第二話

 どうだと言わんばかりの笑みを浮かべ、ミズカゼは要翠を振り返った。

 翠はといえば、まさかこの上官の口から幽霊話を聞かされるとはといった驚きと、不承不承ながらミズカゼの言を認めなければならないかもしれない、と諦念に似た感情が湧きたっており、ミズカゼは実際にその感情を感じ取ることができたが、実際に、翠が顔をしかめて唇を噛んでいるのを見るのは愉快だった。

 いつの間にか、この男性パイロットに対して心を許しつつあることを自覚できていないミズカゼだが、その様子を眺めている神室応助少佐としては、二人が親交を深めたというよりも、ようやく一蓮托生、運命共同体であるという自覚が芽生えたのかと胸をなでおろす部分のほうが多かった。要翠とミズカゼという組み合わせは、甘木丈二とアダナミ、ヴェラス・ユーエとユキシロのペアより予測不可能な不確定要素が多く、神室少佐としては気が気でない。

 三カ月前の<ミズカゼ>が前代未聞の数のメタファに攻撃された一件以来、神室少佐は<ミズカゼ>の機上に乗り組む二人の関係性にも注意を払い観察してきたが、特に問題なく理想的な距離感で職務に当たっていることが確認できていた。互いに相性が良いとも悪いともいえない相手であるのに良好な関係性を築けているのは奇跡に近い危うさだと神室少佐は考えていたが杞憂であったらしい。

 咳ばらいをすると、二人は神室少佐へ顔を向ける。彼の執務室には他に人はおらず、労いの意味を込めて二人に休めの姿勢を取るよう勧めた。ミズカゼと翠はほぼ同時に足を肩幅に開いてわずかに姿勢を崩す。

「我が<サギリ>の幽霊話が、そんなに面白いか?」

 叱責というよりも何故笑っているのかという問いかけの意味を込めて問うと、ミズカゼは真顔に戻った。

「ちょうど、要少尉と同じことを話していたもので」

「なに?」

「ミズカゼは幽霊を信じているんですよ、少佐」翠がミズカゼの涼やかな横顔を睨みながら、「そしてあなたも幽霊の実存を信じ始めているときた」

 現実主義者リアリストで知られる神室少佐が幽霊の存在を肯定する、あるいは存在すると仮定したうえで話を進めているのが面白くて仕方がないのだろう。いつもの無表情に戻ったが、どこか活き活きとして見えるミズカゼと翠の辟易した顔を交互に見やりながら、この二人が目覚めてくれたのはいいがこれは歓迎すべき変化なのだろうかと訝しんだ。

 とにかく、神室少佐は今日の食事会であったことを伝える。そして艦内で幽霊とやらの噂をする乗組員が増えていること。この二つに相互関係はないが、エウーリアス起因であるかどうかを知りたい、というのが神室少佐の意図だ。

「もし本当にエウーリアスの仕業であるのなら、おれたちはもう終わりですな」

 翠は生真面目に、そして冷淡に言い放つ。ミズカゼも、これは自分たちの安全保障に関わる問題なのだと自覚したのか、姿勢を正して咳ばらいをする。

「要少尉の仰る通りです。そこまでエウーリアスの実行力が強まっているのであれば、遠からず<サギリ>は重大な危険に直面するでしょう」

「だからこそこうして頭を捻っている。なぜ君たちを呼んだのかわからないか」

 二人は互いに顔を見合わせた後、首を横に振る。

 小さくため息をつきながら神室少佐は背もたれに体重を預け、金属の軋む音が広くもない執務室の中でよく響いた。掻き消すように空調の音がひときわ高く唸る。

「人間とルーフェ、双方の意見を聞くためだ。そして現在、我が戦隊で最も優秀なのは君たち両名だ」

「光栄です」ミズカゼが型どおりの返事をする。

「ですが少佐、ミズカゼは幽霊の存在を感知できないと言っています。それができるのは人間の超能力者サイキックだ、と」

 そうなのか、と目で問いかける神室少佐へ、ミズカゼは栗鼠のように行儀よく頷いた。それは神室少佐にとって半ば予想できていたことではあるが、これで事態はより複雑になったとこめかみを揉む。

