第三話

 事前準備はほとんどが探索計画を策定することに費やされた。これは神室少佐のみならず、機関部や実際の探索任務に従事する要翠とミズカゼも参画し実施することになった。

 体力的な面においては、戦闘機パイロットとして日々、体力錬成を怠らない要翠とミズカゼにとって心配がいらないと神室少佐は早々に判断し、ほとんどの時間を艦内見取り図の記憶と非常時マニュアルの作成、装備の点検、使用訓練に費やした。<サギリ>の艦内構造を熟知している機関部のメンバーからアドバイスを受けながら、神室少佐が中心となって探索ルートが策定されていく。冗談のようだが、ルート策定には乗組員の噂話が参考とされた。例えば、左舷中腹で明らかに機関の駆動音とは異なる音響が中心部から聞こえたとか、展望デッキへ続く上部甲板の通路で女の囁き声がダクトから聞こえてきた、などである。

 実際には、翠とミズカゼは道程を記憶するのにかかりきりで、その他は装備類のリストと調達先を作成する作業に没頭した。まるでハイキングに出かける計画を立てるようなものだった、と翠は思ったが、ミズカゼにとっては正にハイキングなのではなかろうか。ほとんど外界を知らないルーフェであるミズカゼは明らかに今回の探査任務に、これまでの飛行任務とは異なる興味関心を抱いている。間近で接していて、こいつは浮ついているな、と翠は何度も溜息をついた。

 何度も行ったミーティングでは特に支障が出るような要素は無かったように思えるが、ルーフェ個人が持つ感情が、彼女たちの感受性にどのような影響を及ぼすのかは予測がつかない。集中できなくて何も感じられませんでした、では任務失敗だ。徒歩での移動のみで、長距離を歩く羽目になるこの探索任務は二度と繰り替えしたくはない翠にとっては重要な問題だ。

 先んじて、翠は率直な自身の懸念をミズカゼに打ち明けることにした。彼女は自分が浮かれ気分でいることを否定しなかったが、だからといって任務に悪影響を及ぼすことはないと太鼓判を押した。心を躍らせているのは何も今回だけではない、飛行任務の時にもエウーリアスの大自然と宇宙が交わる壮大な景色の中に身を置いているのだから、任務を遂行する上で何も問題はない、と。ゲンチョウの後部レーダー員席に座りながらそんなことを考えていたのかと翠は半ば呆れたが、気持ちは理解できた。かくいう翠も、そうした心の自由を求めて空を飛ぶことを決意した人間だったからだ。ミズカゼの場合はまた異なるだろうが、飛んでいて悪い気分にはならない。それに、もしかしたらルーフェの感じる感情や感覚情報というものは、自然を注視することでより明確に得ることができるのではないかと思われた。

 当初、頭に浮かんだそんな心配も、準備を進めるにつれて課題が浮かび上がり、気にする余裕がなくなっていった。

 まず大きな懸案事項として挙がったのは、翠とミズカゼを武装させるかどうかだった。

 本来、意思探査任務の一環とはいえ<サギリ>艦内に限定した作戦行動となるのだから、自衛用の武器は不要だ、と那須大佐は言ってきたが、神室少佐は断固として二人を武装させるべきだという持論を曲げなかった。理由は単純で、自衛のためである。これが意思探査任務である以上、エウーリアスが何らかの干渉をしてくる可能性は僅かであっても否定できない。そしてエウーリアスの干渉と言えばメタファによる直接攻撃だ。<サギリ>艦内で同様の攻撃を受ける可能性は、極めて低確率であっても考え得るのだから、二人のパイロットの生命を守る努力はすべきだ、というのが神室少佐の主張だった。筋は通っているが、実際に<サギリ>艦内の警務を担当している数人の保安要員はいい顔をしなかったし、那須大佐も不用意に乗員を武装させることに及び腰だったが、最終的には許可した。これで翠とミズカゼは、軽量化が施されたとはいえ重いライフルを提げて探索任務を実行する羽目になった。

