、要翠少尉は肝の据わった目をしていたのだった。数日前に命からがら逃げ帰り、青ざめた顔に恐怖を色濃く浮かべていた彼とは見違えるばかりだ。

「要少尉、出頭いたしました」

「ご苦労。休暇中のところ悪いが、聞きたいことがある」

 <アダナミ>と<ユキシロ>の出撃の件を軽く説明し、二人の所感を伝えたうえで、この状況をどう見るかと翠に問いかける。ほんの数秒だけ考え込んだ翠はすぐに答えた。

「次が危ないでしょう」

「次、とは」

「それはもちろん、次回の出撃です」

「なぜそう思う」

「甘木も、ユーエも、メタファによる攻撃が無かったことに違和感を感じている。少佐ご自身もそうでしょう。であれば、エウーリアスはその考えを読むかもしれない。ルーフェは離れた場所にいる人間の感情の機微さえ感じ取る。エウーリアスに似た芸当ができないとは限らないでしょう」

 おもむろに立ち上がると、神室少佐は壁に据え付けられているコーヒーメイカーへ歩み寄り、自分の分を注いだ。手を振って飲むように促すが、翠は首を横に振って断った。普通は上官からの勧めは断らないことが軍隊の不文律であるはずで、要翠もその伝統に巻かれる為人だったはずだが。

「エウーリアスが、我々の頭の中を覗いているといいたいのか?」

 その可能性を考えない神室少佐ではなかったが、実際にはもっと感覚的な話だろう、と推測していた。つまり、エウーリアスにそのような能力があるとしても、それは人間の思考を読み取るというようなものではなく、ルーフェが人間の感情の機微に鋭敏なように、心の動きにまつわるものだろうということだ。メタファの行動が直情的で、その出現位置やタイミングには意図が孕んでいるように見えるが、その後の戦闘行動は正しく鳥が飛ぶように思考が骨子に備わっているものではないからだった。こちらの思考が読めるのであれば、より精密かつ確実な戦術を取るはずである。

「人間の思考を仔細に把握しているのではないと思います。朧げながら何かを感じ取っている。エウーリアスは惑星です、個々人の思考について認識できる世界観を持っているとは考えにくいと思量します。肌の上を這いまわる蟻を見ていても、その思考は考えません。どんな習性と生態を持っているのかを知ろうとするはずです」

 しかし翠の回答は想像の上をいった。神室少佐はコーヒーを淹れる手を止め、彼を振り返った。

「少尉、どうも君は先日の出撃から帰還して以来、何かが変わったようだな」

「そうでしょうか」

「ようやく一人前という感じだ」

 滅多に人を褒めることのない上官の言葉だったが、翠はさして感慨を抱いている様子もなく頷き返す。

「きっと、ミズカゼがいるからでしょう」

「エウーリアスは関係ないのか?」

「大いにあります。でも、きっかけをくれたのは彼女です。おれはミズカゼのことを何も知らない。エウーリアスについても同じだ。ミズカゼを知ることは、エウーリアスを知ることに繋がる」

「知的好奇心だけではないだろう。君を突き動かしているのは、純粋な生存本能だ」

「そうですね。おれは結局、この空で死にたくはないんでしょう。何も知らないままメタファに切り裂かれるのは、銃口を突き付けられているのに無抵抗のまま射殺されるのに等しい。抵抗空しく、というのならまだ諦めが付きますが、阿呆みたいに命を捨てる真似はしたくない」

 呆気にとられて翠を見つめていた神室少佐は、遂に破顔した。短いが声を上げて笑い、今度は翠が目を丸くして上官を見つめる。彼の知る限り、神室応助が笑顔を見せたのは初めてだった。他の<サギリ>乗組員にしても同じだろう。

