第二部
第一話
ガラスの砕ける音がした。
振り返ると、カートを押していた給養班長がかがみ込んでいる。どうやら運んでいたガラスのピッチャーを落としたらしい。毛足が長い絨毯が敷かれているわけではないから、固い合成樹脂製の床と衝突した容器は見る影もなく破片となって散らばっている。すぐに清掃機をもう一人の給養員が持ってきて、汚れた床を片付け始めた。
暖かな照明で照らされた高級士官用に設られた上級食堂での、月に一回催される食事会では初めてのことである。そもそも、床には躓くような突起も無ければ歪みもないわけだから、ただカートを押すだけであればこんなことは起こらない。
第二開拓艦隊に所属する唯一の戦闘艦艇、仮想航空巡洋艦<サギリ>は軍用艦艇でありながら基礎設計を民間のヘリウム採掘船と同じくしているから、こうしたひとつの部屋をとってもかなり広々としているから誰かにぶつかったわけでもなさそうだ。しかも給養班長の佐竹という曹長相当の軍属士官は陽気だがかなりの
こんな男にもそそっかしい一面があるのだな、と艦長である
「お騒がせし、大変申し訳ございません」
面目なさそうに顔を上げた佐竹班長が深々と一礼した。彼は責任を感じているようだが、これまで<サギリ>の食事の面倒を見てきた佐竹の仕事ぶりは誰の目にも明らかだったので、那須大佐は笑いながら顔の前で手を振った。
「気にするな、こういうこともあるさ」
その声で面々も頷き、佐竹はほっと胸を撫で下ろしてまたカートを押してきた。清掃機は優秀で、班員が舐めるように箱型のそれを押して通った後はきれいさっぱりと片付いている。それを眺めていた那須だが、佐竹が押してきたカートの蓋を開いて中から温かいライ麦パンを取り出すとそちらへ注意を向けた。高級士官の食事会とはいえ、贅を尽くしたものではない。いつも一品か二品、佐竹の趣向を凝らした品目で舌鼓を打つだけだ。今日は珍しく手に入ったという赤ワインをふんだんに使ったビーフシチューで、どれも星系内の他の開拓艦隊所属船から融通されたものだという。量が多かったので、今日ばかりは同じメニューを下級士官食堂でも出すつもりだそうだ。
「そういえば、恒星風が強まっています。今週はなかなか荒れそうですよ」
目の前に置かれた白磁の皿にパンが二つ置かれるのと同時に、機関長のリンバール大尉がそう言い、一同は会話へと戻った。
「時折、メッセージをやり取りしている者が系内にいましてね。ガス惑星軌道にまで結構なプラズマ粒子密度が観測される予定だとか」
つるつるに剃り上げた頭と浅黒い肌を持つ大柄なリンバールの深い声は聞き心地が良いが、内容はあまりよろしくない。喉を鳴らして唸ったのは航空機整備班長の
「かなりの遠軌道まで届くのであれば、今週の飛行スケジュールは見直したほうがいいでしょう。ゲンチョウの電子防護は厳重だが、<サギリ>とのデータリンクに障害が起きる恐れはじゅうぶんあります」
「相互通信が行えないのであれば、飛行中の戦隊機が孤立することになる」
「三ヶ月前の<ミズカゼ>の一件もあります。エウーリアスは恒星風を感知できるでしょうか?」
「可能性は否定できない。我々はエウーリアスが何を思考しているのかを推測する術を持たない」
「どう思いますか、少佐?」
全員の視線がスプーンを握りしめたまま動かない神室少佐へと注がれた。それでようやく思考の迷宮から這い出てきた彼は居並ぶ顔を順に見回し、これまでの会話を早送りで認識した。
<サギリ>の任務は惑星エウーリアスにおける意思探査任務だが、実際にその道のプロフェッショナルといえるのはほんの一握りの人間に限られる。三機の戦闘機パイロットとルーフェと呼ばれる遺伝子改良人種、そして神室応助だ。ほとんどの乗組員にとっては、ルーフェ、そしてメタファをはじめとする超常的な何かはこの艦の外で巻き起こる出来事に過ぎない。前線と呼ぶにも静かすぎるこの船では、こうした実務に関する裁量が最終的には那須大佐か、神室少佐に回されるのが常だった。
「失敬、考え事をしていたもので」そう前置いた上で彼は宙に浮いたままだったスプーンを器に沈め、「現状ではあまり関係がない話でしょうね」
俄かには信じがたいといった様子で那須が目を丸くしていると、神室少佐は自身の言説を補足した。
