第三話

「調子はどうかね」

「決して良くはありません」

 神室応助少佐がにこりともせず答えた。何の感情も込められていない声色はむしろ皮肉気に聞こえて、思わず笑みを浮かべそうになり咳払いでごまかした。

 那須なす大智だいち大佐は乗員三八二名を乗せる仮装航空巡洋艦<サギリ>の艦長であり、即ち第二開拓艦隊の擁する全ての星間機動兵力の指揮系統における事実上のトップだった。彼の頭の上には第二開拓艦隊司令官の役職が存在するが、艦隊司令官といいつつも惑星植民に関するものであるので、例えるなら航宙軍の艦隊司令官よりも宙運業者の代表取締役といったほうがイメージに合うものだ。それ故に、いつも那須大佐へ下される上層部の命令は外注に等しい余所余所しさが纏わりついている。

 弱ったな、と那須大佐は顎を撫でた。今年で四十二歳になる顎は軍支給の脱毛クリームのおかげですべすべとしているが、そんなことも慰めにならないくらい現下の状況が芳しくないことは頭で理解できていた。

 最大の問題は、エウーリアスが物量による攻撃を企図し、ゲンチョウ一番機、<ミズカゼ>を撃墜せしめんとしたことだ。これまでの意思探査任務もかなりの危険を孕むものだったが、今後はより一層の緊張を強いられるものとなるだろう。幸い、状況をリアルタイム監視できる位置に<サギリ>が遊弋しており、<アダナミ>、<ユキシロ>が可動であったために救援が間に合った。今後も少なくとも一機のバックアップを組んだローテーションを構築しなければならず、これはパイロットの負担につながるだろう、と懸念していた。

 人間、何かが起こっていると感じた時は、往々にして何かが後だ。新兵教練時代に指導役の先任曹長から耳に胼胝ができるほど言い含められた言葉が思考に突き刺さる。

「少佐、君の報告書は読んだが、ニュアンスとしてエウーリアスの情勢変化をどう感じるか聞かせてほしい」

 艦橋ではなく、艦長室の手前に設けられた執務室で那須大佐があらためて問うと、コンソールの据えられたデスクの反対側に立っている神室少佐は直立不動のまま視線だけを那須に寄越した。六メートル四方ほどある、航宙艦にしては広々とした室内にいるのは二人だけで、並んだソファや壁に埋め込まれたコーヒーメイカー、冷蔵庫、ロッカー、テーブルは、艦内重力が切られた非常時も考慮し全て固定されている。天井からは暖色の照明が降り注いでおり、低い天井の圧迫感を多少なりとも減じようという努力の跡が見られた。

 三機のゲンチョウの飛行スケジュールなどを計画、運用し、意思探査マインドシーキングに対する情報分析すらも担っている神室少佐は、人間離れして見えた。航宙軍士官にありがちなスマートで気さくな人柄はこの男には当てはまらず、まるで刑務官のような、その場にいるだけで場の空気を重くさせるような佇まいをしている。

 パイロット連中は、神室少佐の出自を情報部出身だと言っているようだが、当たらずも遠からずといったところだ。艦長として乗組員の来歴を知る那須大佐は彼がどこで生まれ、どこからやってきたのかを知る立場にあるが、あまり大っぴらに吹聴できるようなものでもなかった。だが彼の経歴故に信頼し現在の職責を負わせているのも確かなので、いつかは情報が洩れることもあろうが、それまでは噂話に尾ひれをつけて泳がせておくのも面白そうだ、それに航宙艦乗組員というのはどんな些細なものであれ噂話をよく好むから、いつかはひとりでに真実へと泳ぎ着くかもしれない。

「現状、着任している三名のパイロットでは不足となる事態が生ずる恐れがあります。今すぐにでも部隊増強を考慮するべきかと」

 やはりそうきたか、と那須大佐は予測された話題の登場に立ち上がり、壁際のコーヒーメイカーに保温ポットを突っ込んだ。もうひとつを壁の棚から取り出して振って見せると、神室少佐は少し考えてから頷いた。

「以前にも話したとは思うが」とぽとぽとポットにコーヒーが注がれる音が響く。「上の連中は二〇一飛行隊の増強にはかなり及び腰だ。報告書には常に部隊増強の打診を添えているが、司令の反応は文面だけにしてもかなり辛口でね」