 二つ目の問題は二人の行動距離である。武装はゲンチョウの緊急用サバイバルキットの中に標準装備されている火薬式のブルバップライフルを引っ張り出すことで決まったが、三キロに迫る重量の装備の追加は、長距離を徒歩で移動しなければならない二人にとっては大きな足枷になる。ただでさえ、非常時を想定した二日分の食料と飲料水、艦内通信を円滑に行うための野戦通信機材などを担がなければならない。その上、スリングベルトで首から小銃を提げるとあっては身体的な負荷がかかりすぎ、行動半径が狭まれば任務の効率が落ちる、というわけだ。

 しかしやはり、二人を無事に帰すためには荷物を多くしなければ安心できない。そこで妥協案として提示されたのが、区画毎に探索範囲を分割して複数回の探査を行うことだった。幸い、ルーフェは三人いる。飛行任務は順次復帰させればローテーションにも特に問題はない。

 前日からはミーティングに二組の男女が新たに姿を見せていた。甘木少尉とアダナミ、そしてユーエ少尉とユキシロだ。人数が増え手慣れていることからミーティングは格納庫に併設されているブリーフィングルームで行われることとなった。

「おれたちも肝試しに加えてくれるのかい」

「少年心をくすぐられますね。こういう冒険、いつかやってみたかったんですよ」

「黙ってろ、甘木。これは任務だぞ。それにユーエ、お前はまだ子供みたいなもんだろうが」

 辟易とした様子で嫌味を言う翠を無視して、甘木とユーエは興味津々に艦内見取り図を読み込んでいる。その横で、アダナミが肩を竦めてミズカゼへ顔を向けた。

「男ってみんな子供っぽいものなのかしらね、ミズカゼ」

「アダナミ、わたしには一般的な男性が皆このような感じなのかはわかりません」

「アホらし。でも、神室少佐や那須艦長を見てると、戦闘機パイロットっていう役職が特殊なのかもしれないわねぇ。ユキシロ、あんたはどう思うの?」

「どうでもいいわ。これが任務である限りはね」

「全員、私語は慎め」呆れたとばかりにため息をつきながら神室少佐が渇を入れ、「アダナミ、少なくともこの任務の趣旨はアホらしいものではない。意思探査任務だけでなく<サギリ>の安全に深く関わるものだ。他の者も心してかかれ」

 了解、と全員が声をそろえるが神室少佐はやれやれといった様子で頭を振る。<ミズカゼ>の二人は真剣に取り組んでいるようだが、<アダナミ>、<ユキシロ>の四人は程度の差こそあれ、普段とは違うこうした任務に少し興奮しているのは否めなかったからだ。

 そして計画が実行に移されたのは、那須大佐が計画を承認した四日後のことだった。

 出発地点にはブリーフィングルームが選定された。ロッカールームなどが併設されているし、広々としているから要翠、ミズカゼ両名の装備を展開しても場所を取らない。また、艦底部に近いとはいえ<サギリ>のほぼ中心に位置しているから、艦内を探索する拠点としては最適な位置にあるといえた。

 艦内の探索とは思えないほどの重装備をひとつひとつ点検し身に着けていくと、戦闘機乗りとしての面影は一切なくなった。装備量だけなら惑星軍の野戦遠征隊にも匹敵し、実際に用意された装備もそれに準ずる規格を備えている。艦内といえど広くナビが無ければ遭難することも考えられる容積を持つため、万が一野営ということにもなれば電熱式の携帯コンロなどを用いて食事を作る必要もあった。二人は体重に見合った荷量を分配したが、ルーフェとして優れた身体能力を持つミズカゼはまだ余裕たっぷりといった様子で背嚢をひょいと持ち上げている。翻って翠は既に不貞腐れていて、引き結ばれた唇と伏せた目を面白がるように甘木丈二が覗き込んだのを手で押しのけた。

 <アダナミ>のペアはそれぞれ同じように準備を整えているが、装備を身に着けてはいない。第二開拓艦隊所属の、ましてや仮装航空巡洋艦の<サギリ>には都合のいい野戦戦闘服などは無いが作業用のジャンプスーツが余っているため、パイロットたちは全員が灰色のつなぎ姿だ。左肩には識別用に各機の認識番号とエンブレムワッペンが縫い付けられており、ちぐはぐな姿ではあるが実用性に優れた身なりだ。<ユキシロ>ペア、つまりユーエ少尉とユキシロは万が一、<サギリ>が攻撃された場合に備え既に発艦して哨戒任務に当たっている。他、外部から<サギリ>を観察する目的があるのは言うまでもない。