 幽霊なんて噂話に過ぎない、と主張する翠の言説はその通りだと神室少佐は思う。実際に、神室少佐は幽霊が存在するかどうかはどうでもよかった。問題は、この船の乗組員に幽霊の存在だと錯覚させるほどの作用をエウーリアスが及ぼしている可能性が大きく、第二〇一飛行戦隊にはその作用を察知し、対応する能力がないということだった。まだ噂話に留まっている現状を見るに損害を被ることは考えづらいし、このまま何事もない可能性も多分にあるが、エウーリアスが人間が幽霊を感知できないと知り攻撃に用いるようになれば、<サギリ>はもちろん、人類に勝ち目はない。一方的な戦闘になるだろう。

 背筋に寒いものが走り、想像を振り払うべく頭を振った。既にメタファという超自然的な存在により攻撃を仕掛けてくるエウーリアスが、その全精力を傾けて人類の放逐に乗り出せば、このマンタリア星系のみならず人類の生存圏を脅かすにじゅうぶんだ。あらためて、自分たちは重大なファーストコンタクト任務の只中にいるのだと自覚する。

「状況を整理しよう。まず、<サギリ>艦内において幽霊話が吹聴されているのは事実だ。わたし自身も先の食事会で不可解な現象を目の当たりにしている。何か変化が起きつつあるのは事実だ。そして、我々は今の所、この現象を調査するに足る能力を有していない。生物学的にも、軍事的にも我々は未知の状況に対しこれを理解し、対処することを求められている」

「少佐、それを手も足も出ないというのでは」

「それでも我々には考える頭があるのだよ、少尉。とにかく何か意見が欲しい所ではあるが、現状打開のためにひとつ、打てる手がある」

「それが次の任務ですか」

「まあ、そうなるな。これが軍務と呼べるものであるのかどうかも怪しいところだが、大きな危険を伴うのは間違いない。これまでの意思探査任務とは比にならない脅威が待ち構えている可能性がある」

 危険といわれて翠とミズカゼは背筋を伸ばした。兵士として生命を脅かすものの情報を聞き漏らすまいと、耳をそばだてる。

 神室少佐はデスクの引き出しを開けると、そこにおさまっていた書類の束を二つ取り出し、まとめて翠へ手渡した。翠は表紙を見比べ、困惑気味に眉をひそめて神室少佐を見る。

「<サギリ>艦内図?」

 神室少佐が頷くのと同時に、ミズカゼが自分の分を翠の手から引っ張った。彼女は表紙から下をめくりぱらぱらと内容を確認して、やはり困ったように神室少佐を見る。だが彼女場合は、彼のこの書類に込めた意図を読み取っての疑問がその眼差しに含まれていた。

「我々で艦内を調べろというのですか、少佐?」

「その通りだ、ミズカゼ。何か思うところでもあるのかね」

「いえ。ただ、施設にいたころから、こういう肝試しはずっとやってみたいと思っていましたから」

?」

 違うのですか、と眼を瞬くミズカゼの言葉を否定できないまま、神室少佐は苦笑いと共に頷いた。

 不満そうにしているのは翠だった。彼は手にしている<サギリ>艦内図を斜め読みして一巡したが、また戦闘のページから目を通しつつ溜息をつく。

 第二〇一飛行戦隊に配属されるまでの経緯は、全てのパイロットについて神室少佐は熟知している。要翠は故郷の空で飛ぶことを願った人間だった。人事ファイルの随所から、翠は大空を自由に飛び回ることを夢見ていたし、それは今でも変わらないだろう。戦闘機パイロットを志したのは、民間の旅客機などよりもよほど自由に、素早く、伸び伸びと空を渡ることができる。

 そう、翠は幽霊話などには取り合わない現実主義的な、軍人らしい側面を持ちつつも、心根ではロマンチシズムにあふれた幻想を抱いている人間だった。少なくとも、空を飛ぶために軍に入るという選択はあまり現代にそぐわない。戦闘に巻き込まれる可能性のある軍務よりも、民間のショーパイロットなど選択肢は無数に存在するはずだが、この男はただ自由に飛ぶことを目指し、そのための性能を持っているのは戦闘機だろうと結論付けた。