「無理もありません。艦隊と銘打ってはいても、開拓艦隊はあくまで非戦闘部隊ですから、文官の思考で運営されているのです。我々軍人がどれほど理屈に訴えたところで腰が軽くなることは無いのですから」

 ポットを手渡し、ソファーをすすめる。ローテーブルを挟んで向かい合うように置かれているそれに腰かけて、二人は自分の手の中に納まっているポットを啜った。

 不愛想で無感動な為人をしているかと思えば、こうして世間話をしながら茶を嗜むことができる神室少佐は、かなりとっつきづらい人物であるというのが那須大佐の下した結論だった。恐らくだが、彼は自分にしか興味がない。しかし他者の存在を蔑ろにしているわけではないから、自分から積極的に関係を持とうとはせずとも、話しかけられれば無碍にはできないのだ。つまり、世間一般でいう愛嬌というものがこの男にも備わっているのであるが、誰かに言ったところで困惑させるだけだろう。

「部隊増強を拒む理由は、エウーリアスにおける戦闘の拡大を恐れているからでしょうか」

「いいや、そうではない。戦闘部隊の権限拡大を恐れているだけだ。内部闘争だよ、実際のところは。貴様もそのくらい理解できているだろう」

「理解はしていますが、信じたくはないんですよ。まさか予算の大小が権力に直結するとは、見当違いも甚だしい。権力とは地位に付与されるものでは」

「残念ながら文官にはそのような人種ばかりだ。いったいどのような規範の下に上下関係を見出しているのかがわかりづらいし、恣意的なんだ。その点、軍隊はわかりやすくていい。わたしは大佐、貴様は少佐。それだけだ。相手の家族構成やコネに気を使わなくていい、今のところは」

 それで、と那須大佐は先を促した。神室少佐はゆっくりとコーヒーの香りを楽しんでいるのか、保温ポットの飲み口をゆっくりと回している。開拓艦隊に所属して辟易しないことといえば、このコーヒーの味くらいだ。ただカフェインの接種を目的とした航宙軍の泥水とは大違いで、風味も豊かで味もある。

「現行の体制では近い内に全滅するでしょう。それがわたしの見立てです」

「近い内に、とは」

「およそ二カ月以内」

 ふうむ、と那須大佐は唸ってしまう。信頼のおける優秀な部下が、三機のゲンチョウ全てが落ちると言っている。それも、二カ月という短期間で。状況が一変したと理解していたとしても、たった二ヶ月であの粒揃いが三人とも撃墜されるとは考えたくもなかった。

「<サギリ>は沈むかね」

「この船は沈みません、何しろ宇宙へ逃げられますから。しかし三機のゲンチョウは、被弾すればエウーリアス地表へ不時着するしかない。そうなった場合、どのような運命を辿るのかはよくご存じでしょう」

 惑星エウーリアスは元々、水資源が豊富な地球型惑星として知られており、発見の当初からテラフォーミングを用いた惑星開拓が望まれていた惑星だが、ある程度の生態系構築と大気改造が成った時点で突如として地上の施設や人員がするという異常事態が発生した。その後、後続として送り込まれた往還機をメタファが撃墜して、今に至る。あらゆる痕跡が消失した人員がどこへ消えたのかは未だわかっておらず、仮にゲンチョウが撃墜されベイルアウトしたとしても、待っているのは不可思議な現象による完全な抹消だ。

 考えてみれば、脱出したとしても生命の保障はない現在の状況がいかに三名の戦闘機パイロットにとってストレスとなっているかを慮り、那須大佐は顔を曇らせた。翻って神室少佐はといえば、どこか涼し気ともいえるほどの顔をしている。

「とはいえ」おもむろに神室少佐が口を開き、「第二〇一飛行戦隊を増強すべきというのは間違いありませんが、それは副次的な意味合いに過ぎません」

「というと?」

「わたしが申し上げたいのは、これまで数年間にわたりエウーリアスにおける意思探査マインド・シーキング任務に従事してきた戦隊員であっても、決してじゅうぶんなノウハウを蓄積するに至っていない点です。艦長には馬の耳に念仏でしょうが、意思探査任務は極めて高い特殊性を帯びた困難な任務です。既存の戦術、戦略であっても通用せず、我々は、我々独自の戦術をこの星で編み出していくしかない。三人の戦闘機パイロットには当事者意識としての創意工夫が不足しています」