「これは本当に必要でしょうか」

 僅かに顔を顰めながら、ミズカゼはつなぎの胸元を大っぴらに開く。中に着込んでいる身体保護インナーが見えた。濃紺のインナーはミズカゼの肢体にぴったりと合った採寸がされているもので、酷寒の極地から不毛の砂漠、あるいは密林の只中まで予想される戦闘機パイロットの標準装備である。保温、保湿、吸湿速乾と真空作業用以外のあらゆる機能が詰め込まれた優れものだ。惑星上であっても、よほどの極地でなければこれひとつを身に着けておけばとりあえず活動できる。

 露わになった胸の曲線から眼をそらしながら、額をおさえて翠がため息をつく。

「ブリーフィングで聞いただろ。<サギリ>は居住区画以外は基本的に気温調整のための空調を入れてない。気温は零下まで下がることも考えられるし、減圧ともなればそれどころじゃない。備えあれば、というやつだ」

「理解していますが、では艦内の空調を全開にすればいいのではないでしょうか」

「費用対効果の問題だよ。おれたちのために、どれだけの空気を温めなければならないんだ? それに、エウーリアスの意思探査のためには環境を調整して臨むのは不適だと、お前も言ってたじゃないか」

「そう……ですね。正直に言えば、このように窮屈な衣服を身に着けた覚えがないので戸惑っているだけです。我慢します」

 やけに人間くさいことを言うようになったな、と少し感心しながら翠はヘアゴムをミズカゼに放った。彼女は危なげなくそれを受け止めると長い砂色の金髪を後ろでまとめて胸の前に垂らし、華奢な身体には明らかに似つかわしくない巨大な背嚢のストラップに手をかけた。ルーフェであるミズカゼは心肺機能だけでなく膂力も人間より強化されているから、テーブルの上に置かれたそれを少し腰をかがめてひょいと背負う。翠はといえば、甘木に手伝ってもらいながらなんとか背負い、本当にこれを背負ったまま酷寒の艦内探索に行かなければならないのかと溜息をついた。

 タブレットを片手に探査経路を再確認していた神室少佐へ目を向けると、彼は画面から視線を移すこともなく翠へ向け手を振り、批難がましい目で見ても無駄だと言った。物事のすべてが気に入らない方向へ進んでいる気がしながらも、翠は最後に点検を終えたブルバップライフルのスリングベルトを首からかけ、長さを調節し身体に密着させた。帽子を被ってヘッドセットを装着しミズカゼを振り返ると、彼女も同様の恰好でこちらを見ていた。

 成熟した人間女性と同様の身体年齢とはいえ、背が低く線の細いミズカゼは少女にしか見えない。そんな彼女がこうして武装して立っているのを見ると、複雑な感情が湧き上がってきた。

 感情の機微を敏感に感じ取ったミズカゼが歩み寄り、小首を傾げながら手に触れた。グローブ越しでも細く骨ばったミズカゼの指を感じながら、心配するな、と翠は頷く。ミズカゼはしばらく彼の黒い瞳を見据えていたが、やがて視線を逸らして神室少佐の元へ歩いて行った。

「第一分隊、準備よし」

「了解。こちらも周辺空域にも異常はないと<ユキシロ>から報告が入ったところだ」

「では、行動開始ということですね」

「そうだ。要少尉、計画通り出発しろ。ミズカゼ、要少尉の指揮に従え。以上だ、幸運を祈るグッドラック

 二人は挙手敬礼。神室少佐が答礼し、そのままブリーフィングルームを後にした。



 重々しいブーツの音を響かせながらブリーフィングルームを出発し、二人はまず右舷へ向けて通路を進んだ。

 <サギリ>に限った話ではないが、航宙艦は与圧された居住区画を備えており、それは艦隊中央部に設けられている。<サギリ>の場合は大気圏内の飛行を想定したヘリウム採掘船をベースにしており、矢尻型の船体も三重の区画で囲んだ設計が用いられている。タマネギの皮のようで、外側から外殻、整備、居住区画が層を成し、構造そのものが乗員を保護する仕組みだ。