 笑いが収まり居住まいを正すと、神室少佐は近付いてきて翠の肩を叩いた。

「もう休暇に戻っていいぞ、少尉」

 それだけ言ってコーヒーメイカーに戻り黒い液体をカップに注ぐ神室少佐を訝しむように見ながら、おずおずと翠はたずねる。

「もう、いいんですか?」

「ああ、聞きたいことは聞けたからな。それに」

 マグカップを持った手の人差し指を伸ばして、翠を示す。

「休暇明けから仕事が増える。しっかり羽根を伸ばしておけ。以上だ」

 嫌な顔ひとつせず翠は気を付け、敬礼。





 格納庫に併設されている、こじんまりとしたロッカールームで、自分の名前が刻印された軽量金属製の扉を開く。

 中には体のサイズに合わせて採寸されたパイロットスーツがハンガーに吊るされており、手に取って足を突っ込んだ。上半身と下半身が一体になったパイロットスーツは、大昔に地球という惑星でのみ航空機が運用されていた時代には下肢を圧迫して高G機動時に脳の酸素不足を抑える耐G機能を有したものだったが、今手にしているものはより軽量かつ高度で、高高度でも与圧される真空作業機能を持っている。

 これを着なければエウーリアスの空を満足に飛ぶことはできない。低軌道まで降下するとはいえ、根本的に航宙艦である<サギリ>に帰投するには大気の希薄な高高度を飛行しなければならないし、多くの場合、意思探査マインドシーキング任務には高速で惑星上を移動できる高高度の超音速飛行が望ましい。

 自らが造られたものだと知りつつも、なぜこれほど脆い肉体を与えたのか、とミズカゼは予てより感じていた疑問を抱き、ロッカーの開いた扉の内側にある鏡、そこに映る自分の顔に向け小首を傾げる。人間が、人間以上の存在を生み出すことを恐れたからだと考えていたが、要翠との交流を経た今ではおそらく違う、と考えていた。

 きっと、人間ですらわかっていないに違いない。人間は神の真似事をすることで、人間という自らの存在に対する理解を深めてきた。ルーフェの製造にしても、恐らくは同じことだ。ルーフェは人間をベースに開発された人型だから、という理由でじゅうぶんなのである。それだけでミズカゼはこの星で飛ぶ意味を持つことができたし、それはきっと幸せなことなのだ。

 少しゆとりのある、灰色と黒を基調としたスーツを身に着け、長い髪の毛を後頭部でまとめる。器用にまとめたそれをヘアピンで固定し、何とかヘルメットの中におさまるようにするルーティンを終えてロッカールームを出た。

 気密扉を出ると、目の前に白髪の少女が同じパイロットスーツを身にまとった姿で立っている。細く、そっと手で押しただけでどこかへと消え入ってしまうような儚さ。

 少女は批難がましく見つめてくる。何かを感じ取ろうとするまでもなく、何を言いたいかは理解できた。人間の真似事、取り入るような姿勢。お前は何のためにお前としてここにいるのか、そう問いかける彼女もまた、恐らくは。

 視線を真っ向から受け止め、ミズカゼは口を開いた。

「わたしは誰にも、わたしの承認を求めてなどいない」

「じゃあなんで、人間と慣れ合うの?」

 ユキシロの言葉は辛辣だった。二人の周囲には誰もいない、それはわかっている。だが、もし神室少佐や他の<サギリ>乗組員に聞かれれば、ルーフェという人型としての信頼を失う。それはアダナミ、ユキシロ、そしてミズカゼにとって生存に関わる問題だ。決して看過できない。

 ちょっとだけ考えて自分の言葉を整理したミズカゼは、唐突に微笑みを浮かべ歩き出した。立ち止まったまま視線を投げるユキシロは、ミズカゼに沸き上がった感情――喜びに困惑し震える。

「あの人となら、わたしは飛べるわ」

 もう振り返ることは無かった。ミズカゼは颯爽と歩き、格納庫へ入る。

 煌々と灯っている照明の只中に歩き出したミズカゼを見やることなく、周囲では整備員が右往左往している。格納庫としてはゲンチョウと同サイズの航空機を同時に八機収納できる広さがあるが、今は三機分しか埋まっていない。格納庫の中央部にある大きなハッチを潜って入れば、左右に四機ずつの駐機スペースがあり、右側には一番機<ミズカゼ>、左の手前には二番機<アダナミ>、その隣に三番機<ユキシロ>が。