 何よりも自由に、何よりもおおらかに飛ぶことを求めた男が行きついたこの場所で、結局やることといえば航宙艦での肝試しである。落胆しないはずが無いが、結局は今後の意思探査任務にとって重要な分水嶺になるかもしれないこの任務を疎かにすることは無いだろう。今や翠は、神室少佐と同レベルでエウーリアスの危険性を認知している数少ない人間の一人だった。

「少佐」少し考えた後で翠が言う。「意見してもよろしいでしょうか」

「もちろんだ、少尉」

「ただ艦内を歩くといっても、我々はここで何年か生活していますが、未だに全てを把握しているわけではありません。機関部のサポートか、例えば携帯端末モブにアプリを入れるなど補助が欲しいところです」

「もっともだ。君たちをサポートする方法については、わたしの職掌で何とかしよう」

 それからは現実的な、任務へ向けた軽い打ち合わせが続いた。の時期は一週間後、それまでに翠とミズカゼは飛行スケジュールからは外れて艦内の探索計画を作成することになった。

 かくして、前代未聞の軍事的肝試しが行われる運びとなったのだった。





 最初に茶化してきたのは、やはり甘木丈二少尉だった。

 とりあえずどういう方針で計画を策定するべきか、翠とミズカゼがサンドイッチを片手に食堂で話し込んでいると、通りがかった甘木少尉が二人の間で立ち止まった。話を中断して彼のにやけ顔に視線を投げる。

「よう、お二人さん。相変わらず仲がいいこって、逢引かい?」

「茶化すなよ、甘木。おれたちは仕事中だ。そんな甘ったるいものであるもんか」

 片眉を上げてどういうことかと問いかける甘木へ、きちんと口の中のものを咀嚼し飲み込んだミズカゼが肝試しについて説明する。開拓艦隊の承認を得た正式な軍事作戦という体裁であるが、その内容はハイスクールの学生が真面目腐った顔で友人らと夏休みの予定について話しているようにしか見えない。まあ、話の根幹が幽霊の存在の有無に拠ったものであるし、エウーリアスの意思探査の一環とはいえ子供じみたものに聞こえてしまうのは仕方のないことではある。

 簡潔でわかりやすい説明を聞いた後で、お前たちも大変だなあ、と他人事のようにぼやく甘木が翠の隣に腰を下ろす。気付けばその手には規格外の大きさのジョッキが握られており、中にはマンゴージュースがなみなみと注がれていて、まるで氷山のように氷が浮かんで揺れていた。見るからに胸焼けのしそうな飲み物を前に、翠は思わず顔をしかめるが、ミズカゼは興味津々といった顔でジョッキを見つめている。

 視線に気付いた甘木がジョッキを振って、表面にかいた汗をテーブルに落とした。翠は自分の皿の上に水滴が落ちないように少しずらす。

「マンゴージュースが気になるかい、お嬢ちゃん?」

「はい」目を輝かせてミズカゼが首を縦に振る。

「やめとけよ、ミズカゼ。こいつと同じものを飲んだら糖尿病になる。もしかしたらこの氷も砂糖でできてるかもしれん」

「そうだとしたら、なおさら興味があります」

「機長命令だ。ミズカゼ、甘木と同じものは

 声を上げて朗らかに笑うと、甘木はジョッキをテーブルの上に置いてその縁を指でなぞった。強度の高い合成石英のジョッキは硬質で甲高い音を奏でる。

「それにしても、おれたち戦闘機乗りが幽霊の実存についても悩まなきゃならんとは。うってつけの任務ではあるが」

「冗談だろ、戦闘機乗りの仕事は飛ぶことだ。学生みたいに怖がって小突き合うことじゃない」

「ところがどっこい、そうとも言い切れん。古来よりこの宇宙と空で神秘に遭遇してきたのは、宇宙飛行士アストロノーツと飛行機乗りって相場が決まっていたもんだ。ま、いずれにしろ風変わりなことには変わりない。神室少佐はさぞ難解な問いを解かねばならなくなったことだろうよ」

 ふと、この男はエウーリアスのことをどう考えているのだろう、と翠は気になった。ちらりとミズカゼを見ると彼女も同様のようで、あなたから聞いてくださいと眼で訴えてくる。人間のことは人間が得意でしょう、と。