 外殻は文字通り、船体表面に露出した外殻構造を差す。構造区画とも呼ばれる。基本的には船体内部からのアクセスは制限されている区画で、例えば乾ドックでオーバーホールを行ったり、真空作業服や作業ドロイドが船外に出て故障個所を見たりといった、外部からの利用が想定されている箇所だ。そのため与圧されている区画は存在せず、今回の肝試し作戦においては探索範囲外となる。

 整備区画は船体の武器ネットワークやセンサー類などが艤装された宇宙空間と船内との連絡が必要な機器が収められており、必要であれば与圧できる区画だ。こちらも基本的には真空で、整備員などが作業のために与圧を行うことができる。例えば整備用のドロイドなどを用いて整備区画を利用して損傷した外殻の修復を行うこともあるし、被弾して断絶したケーブルを敷設しなおしたりもする。

 居住区画はさらに内側に用意された、乗組員が生活するための区画だ。乗組員の居室から艦橋までが含まれる、普段、翠たちが生活している区画である。

 格納庫や機関室は例外的な配置となっているが、基本的な航宙艦はこの三区画で構成されることが多い。居住区画についてもダメージコントロールの観点で被弾時の影響を最小限とするために真空化できるよう設計がされており、各ハッチも気密性を保つものとなっている。また、各区画間は耐久性の高い隔壁で仕切られているため、ハッチなども限定的だ。

 神室少佐は基本的に、整備区画まで足を延ばしたいと考えているようだった。少佐自身もそう言っていたし、探索経路も居住区画を突っ切って整備区画との間にある隔壁沿いに歩く道程となっていたため、いくつものエアロックを通り過ぎることになるルート策定にもちょうどいいし、こうした区画の境界線付近を移動すれば、二つの区画に関する情報が得られると考えられたためだ。そしてエウーリアスの影響を受けやすい――と思われる――外殻に近い区画を選べば、何か情報が得られるかもしれない。

 左手を持ち上げて、手首に巻き付いている携帯端末の画面から位置を確認した。ミズカゼも同じように確認しており、端末によれば整備区画の隔壁まで残り二百メートルほどということだった。ブリーフィングルームは艦底部に近い位置に設けられているので、矢尻型をしている<サギリ>の中では最も横幅が狭い甲板に位置している。機関室の連中が今回の任務向けに製作したアプリケーションということだがそつなく動いており、方位や道筋だけでなく、気温や気圧などの環境情報まで表示できる優れものだった。

「おれたちはこの船のことをほとんど使いこなせていないんだな」

 ぼやくと、ミズカゼがそうですねと生返事を返した。

 <サギリ>はヘリウム採掘船の設計を基にしているため、本来であれば採掘設備を格納する区画が多く存在する。居住区画も、長期間にわたって大人数が生活する広さが確保されているのだが、仮装航空巡洋艦として乗り組んでいる人数は本来想定の半分を少し超えるくらいだ。さらに軍隊のミニマリズムがエッセンスとして加われば、居住区画の延べ床面積のおよそ四割ほどしか使用されていない計算になるらしい。ほとんどの乗組員が、定められた生活を定められた領域で営むものだから、今回のように意図的に生活圏の外まで足を運ぼうとしなければ人目に触れることのない場所は数多く存在する。

 航宙艦乗りに幽霊話がつきものであるのはこれが理由だった。例えばこの奥で未知の異星人が生活していたとしても、気付く術が無いのだ。人間にとって知らないということは、存在しないということであり、だからこそ幽霊などという与太話が介在する余地が生まれてしまう。閉鎖空間で退屈な生活をしているから娯楽に飢えているというのも一因だが、実際の原因はそういうことなのだろうと考えている翠だった。

 実際に、居住区画の外縁部に到達してもいないのに既に人気はない。照明は点いているし空調も効いているのだが、誰の気配もない通路は薄気味悪く、いつか見たスリラー映画の中にでも放り込まれたかのような錯覚を覚えて身震いする。少なくともこちらには銃があるから、異星人に襲われても反撃はできる、と訳の分からない理屈で自分を慰めた。