「しかし、君も見ただろう。エウーリアスは我々を排斥しようとしている。生き残るので精一杯だ、彼らは」

 元来、ヘリウム採掘船として設計された<サギリ>は戦闘用艦艇には珍しく集中型の指揮命令系統システムを有している。中央情報室CICと呼ばれる艦中央部に設けられた部屋で、数十人の要員が常に勤務しており、あらゆる情報の統合と命令伝達が行われていた。特にメタファの出現位置はリアルタイムで監視されており、たとえエウーリアスの反対側であったとしても、衛星軌道を巡る十二の偵察衛星が通信を中継し、迅速に<サギリ>へと情報を届ける。これはエウーリアスで運用されるゲンチョウとも密接なデータリンクを形成し、電子的妨害がない限りは良好な通信環境を維持することができた。これまでに一度、通信が途絶する事態があったが、これは恒星マンタリアにおいて表面爆発が発生し、それに伴って強烈な恒星風が偵察衛星の受信センサーを焼き切ったことが原因だった。また、偵察衛星は比較的安価で、マンタリア星系内で調達が可能な装備品である。復旧は迅速に行われ、任務に支障が出ることはなかった。

 メルカトル図法により示されていたレーダー画面において、赤道付近を飛行していた<ミズカゼ>が突如として多数の赤い敵機を示すアイコンに囲まれた時は肝が冷えた。突然の事態に同様しながらも神室少佐の要請により発進待機状態にあった<アダナミ>、<ユキシロ>を緊急発進スクランブルさせ事なきを得たのだった。

 そうはいっても紙一重の対応になったことは否定できない、と那須は自戒する。今後も意思探査任務を遂行するのであれば、あのような危機的状況に陥る前にパイロットが状況を判断し、如何なる変化の兆候も察知できることが望ましい。

「本来であれば、そのためのルーフェであるはずなのですが」

 ルーフェ。その言葉に那須大佐は僅かに眉を顰める。

 惑星エウーリアスにおける意思探査は、信じがたいことに超能力者サイキックが用いられている。とはいっても、例えばスプーンを触れただけで曲げるとか、どこか遠く離れた地の何者かと対話するだとかそういったものではなく、鋭敏な感覚と優れた身体機能を持ちながら惑星エウーリアスの意思を感じ取ることのできる遺伝子操作された人間を指す。レーダーを始めとする計器によりエウーリアスの意思を把握できないために用いられた苦肉の策であり、その応用として、彼女たちはメタファの敵意を感じ取り、その位置を知ることができるのだ。そして人造人間であるが故に社会的価値観から逸脱した行動を取りうると判断されたため、ゲンチョウは人間を機長とし、ルーフェをレーダー員として後席に座らせることで機能するひとつの生態戦闘兵器システムとして結実した。

 本来であれば厳しく規制されてしかるべきである人間の遺伝子改良種とも呼べるルーフェは、当然のことながら一般社会とは隔絶された環境における教育が施されている。それ故に硬直した思考を備えており、状況判断という点でも人間を機長に置くことが望まれた。

 神室少佐の言うというのは、即ちエウーリアスの意思とメタファの放つ敵意そのもなのだと那須大佐は解釈した。だから、それらを察知するのはルーフェの仕事であり、存在意義だ。意思決定は機長が下す。それだけのことだろう、と。

 元々の状況想定に誤りがあったのだとは、二人とも口にはしない。意思探査と言いつつ実際には戦闘紹介任務と化している事実は、探査任務という名目を形骸化させ、同時に現実に存在する脅威を曖昧にしている。那須大佐にとっては、素直にエウーリアスの意思と対峙するための戦闘情報収集、つまり威力偵察なのだと割り切った内容に任務を変更してくれれば楽なのだがと思わずにはいられない。実際、意思探査と言いながら飛ばしているのは戦闘機ではないか、そこに戦闘任務とどんな違いがあるのだ、と。

 惑星エウーリアスからメタファの拡散を防ぐことを第一義とするならば、ソルベルト連邦は今すぐにでもこの惑星を破壊すべきだ。しかし未だにそうしてはいない。エウーリアスへの攻撃が、人類との対立関係を決定的なものとする恐れがあるためだ。ではどうすべきか、意思疎通の試みを続けながら敵を抑え込むしかない。それが<サギリ>の担う役割であり、第二〇一飛行戦隊の存在意義である。