「エウーリアスの地表を焼き尽くすほどの破局的な恒星風でない限り、戦隊機の意思探査任務に支障が出ることはないでしょう。情報的に孤立することは避けられませんが、<サギリ>が健在である限りは、パイロットにとっても、ルーフェにとっても、さほど大きな問題にはならない」
「とはいっても、メタファによる大規模攻撃があれば、最悪の場合、<サギリ>の兵装を用いなければ救出は困難だろう。三機のゲンチョウはバックアップを失ったまま飛ぶことになる。リスクを避けるのならば飛行計画の見直しも視野に入れるべきではないか?」
「危険であることは承知の上ですが、だからといって
「ふむ。整備班の意見はどうだ?」
水を向けられた秦野中尉はいささか面食らった様子だったが、問題ありません、と簡潔に答えた。ゲンチョウの対電磁防護は強力でアビオニクスの大部分を光回路が占めているため、エウーリアスの大気圏内にいる限りは問題なく飛行が可能である。
「一点だけ、整備班として進言したいのは、帰投手段です。電磁波通信装備を全て破壊された場合を想定し、三人のパイロットにはレーザー通信による相互通信経路を確保させておいたほうがいいでしょう。通信衛星を使えば、高高度であれば可視光による情報伝達も可能です」
「非常時計画に反映しておこう」
「神室少佐、もう一度聞くが、意思探査任務は継続するのだな?」
真っすぐに見つめ返され、那須大佐は居心地が悪くなった。最近の神室応助は、以前にも増して難解な人物になったような気がする。気難しいというのでもなく、ただ彼にしか理解できない非共通言語で話しかけられているような。そして決まって、彼の言葉は重要なものなのだ。意味を理解できないこちらを揶揄しているのではないかと思えるほどに。
「はい、小官としては非常時においても継続が最善と考えています」
もちろん、意思探査任務全体を統括する最終決定権を持つ指揮官は<サギリ>艦長である那須大佐なのだが、あまりにも異なる認識を持つ神室少佐の進言を鵜呑みにしてしまうのでは自分自身の存在理由がない、ここは勿体ぶってでもその判断の根拠を知るべきだろう、と結論付ける。
那須大智という男は、意思探査においては半ば素人ではあるが軍人として優秀な素養を持っている人物だった。神室少佐の戦略眼が、ここ惑星エウーリアスにおいては傑出したものであることは周知の事実で、だからといって彼の言葉通りに首を縦に振ってるだけでは存在意義が危ぶまれる。任務を帯びてこの船を導く限りは、乗組員の生命と軍人としての責任を全うするために必要なことがあれば、取り組む。それは骨身に染みた決意とも呼べるものだった。
それから、話題は<サギリ>の状況になり、最終的には新作のレクリエーションムービーが配信されたというところで終わった。士官たちが起立、敬礼。那須が答礼し、解散の合図で食事会はお開きになった。
並んでいた士官たちが揃って上級士官食堂を出ていく中、神室少佐だけが相変わらず考え込んでいる様子で立ち尽くしていた。那須はその様子が気になり居残りを決め、それと同時に神室少佐は食器類を片付けに出てきた佐竹に話しかけた。
会話の内容は、およそ神室少佐らしくもない、小姑のような質問ばかりだった。先ほど押していたカートは電動式のものか、何か演算装置を搭載しているか、どこで製造されたものか、毎日メンテナンスはしているのか、などなど。先ほどの失態を責められると思ったのか、佐竹は戦々恐々としながら質問に答えていたが、あまり要領を得ない回答に少佐が痺れを切らし、遂に佐竹が推してきたカートを自ら見分し始めた。
天才的な発想力で事件を解決するが捻くれた為人の名探偵の謎解きを見ているような気分で、那須大佐は彼に歩み寄った。
「どうかしたのか、少佐?」
「艦長、このカートは<サギリ>の就役時からあるものですか?」
「基本的に全ての備品がそうだ」艦長業務として艦の内外でやり取りされる物資の管理、および予算稟議の最終承認も那須大佐の職掌に預かっている。「給仕カートについては稟議書で見たこともないから、これは<サギリ>が稼働した当初から用いられているものだろう」