 最近はミズカゼとの対話が功を奏したのか、翠とミズカゼの思考は同様の道筋を辿ることが多くなった。以心伝心、というよりは、同じ計算機が同じ入力を元に同じ結論を導き出しているといったほうが正しい。伝わるのではなく、わかるのだ。

「お前、幽霊のこと信じてるのか」

 それとなく水を向けてみると、甘木はごくごくと音を鳴らしてマンゴージュースの三分の一ほどを飲み下してから口を拭った。見ているだけで胸がむかついてきたので、翠は手にしていたサンドイッチを皿に戻してコーヒーを啜った。

「まあ、人並みにはな」

「なんだよ、煮え切らない回答だな」

「おれにとっては、ルーフェと同じだな。気を悪くしないでくれよ、ミズカゼ。正直なところ、おれは未だに君のことを人として見れない。良い奴だとは思ってるがね」

「わたしは気にしていません、甘木少尉」

 申し訳なさそうな笑みを浮かべ、甘木はそれとなく周囲を観察しながら語を継いだ。

「たとえば三年前まで、ルーフェのような遺伝子改良人類の存在だって、おれには空想ファンタジーにしか思えなかった。しかも超能力まで備えているなんて言われたって信じようともしなかっただろうな。いわゆる与太話ってやつだ」

「だが、ルーフェは今や現実に存在している。ミズカゼ、アダナミだって空想ではない。今のお前は当時とは違う感想を抱くはずだ」

 指を慣らして、甘木は翠を指差した。

「そう、問題はそこだ。要するに、だ。おれの今の主観を超える出来事が起こるのが、ここ、エウーリアスだ。だとしたら、おれがいま幽霊を信じているかどうかは重要じゃない。ま、個人的な見解を述べるなら、幽霊がいてくれたほうがなんとなく神秘的で素敵だけどな」

 この男にしては的を射た意見だ、と翠は思わず頷いてしまった。ミズカゼも同じように相槌を打っており、この考え方は自分の中にあったものだろうか、と翠は考える。

 二カ月前に、大量のメタファに攻撃された意思探査任務からこの空に向かい合う姿勢が変わったことは紛れもない事実だ。エウーリアスを理解するためにミズカゼと向き合い、彼女も協力を惜しまないでいてくれる。生き残るために、エウーリアスの意思を探るためにどうすればいいかを考えた結果が今回の肝試しである。甘木の言う通り、今の自分の世界観がどう転ぶかは誰にもわからない。今回の任務で、幽霊が存在するのか、はたまたエウーリアスにより引き起こされた事象なのかを判別できれば、重要な情報になるだろう。

 ミズカゼは幽霊の存在を信じたがっているようだったが、甘木の言葉を聞いて考えを改めたらしい。これで二人とも、色眼鏡なしで状況を判断できそうだ。この手で操縦桿を握ることができないのはもどかしいが、機上任務から降ろされたわけではない。とにかく、いま自分が求められる場所で最善を尽くすべきだ。

 話がまとまりかけたところで、おずおずとミズカゼが手を挙げた。

「甘木少尉、あなたの仰る通りだとは思いますが、それがあなたが幽霊を信じているかどうかには直接、関係がないと思いますが」

「む、そうか。まあ、世間話だものな」甘木は白目をむきながら両手を垂らして突き出した。「幽霊はいるぜ、ミズカゼ。この船にも間違いなくいる」

 椅子を蹴って立ち上がり、ミズカゼは目を輝かせながら前のめりになる。

「やはり、そう思いますか」

「ああ、もちろんだとも」

 話がずれていきそうなので、溜息をつきながら二人の肩を押して椅子に座らせる。

「なに馬鹿なこと言ってんだ。ミズカゼも真に受けるんじゃないぞ。こいつの言うことをいちいち信じてたらめちゃくちゃなことになる」

「翠の言う通りね」

 背後から声がしたかと思いきや、振り返るとアダナミが腰に手を当てて立っていた。やあ、と挨拶をしようとするがやめておく。どう見ても、今のアダナミは怒っている。怒髪天を突くとはこのことで、長い赤髪が逆立っていた。

 三人のルーフェの中では、アダナミがいちばん気性が荒い。というよりも直情的で、胸にためることのない裏表のない性格をしていた。例えばシアタールームで映画を見て感動し泣いている乗組員の近くにいると、影響を受けて泣いてしまったり、今のように怒っている誰かがいれば同じように怒ってしまったりする。基本的に気さくな性格のアダナミが時々、別人のように振る舞っているのを以前に翠は見たことがあった。