 <ミズカゼ>の巨大な機首の上には、先に準備をしていた要翠がいた。彼はグラスコックピットのキャノピから上半身を乗り出して整備員の一人と何事かを会話していたが、すぐにプリフライトチェックに戻った。その前に近付いてくるミズカゼに目敏く気が付き、軽く手を振って挨拶する。

 ふと視線を感じて振り返る。<ミズカゼ>の左翼下の影に隠れるように、燃える赤い髪の女ががこちらを見ていた。碧眼が煌めき、フライトジャケットのポケットに両手を突っ込んだ女は近付いてきて、ふう、と息を吐く。気温の低い格納庫で、体温の高いルーフェの呼気は白くなって霧散した。

「ミズカゼ、気を付けてね」

「見送りに来てくれたの、アダナミ?」

「まあね。あんたと翠の危機感、わたしにもわかるから」

 <ミズカゼ>の機首を見上げると、照明のひとつがちょうど視線の先にあり、アダナミは目を細めて翠の姿をとらえようとした。

 やや驚きながら彼女の細い顎を見つめていると、アダナミはミズカゼの顔に視線を戻して微笑む。

「退屈な飛行になるのを祈ってる。じゃあね、たまにはあなたの眼にはあの空が何色に映るのか、教えてちょうだい」

 ひらひらと手を振るアダナミが去り、ミズカゼはようやくラダーを踏みしめてキャノピへ上がることができた。

 巨大なゲンチョウは、キャノピ部分でも地上から七メートル近い高さを持つ。高所恐怖症なら尻込みする高さだが、ミズカゼは迷いのない身体操作で後部座席に身を収める。ハーネスを締め体を固定し、ヘルメットをかぶる。酸素供給ホースとHMDなど電子機器類と接続するケーブルが内蔵されたホースを顎の先あたりにある接続部へと突き刺した。途端に<ミズカゼ>のシステムが後部座席のレーダー員が搭乗したことを認識し、パイロットスーツに挿入された携帯端末からミズカゼの個人認証コードを読み取る。

 システムエンゲイジ。HMDが起動し、テスト用のシグナルが眼前にいくつも点滅しては消えていく。可視性を考慮し濃緑色で発光する意味を成さない文字列に視線を走らせながら、ミズカゼは目の前の巨大な複合パネルの下に据えられているキーボードを引き出してプリフライトチェックを開始。前席の機長席に座る翠は既に各動力部、主機、補助電源その他の駆動系の確認を概ね済ませていた。レーダー員であるミズカゼの職掌には索敵機能、つまりミズカゼの脳波読み取りをはじめとするマン・マシン・インターフェイスや、思念誘導方式の誘導弾を完成する火器管制システムFCS周りだ。フライトコントロールシステムとはまた別のシステムに補助されながら淡々と確認をこなし、最後に翠と共に後部座席の操縦系統を確認。これは万が一、翠が操縦不能の状態に陥った時に発動する機能だ。先日のメタファによる大規模攻撃の際、初めて、ミズカゼは格納式のサイドスティックを操った。奇妙なことに、自らの手で飛ばすゲンチョウの巨体はやけに余所余所しく感じられた。

 まったく不思議なものだ、とミズカゼは最後の確認作業を行いながら考える。わたしも、要翠も、エウーリアスも、誰も相手を理解していない。だがひとつの出来事として邂逅している、その危うさが奇跡のように思えた。

全系統問題なしオールグリーン。ミズカゼ?」

 気付けばすべての点検作業を終えていた。自分のチェック項目が全て緑色点灯、問題ないことを確認しなおしてから、ミズカゼは機内有線で応答する。

「はい、機長。こちらも全て問題ありません」

「了解、送るぞ」

 まとまった項目一覧を互いに送信し、問題がないことを最終確認。燃料も補給され、前回の戦闘で無理をさせた駆動系等もオーバーホールが完了し絶好調だ。

「<ミズカゼ>より管制室オフィサー。プリフライトチェック完了」

「こちら<ユキシロ>、同じくチェック完了」

「オフィサーより各機、発艦開始。<ミズカゼ>、貴機が先だ」

「了解、進入する」

 管制室が操作するスポッティングドローリーがやってきて、駐機されている<ミズカゼ>の前輪をアームで挟んだ。車輪止めは外されており、ブレーキも踏まれていない機体ががくんと大きな揺れと共に進み始めた。ゆっくりと移動を始める<ミズカゼ>が右に曲がり格納庫の中央をハッチへ向かう機上からは、左手に同じようにしてドローリーと接続する<ユキシロ>が視界に入った。意識を集中して何かを感じ取れないかと探るが、もうユキシロの感情は何も読み取れなかった。