「自分は<サギリ>の就役から一年後にここで厨房を任されていますが、先代の給養班長からは特に何も言われていません。この年季の入りからして、就役時から使用しているものと思っておりましたが」
「ピッチャーが落ちた時、何かこのカートが誤作動を起こしたりしたか」
「言い訳がましくはなりますが、一度、大きく震えました。内部の電動モーターの回転が強くなり、後輪が一瞬だけ空回りを。それでピッチャーを取り落としまして」
「特に気にすることもないのではないか? こういった規格品は開拓委員会の製造ではなく民間からの購入が唯一のルートだ。誤作動を起こすこともあるだろう」
まだ納得していない様子だったが、神室少佐はおもむろに頷くと佐竹に礼を言い、那須大佐に敬礼をして食堂を出ていった。
佐竹給養班長はほっと胸をなでおろして、汚れた食器を重ね合わせてカートの中へ収納した。クロスなどを用いて卓上を拭いている佐竹の背中越しに神室少佐が平らげたシチューの皿を見つめながら、彼の思考を読み取ろうとしていた。
*
「なんだって?」
俄かには信じがたい単語を彼女が発したのを聞いて、思わず
視線の先はゲンチョウの機長席とレーダー員席を隔てる座席の背もたれとその背面のパイロットのバイタルサポート装備で埋め尽くされている。開放状態のバブルキャノピの端まで顔を近づけると、ようやくエンジンの横側から四五度の斜め上方へ延びた、垂直尾翼と水平尾翼の機能を併せ持った複合翼が視界に入ってくる。
それよりももっと手前、レーダー員席からひょっこりと女が顔を見せた。均整の取れた美しい顔立ち、砂のようにくすんだ長い金髪、薄暗い照明でも煌めく緑眼。やや小柄なため、彼女は一生懸命に首を伸ばし、翠と同じ機内有線と接続されたヘッドセットをすっぽりと頭からかぶっている。
「ですから、幽霊です。最近、噂になっているみたいですよ」
彼女――ミズカゼは、翠が機長を務める第二開拓艦隊仮装航空巡洋艦<サギリ>を母艦とする第二〇一飛行戦隊一番機、<ミズカゼ>と名を同じくするレーダー員だ。
惑星自体が意志を持つと推測されるエウーリアスにおいて、知性の有無とその思考を探るために誕生した遺伝子改良人類で、ルーフェと呼ばれる。遺伝子工学的に意図して発現した鋭敏な第六感により、人間の感情の機微はもちろん、エウーリアスの上空を飛行することで
<サギリ>は元々、巨大ガス惑星におけるヘリウム3採取を主眼に設計された大型採掘船を元に設計された仮装航空巡洋艦で、大気圏内飛行能力を持つ数少ない軍用艦艇のひとつだ。大量の惑星大気を吸引しヘリウム3を抽出するプラント設備が入るための空間には第二〇一飛行隊を運用するための航空機格納庫と運用機械類が艤装されており、他にも軍用艦艇として相応しい重火器類をも装備しているが、惑星攻撃用兵器だけは状況のエスカレーションを防ぐ目的で凍結され、弾薬すら補給されていない。
その<サギリ>の戦闘機格納庫に駐機されている<ミズカゼ>の機上でメンテナンスと前回任務記録の閲覧、反芻を行っていたところ、ふらりとやってきたミズカゼがいつの間にか後部座席に収まり、もっぱら艦内でまことしやかに囁かれている噂を翠に披露したのだった。
翠としてはルーフェとして浮世離れした存在であるミズカゼが世俗的な噂話なるものを口にしたことに驚いたのだが、当のミズカゼはといえば大真面目な顔をしている。
三カ月前、翠は数十機のメタファから攻撃を受けるという、九死に一生を得る体験をした。それからエウーリアスの空で飛ぶことを顧みて自己の甘さを痛感し、この星での生き方を知ろうと努力を重ねてきた。その中には相棒であり人間ではない未知の存在であるルーフェ、すなわち相棒であるミズカゼを理解することも含まれており、時間を見つけては彼女と時間を共にするようにしていたが、こんな風にまるで任務とは関係のない話題を振られるのは稀有なことだった。