 出発から十分が立ったので、翠は無線のスイッチを入れた。

「<ミズカゼ>よりCP、聞こえるか」

「こちらCP、感明良好」

 艦内ネットワークを通じて神室少佐がすぐに応答する。翠とミズカゼはいちおう立ち止まり、互いの装備や顔色を点検し合う。そして頷き合った。

「定期連絡、今のところ異常なし」

「了解」

 再び歩き出して三分ほどしたところで、居住区画と整備区画の間のエアロックに到着する。時間も予定通りで、翠は神室少佐に到着連絡を行い、そのまま隔壁沿いに船首方向へ向かえと指示が下った。了解、と短く答えて歩き出す。

「質問してもよろしいですか?」

 ミズカゼが口を開く。翠は食い込む肩紐をどうにかしようと少し背嚢を揺すったところだった。体力的には問題ないが、こいつはいい運動になるな、と薄っすらかいた汗をグローブで拭った。

「うん?」

「先ほどの、出発前のことですが。あなたはわたしの姿を見て、何を感じたのですか?」

「ブリーフィングルームでのことか」

 はい、と隣でミズカゼが頷く気配がする。言語的な表現でなく、実感として相手の感情を感じることのできるルーフェらしからぬ質問だった。それほどおれは奇妙な――ルーフェにとって解釈に困るような――感情を抱いていたのだろうか、と翠は考えたが、素直に答えることにする。

「そう大したことでもないが……今みたいに大荷物を背負ってライフルを持っている君を見て、<ミズカゼ>の機上にいるほうが似合うな、と思ったんだ」

 強く印象に残っているミズカゼの姿は、数十機のメタファに襲われながらからくも生還したあの出撃から帰還した時、格納庫でライトを背景にキャノピの上に立っている妖精のような女だった。

「似合う、ですか」初めて聞く言葉のようにミズカゼは鸚鵡返しに呟いた。「わたしたちルーフェは、エウーリアスの空を飛ぶために創造され、意思探査任務に従事しています。意思探査任務とは本来、ゲンチョウに乗り組んで行う飛行任務が主たるものです。だから<ミズカゼ>の機上にあるのが似合っている、という意味でしょうか」

「いや、そこまで深く考えてはいない。今みたいに大荷物を背負って歩くより、<ミズカゼ>に乗っているほうが君のイメージに合っている、というだけの話だ」

 そうなのですが、とミズカゼは自分自身でも腑に落ちていないとでも言いたげに黙り込んでしまった。

 いったいどうしたのだ、とは、翠は問い質さなかった。彼女が戸惑っているのは、彼女自身が翠の中に見出した感情がどんな言葉で形容されるものか説明ができないからに他ならない。かといって翠はといえば、それほど意識して彼女に対する印象を想起したのでもなかった。それに元来、感情とは言語化が極めて困難なものだ。誰でも胸の内をありのままに相手へと伝えることはできない。

 感覚的かつ非言語情報を分析するためのルーフェであるのだが、ミズカゼを以てしても説明できない様子なのだから、翠は何も言わずに彼女が考えるままに任せるしかなかった。

 船主方向へ向けて百メートルほど進んだ所で、再びエアロックが見えた。翠は、今度はミズカゼに無線連絡を入れるよう命じた。考え事に耽っている彼女に、この行程が次の段階へ進んだことを自覚させるためだ。その意図を明敏に察したミズカゼはてきぱきと報告をこなす。神室少佐はしばらく、何か違和感はないか、異音や謎の気配、要するに幽霊に類する現象を感じ取ったかを問うてきた。ミズカゼは問いかけるように翠を見、彼が首を横に振るのを確認してから、ありません、と神室少佐に報告した。

 了解、とこれまた簡素な返事をした少佐は、近傍のエアロックから整備区画へ入れと指示を伝えてきた。

 いよいよか、と翠はミズカゼと共に装具の点検を行う。居住区画から一歩でも出れば、人間の生命が保証される領域ではなくなる。今回は探索のためあらかじめ加圧がされた状態だから、真空作業服は必要ない。しかし不測の事態に備えるためには準備が不可欠だ。幾度も行った打ち合わせで危険性と所持品については確認してきているから、後はそれらを持ってきているか、装備はきちんと身に着けているかを確認した。