 ルーフェが他者の感情に共鳴するのは、頻繁にあることではないが、それがアダナミの感受性の鋭さなのだと過去にミズカゼから教えられたことがある。要するにセンサーが敏感すぎて、システムそのものに影響を及ぼしてしまっているような状態らしい。ちなみにミズカゼの場合は、大抵のことは無表情のままさらりと流す。ユキシロはどこか冷たい目で、じっと相手を観察するだけ。人為的に生産された三人ではあるが、正に三者三様の異なる性格をしているのは面白い。

 ユキシロ。

 翠はその名に相応しい、真っ白なルーフェを思い出す。

 最近、あの少女のミズカゼに対する態度に変化があった。ルーフェでなくとも、ユキシロがミズカゼに対し敵愾心を抱いているのは明らかなのだが、二人は何も言わずに飛行任務に取り組むし、私情を挟まず任務を遂行する。神室少佐に報告はしているが、実害が出るまでは静観しろと言い渡されていた。相性というのはルーフェに限った問題ではない、と神室少佐は考えているようだったが、相手の感情を感じ理解するルーフェにとって、相手を否定するということの意味は自分たち人間とは異なる意味を持つのではないか。翠は危惧したが、今のところは神室少佐の対応が正しかったのだと認めてはいる。ともかく、まだ抜本的な治療が必要な段階ではないのは確かだ。

 真っ赤な髪を振るようにして、アダナミはつかつかと甘木に歩み寄った。そのまま目の前で止まると、人差し指を甘木の端正な顔に突きつける。

「そんなどっかの漫画みたいなジュースを飲んでる場合じゃないでしょう。神室少佐との打ち合わせはどうなってんのよ」

「それなら延期の連絡が来たぜ。明日の〇九三〇時からになった」

「どんな理由であれ、時間が空いたらわたしと格納庫で機体整備の約束だったじゃない」

「おっと、そっちは忘れてた」

「まったく、もう……翠、ミズカゼ、この朴念仁を返してもらうわよ」

「妬いてるならそう言えよ」

「あんた、飛行中に機長席だけベイルアウトでもされたいの」

 互いに減らず口を叩き合いながら、嵐のように去っていく甘木とアダナミを見送り、ようやく翠はサンドイッチに手を伸ばす。

「やめとけよ、ミズカゼ」

 ミズカゼはテーブルの上に置かれたままのマンゴージュースのジョッキから手を引っ込めた。





 果たして目の前のこの男は本気で言っているのだろうか。

 那須大智大佐は訝しみながら、手元のラップトップに表示させた飛行計画書の荒唐無稽な内容と目の前の開拓艦隊少佐の顔をと見比べた。

 神室応助少佐は悪びれた様子もなく、いつも通りの沈着した様子で目の前に立ち、那須がいつも通り計画実行を承認するのを待っていた。その目はいつにも増して無感動で、何を感じ、考えているのかを読み取ることができない。こんな時、ルーフェであれば相手の感情の機微を感じ取ることもできるのだろうが、と人間の機能欠損を嘆いた。

 しばらく考えた末、那須は前提から確認することにした。

「神室少佐、君は正気かね」

 少しだけ考えてから、神室少佐は頷いた。

「だとすれば、わたしが勉強不足というだけなのだろうな。君の計画書を読んでも、その奥にある真意まで見抜くことは難しい。これまでも難しかったが、最近は殊更に難解さが増しているように思える」

「それは皮肉ですか、艦長」

「いいや、自嘲だよ」

 そもそも飛行計画ですらない資料に電子印を押して許可をすると、すぐに神室少佐の抱えている板状の端末が電子音を奏で、計画が承認されたことを知らせた。神室少佐は機械的な仕草でそれを確認し、満足そうに頷いてから那須に視線を戻す。

「わたしは航宙軍一筋だった男だ。君ほど柔軟な脳味噌を載せてはいないから確認させてくれ。君は最近、<サギリ>艦内の幽霊騒動をエウーリアスの仕業だと考えている。そうだな?」