だが一方では興味深い、と翠は思う。人間はルーフェのように世界そのものを感じ取るような鋭い直感を持っていない。だからこそ、幽霊や怪奇現象といった噂話は笑い話で済むし、いわゆる御伽噺として楽しむことができる。特に開拓委員会隷下におさまっているとはいえ実質的な戦闘部隊である第二〇一飛行戦隊、および同隊を運用する母艦である<サギリ>の乗組員が口走る噂はほとんどが娯楽目的だ。くだらない低俗なものからどう反応すればいいのか困ってしまうものまで、翠も一通りを耳にしていたが、いよいよ幽霊とは、と呆れてしまう。船というものにはそういう話がつきものではあるが、ルーフェであるミズカゼが言うのだからもしかしたら、ということもありうる。
幽霊が実在するとしたらとんでもないことだ、と思い直して、翠は心なしかヘッドホンから延びるマイクを口元に寄せ声のトーンを下げた。
「幽霊っていうけど、君は見たり聞いたりしたのか?」
「いいえ、経験はありません。ですがもし存在するとすれば、それはルーフェが感知できない存在となります。これは、意思探査任務、ひいては<サギリ>においても重大な脅威と認定すべきでしょう」
内容は生真面目だが、言葉の端々に隠し切れない興奮を見え隠れさせるミズカゼの実年齢が七歳程度なのだと翠は思い出す。
つまり、思春期の学生と同じだ。こういう噂話に尾ひれをつけて楽しむ。自分が感じ取ることはできないが、もしかしたら……と思いを馳せている。大抵の大人が経験する通過儀礼で、社会経験に乏しいミズカゼにとっては胸が躍る体験だろう。こうして自分と会話をすることで人格の中で社会性が形成され、かくして噂話を楽しむようになったのかもしれない。
半ば呆れかえっている翠の感情を感じ取ったのか、後部座席からこちらを見やる彼女の顔がむっと強張った。
「なんですか、何か言いたいことでも」
「ルーフェが幽霊なんて言うのを聞くのは初めてだ。君は信じてるのか?」
「幽霊の存在をですか? その質問はナンセンスですよ、機長。見ることも聞くこともできない何かを観測することはできません」
「エウーリアスにおける意思探査任務にしても同じだろ。あるかどうかもわからないものを、探してる」
「
「エウーリアスと同じ、という言葉の意味は、おれと君とで正反対だな」
「そのようですね」
視線を正面に戻して、翠は腕を組んで考える。
確かに、ゴシップを得意とする甘木丈二少尉――二番機<アダナミ>の機長からも似たような噂話を聞いた。ちょうどパイロット三人が食堂で一堂に会しテーブルを共にした時のことで、ユーエ少尉は興味津々な様子だったが、翠は話半分に聞き流していた。航宙軍に属しているのであれば、暇を持て余した将兵がそのような話を矢継ぎ早に作り出しては流行らせるというのが常だし、話している本人たちにとってもそれは娯楽以上の意味を持たないからだ。
ミズカゼが興味を示しているという点について、翠はこれまでの自身の認識をあらためる必要に迫られた。それほど、ルーフェである彼女の世界観は重要なもので、信頼できる相棒の言葉だ。翠にしてみれば無視などできようはずもない。
「君は幽霊が実在すると信じている。それが意思探査任務ばかりか、<サギリ>にとって脅威になるという。要するにエウーリアスが何か干渉していると言いたいのか?」
「最悪の場合、そうではないかと思います」
「というと」
「可能性はいくつか。例えば、<サギリ>の乗組員がルーフェに及ばないまでも感覚が鋭くなった場合、エウーリアスの意志を感じ取り、それを幽霊と錯覚することはあるでしょう。ルーフェの鋭敏な第六感は人間の遺伝子構造を基準に調整されたものであるため、生来、特殊な性質を有している何者かが存在する可能性は大いにあり得ます」
「俗にいう
「なぜですか?」
「超能力者っては、生まれながらにして他人とは異なる才能を持つ。だけど<サギリ>で、誰が生まれた? ここの乗組員はみんな、マンタリア星系外で生まれて成長し、ここに来たわけだから」
「確かに、仰る通りですが……」
尻すぼみに小さくなるミズカゼの言わんとしていることを、翠は自分が考えていることのように理解できた。
<サギリ>の乗組員自身が変化し超能力に類する何かを目覚めさせたのでなければ、幽霊はエウーリアスが引き起こす事象のひとつということになるだろう。現実に、この惑星上では唐突にメタファのような、既存の概念では説明しきれないものが前触れもなく出現することがある。高高度を超えた衛星軌道付近を遊弋している<サギリ>艦内にまで同じことができないとは限らない。単に、通路が狭いからとか、地表から離れすぎていてピンポイントで出現させるのが難しいから、という理由も考えられる。