 <ミズカゼ>は構わずに巨体を引きずられ、格納庫の先にある隔壁前にまで到達した。すぐ後ろには<ユキシロ>が続いてきて、二機が並んだのを確認してから隔壁が開かれる。三重の耐爆隔壁に仕切られたエアロックで、既にキャノピが閉じられているから気圧の増減は感じられなかったが、この十数秒の間に空間内の空気は全て排出され、真空に近いものになっている。その間にドローリーが発艦用フックに前輪を引き込み、機が固定された。そこは底面がパネルごと可動するようになっており、二機は百八十度、前後を逆にして整列。<ユキシロ>の巨大な双発エンジンが眼前に見える。今は、間違ってもこの状態でエンジンスタートしないよう安全装置が働いているはずだ。

 左右から伸びてきたアームが<ミズカゼ>を掴む。帰投時に吊り下げられるユニットと同一のものだ。底面パネルから持ち上げられた<ミズカゼ>はランディングギアを格納、機首を下方へ向けた状態でパネルがするりと横へ身を避け、下面が開く。ここは復帰庫リカバリーベイと呼ばれている。それは<サギリ>に向けてかエウーリアスに向けてか、名付け親に聞かなければわからないが、きっと両方だろう。

 視界一杯に、濃緑と濃紺、そして白いまだら模様のエウーリアスが見えた。その時、ミズカゼは翠の感情の隆起を生々しく感じ取った。休暇中も幾度となく議論を重ね理解を深めたからこそ、彼の恐れがわかる。

「機長」無意識のうちにミズカゼは声をかけ、「大丈夫、飛べます」

 ほんの数秒の間に、彼の恐怖が薄らいでいく。ゼロにはならないが、それはむしろ任務に対する集中を高めるだろう、とミズカゼは思った。今やパニック寸前だった翠の精神は安定し、うん、と頷く気配がする。

「もちろんだ。いくぞ、ミズカゼ」

「了解」

 返事をしながら、ミズカゼは少し身体を傾け、眼前の大自然、惑星の肌をしかと見た。

 空が近い。

 エンジンスタート。左、右と順に起動。立ち上がりは問題ない。動作確認のため、再度左エンジンから推力を常時最大MILに引き上げ、戻す。排気はリカバリーベイの天井にある偏向ダクトにより艦の外へ排出される。全てのテストを終え、<ミズカゼ>の発艦準備がすべて整った。

 HMDの隅で、緑色のランプが点灯する。

「<ミズカゼ>、発艦リリース

発艦リリース、ナウ」

 翠の操作によりアームが機体を離す。<ミズカゼ>は文字通り、真っ逆さまにエウーリアスへ落ちていく。

 空中に飛び出した途端、上層大気にあおられるがフライトコンピュータは難なくバランスを保った。緩やかに機首上げ、水平飛行。空気流入口エアインテークの流入変更板が稼働し貪欲に大気を吸い込み、二基のエンジンは快調に加速を続ける。

 槍の穂先のような形状をしている<サギリ>の周辺を旋回する。何も問題はない。二周し終えた時、<ユキシロ>が射出された。同じような軌道を取り旋回を開始。こちらも問題なく、短い報告を受けた<サギリ>は加速し、高度を上げていく。巨大な親鳥が地上を見限ったかのように上昇し、二羽の雛鳥は不安そうに翼を並べると、左へ緩ロール、ピッチをかけ神室応助少佐の組んだスケジュールとルートへと乗る。

 <ミズカゼ>は加速。超音速巡航スーパークルーズへ移行。

 ミズカゼは世界へ問いかけるように、瞳を閉じて何かを探しはじめる。

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