「可能性は否定できません。現段階では、いかなる推論も、その可能性があるという程度でしか語れないでしょう」

「思うに、それこそがエウーリアスにおける任務の性質と言えるだろうな。ここでは何もかもが不確かで、流動的だ」

 巻き起こる事柄に対して教条的に対応しつつ、異常事態については自己の裁量に一任される艦長という役職を負ってからというものの、那須はどうも後者の場面が多く、どのようにして自分という決まりきった形を変えて枠にはめればいいかを考えてしまう。それは軍人としてではなく、開拓者のような在り方だ。

 これは軍人の職務ではない、というのがここ二カ月で那須が得た見解だった。開拓艦隊とは名ばかりの戦闘艦隊であるはずの組織に属するこの船は、この辺境フロンティアに根差すためにあらゆる努力を惜しまない人間の集団へと、いつの間にか変貌していた。

 那須大佐にとっては、惑星エウーリアスは長年、ソルベルト連邦が大金を注ぎ込んで新たな居住惑星とするべく開発を進めてきた準地球型惑星に過ぎなかった。確かに不可思議な事象が多発し、従来の人間の常識では扱い切れない惑星であるのには違いないが、那須大佐にとっては、意思探査任務で明らかとすべきはエウーリアスにおける意志の存在確認ではなく、如何にしてこの惑星で人類が生活できるようになるかを探るその一点であるといってもいい。なぜなら、それこそが第二開拓艦隊の司令部に属する大勢が求める答えであるからだ。仮に、人類以外の知性体としてこの惑星が認められようと関係がない。軍人として、開拓艦隊の一員として感心を持つべきはその一事であり、他にはない。

「艦長、お言葉ですが」全てを見透かしているかのように神室少佐は言葉を紡ぎ、「適応こそ、唯一の生存方法です。そして我々が相対すべき事象は、全て常識の範疇にあるとは限らないのではありませんか」

 厳しい言葉だった。那須は怒るでも呆れるでもなく、ただ真摯に言葉を受け止めようとした。しかし心のどこかで、神室少佐という、那須以上に任務に対し厳格な部下に対する苛立ちが言葉に象られて口から飛び出た。

「荒唐無稽な飛行計画を司令部へ説明する立場にもなってほしいものだ、少佐。わたしから君への信頼はもちろん揺るぎないものだが、上層部はそうではない」

「……失礼いたしました、艦長」

「いや、いい」

 自己嫌悪に顔をしかめそうになるのを堪えて、那須は顔の前で手を振った。そのまま椅子の背もたれに体を預けて片手で額を叩く。

「すまんな、少佐。最近はどうにも……この事態に適応しようと藻掻くだけで精一杯なのだ。もっと貴官のように柔軟な思考ができればいいのだが」

「お察しします。言い訳がましくはなりますが、小官としても、艦長のお立場としては厳しい報告ばかり上げていることは重々承知しております」

「陣頭指揮を執る者が、指揮官の顔を窺うようでは先が知れるというものだ。君のように、柔軟にこの星の住民として適応することができればいいのだが」

「住民、ですか」

「ああ。君をはじめとして、ミズカゼのようなルーフェを見ていると、この星で生活できるのは君たちのような人種なのではないかと考えてしまう。我々のような既成概念からなかなか脱却できない者ではなく、新しい概念や環境に適応しようと行動を起こすことのできる人間だ」

 その時、神室少佐は沈黙を以て答えた。那須大地という、当事者とも第三者とも取れない曖昧な立場からの純朴な感想こそが自身に欠けていたものであったのだと気付かされただけではない。頭の中では、新たな脅威に対してどう対応するか、という一事を考え、即ち差し迫る肝試しにおいてさらに未知なる不確定要素が追加されたことに変わりが無かった。

 神室少佐は那須大佐を見限るということは夢にも思わなかった――人としてではなく、いち軍人として任務に有用であるかどうかの判断を差す――が、あるいは現状を素直に受け入れ、その立場から見える物事をありのまま捉えるというのが彼の才能なのではないかと思った。

 いずれにしろ、那須の言葉は貴重だった。こうして他の惑星からエウーリアスに足を踏み入れている我々からは、到底発生しない物の見方だ、と神室少佐は認めると同時に、うなじを掻きながら己の未熟さを恥じている様子の那須へ尊敬の眼差しを送るのだった。

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