いずれにしても、幽霊が実際に存在すればの話だろ、と翠はつっけんどんに言った。いい加減に<ミズカゼ>のフライトコンピュータが記録したデータを整理する作業に戻りたかったし、ただの噂話など、航宙軍や開拓艦隊といった星系をまたいで活動する航宙船乗りにとっては子守唄に等しい。閉鎖的な生活環境では、誰がどこで欠伸をしたかといった他愛もない話でも貴重なゴシップの種になる。さらにはモノコック構造を取る船内では主機の振動が隔壁を伝って伝声し人の声のように聞こえる場合もあるから、幽霊話というだけで真実味のないことは請け負いだ。
ミズカゼはそもそもこの世に生を受けて間もないし、<サギリ>以外の航宙船をほとんど知らない。何が何でも幽霊の存在を肯定したいらしいが、それでも彼女の第六感が何も察知していないことからして、やはり幽霊は存在しないと考えるのが妥当と思われた。他でもない自分自身が幽霊の存在を否定する決定打になったことに腹を立て、むっつりと黙り込む。
ようやく集中できそうだ。翠は狭いコックピット内で身を捩り、膝の上に乗せた小型のラップトップを広げた。最近はフライトコンピュータの記録から任務当時に感じた雰囲気、出来事を顧みて自分なりの分析をテキストにまとめることが習慣になっていた。任務中は反射的な状況判断が生死を分かつため、情報を吟味することは無い。
開拓艦隊に属する軍人としての責任を問うのであれば、翠とミズカゼが行うべきは情報の収集とそれを持ち帰り、第二〇一飛行戦隊の指揮官である神室応助少佐へ報告することだ。情報の分析は神室少佐の職掌に委ねられており、彼が飛行計画と任務概要を考案する。指揮命令系統は集団が個として最大の効力を発揮するために人間関係を規定する枠組みであるから、本来、こうして翠自身が内省のために回顧録をつけるのは必要のない行為だ。
おれはおれのためにこれをやっている、と翠は指を止めずに、頭の片隅で呟く。
むざむざと死なないために、おれはこの空を飛び続ける為に、エウーリアスを理解する必要がある。そして、ミズカゼも。一人の人間として、巨大な惑星に押しつぶされないよう抵抗しているに過ぎない。
しばらく作業に没頭していると、再生していた飛行記録はあっという間に残り僅かとなった。ふと顔を上げると、いつの間にかキャノピの縁をたどって機長席の真上にミズカゼが仁王立ちしていた。HUDの前にかがむようにして翠の顔を覗き込んでいる。
「なんだ?」
「ずいぶん集中しておられましたね。わたしのほうは終わったので昼食を摂りにいこうかと」
「了解、おつかれさん」
「気を抜くのはまだ早いぞ」
二人は同時に、<ミズカゼ>の左翼側へ首を突き出した。
眼下には、皺ひとつない航宙服を身にまとった神室少佐が立っていた。格納庫の目映い照明を受けて眩しそうに目を細めている。
「少佐」
二人は異口同音に階級で彼を呼び、右手でラフな敬礼をした。
神室少佐は微かに苦笑いのような笑みを口元に閃かせたが、すぐに真顔に戻って声を張り上げた。
「突然ですまないが、話がある。降りてきてくれ」
顔を見合わせると、ミズカゼが首を傾げた。どういうことなのでしょう、という疑問が翠に伝わった。
とにかく上官命令であるからには、今すぐ機を降りて神室少佐についていくしかないだろう。ラップトップをたたんでズボンと腹の間に突っ込み席を立つと、ひらりと身をかわして機長席のラダーに足を下ろしたミズカゼが、美しい顔を近づけてきて囁く。
「生まれて初めてこの言葉を使いますが、なんだか嫌な予感がします」
段々と彼女の軍人としての感性を備えてきたのだろうか。上官からの急な呼び出しとなれば、有難い話ではないだろう。翠は軽く肩を竦めて、窓辺に留まった妖精のようにキャノピに寄りかかっているミズカゼに頷き返した。
「同感だ。ま、なんにしても話を聞いてからだな」
「達観してますね」
腰を上げた翠はミズカゼを見て口をへの字に曲げた。
「半分、諦めてるようなものだからな」
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