「これより整備区画に入る。異常を感じたらすぐに報告しろ。おれから三メートル以上は離れるな」

了解コピー

 最後にブルバップライフルを手に持ち、チャージングハンドルをわずかに引き薬室に初弾が装填されているのを目視する。弾倉を引き抜いて満弾であるのをお互いに確認して、エアロックの制御パネルを叩いた。

 幅三メートルほどのハッチが開く。耐爆、気密性を備える頑丈なもので、機材の搬入出も想定されるため大型のものだ。二人は内部の、五メートルほどの長さのある室内に入る。デザインは居住区画の通路と何ら変わらないが、どこか空気の質感が変わったように感じた。微妙な気圧の違いによるものだろうと考え、特に違和感もなくその事実を受け入れる。

 照明は白色だったが、背後でハッチが閉まると赤色になった。内室と整備区画の気圧確認を行っているようで、奇妙に時間が引き延ばされるような感覚がある。

 翠は生唾を飲み下し、口をへの字に曲げた。結局、おれは緊張しているのだ。だが幽霊が怖いからではない、一度も足を踏み入れたことのない整備区画に入るからだ。この先は本当に事故があり得る。最悪の場合、多額な予算をかけて製造されたミズカゼは無事に帰さねばならない。それが第二開拓艦隊に所属する、戦闘機パイロットとしての要翠少尉が果たすべき責任だった。

 程なくして、照明が白色に切り替わる。正面のハッチが開き、目の前に整備区画が現れた。

 強烈な冷気が頬を撫でて、翠は思わず身震いする。

 整備区画は居住区画とはまるで別の世界だった。

 居住区画は、食堂などを別とすれば温度が保たれているとはいえ気温が十五度より上に上がることはほとんどない。少し肌寒いくらいと感じていたが、整備区画は想像を絶する冷たさで二人を迎えた。左手首の携帯端末を確認すると、気温は零下十五度、〇・九九気圧。酸素濃度も最適化されているため呼吸はできるが、再生された空気のつんと鼻腔を突くようなにおいがした。それもすぐに慣れ、今度は冷たい空気を吸い込んで凍らないよう気を付ける必要があった。

 無論、備えはしてある。フィルター付きのマスクをつなぎのポケットから引き抜いて着けると、かなりましになった。呼気の湿度と温度を循環させる仕組みを持つもので、これほど乾燥し低温の空気であっても、快適に呼吸することが可能になる。本来は風邪などを引いた乗組員向けに開発されたものだ。

 ミズカゼが出発前に文句を言っていた身体保護インナーも、こうなれば有難いことこの上ない。野戦戦闘服であってもこの気温は耐え難いだろう。普段身に着けている航宙服のままでは一時間ともたないに違いない。

 ルーフェはこうした大気適性も人間より優れているはずだが、さすがのミズカゼも万難を排するために、同じようにマスクを装着していた。

 彼女の緑眼がこちらを見て、頷く。翠も頷き返し、正面と左右に広がる通路を見た。

 照明は灯されているが、じゅうぶんではない。天井から投げかけられる光は青白く、ここが廃墟であるかのような錯覚を抱かせる。整備区画というだけあって、防腐塗装の特徴である鈍色の剥き出しになった板でできた幅四メートルほどの通路が左右と正面に伸びていた。整備区画はさほど奥行はなく、正面の通路はどん詰まりになっており、どちらかといえば扉や壁のない部屋のように見える。左右の通路にはところどころハッチのようなものから手開きのパネルなどが散在しており、その向こう側にケーブルなどの艤装が存在すると思われた。

「大丈夫ですか、機長」

 雰囲気に圧倒されて気後れしたのを察したミズカゼが声をかけてくる。翠は苦笑いを返した。

「少しおっかなくなってきたよ」

「引き返しますか?」

「いや、それほどじゃない。ただ、そう感じるというだけだ。異常があったわけじゃない……いくぞ、ミズカゼ」

「了解」

「おれから離れるな」

 エアロックを潜る前とは明らかに違う意味の込められた言葉だと自覚して、翠は少しばつの悪い思いだったが、ミズカゼは生真面目に頷いて歩き出した翠の背中を追いかけた。

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