「一先ずは、数的優勢に敵が訴えた場合を鑑みて、飛行戦隊の増員を目指すべきだろう。一機でもいい、多ければ多いほどメタファに対処しやすくなるのは事実だ。今後は二機一組の編隊でローテーションを組むことも検討しよう。飛行計画の見積もりと必要人員の計算をしてくれ。司令部にはわたしから話す」

「了解しました」

 それからは他愛もない雑談に終始し、コーヒーを飲み終えた神室少佐は仕事に戻りますと言って席を立った。礼を言って保温ポットを返し、部屋から退出する直前、思い出したように彼は振り返る。

「艦長、ひとつだけ。エウーリアスは量で攻めているのではありません。しかも、我々を攻撃しているとは限らない」

「あれが対話だとでもいうつもりか? 神室少佐、それに見合う犠牲を払ったとしても、あれが言葉だとは誰も思わんよ」

「結局のところは不明、というのが結論ですから、とやかくは申し上げません。ですが、一連の出来事をメタファ、ひいてはエウーリアスと人類の対立構図だとお考えになっているのであれば、改めるべきでしょう」

「どういうことかね?」

「あなたの考え方は、あまりにも人間的すぎる。ここはエウーリアスですよ、艦長。楽園だ」

 那須大佐は、神室少佐の背中が消えた後も、ずっと気密ハッチの表面を見つめ続けていた。





 休暇の初日は寝て過ごした。二日目は艦内のジムで汗を流し最新の映画を娯楽室でエールを片手に鑑賞、そのまま寝た。

 三日目ともなると、さてどう過ごしたものかと頭を悩ませてしまう。それほど、航宙艦の内部という世界は狭く、不自由な場所なのだと思い出す。軍隊においてもそうだが、外出し町へ繰り出すともなればあっという間に時間が過ぎていくものだが、生活を営む場と同じ範囲で何かをしようとすると、途端に選択肢が限られてしまうものだ。

 とにかく、休暇明けに体力が落ちていることだけは避けなければならないので、特に指導もされてはいないが午前中はジムへ向かう。軍艦というものが、星々の海を渡るものではなく、惑星上の大海原を行き来するものであった時代、船の外周を走ることもあったそうだが、航宙艦ではそうもいかない。狭い通路で汗を振りまいて走るのはシフト中の乗組員にとって邪魔でしかなく、それは<サギリ>の活動に支障をきたすことを意味する。

 水分補給用に、自分の保温ポットにスポーツドリンクを注いでタオルと共にランニングマシーンのひとつを占領し、一時間ほどインターバル走を繰り返す。走り、疲れたら歩き、また走る。本格的な体力錬成を行うと今度は疲労を蓄積してしまうため、カロリー消費を重視した、というよりも気持ちよく運動できる範囲で留めた。

 併設されているシャワールームで汗を流し着替えると非常にさっぱりとした気分になる。今日は本でも読むか、と娯楽室へ向かおうとしたその時だった。

「要少尉、こんにちは」

 振り返ると、そこに立っていたのはミズカゼだった。いつもの軍服姿で、長い金髪は背中へ流している。先日の出撃から帰還した時とほとんど変わらない様子で、違いといえば汗をかいているかいないか、それくらいだ。

 過酷な任務を思い出し、翠は顔を顰めそうになるが、彼女のせいではない。そう思いなおして首からかけたタオルを手で握り、振り返る。

「よう、ミズカゼ。君も運動しに来たのか?」

「いえ、たまたま通りがかっただけです」

「よくわからんな」

 ここはジムだ、しかもトレーニング器具が並んでいる広々とした部屋で、周囲には翠と同じようにランニングマシーンに乗ったり、ベンチプレスで筋肉をいじめている者などがちらほらと見える。そういう区画だから、基本的には運動を目的に訪れるのが普通なのだが、ミズカゼはどうも違うらしい。

 運動しに来たのでなければ、何なんだ。そう問いかけるよりも早く、疑念を察したミズカゼが先回りして答えた。

「<サギリ>の皆さんの様子を見に来ました。わたしが任務に就いている間、他の方がどういう風に過ごされているのか気になりましたので」

「それでわざわざ、ジムに来たのか」

 問い返しながら、そういえばこいつはルーフェなのだと思い出す。

 成人女性の外見であっても、ルーフェは実年齢が五、六歳程度だという。他でもないミズカゼから聞いた話だ。彼女らは厳密に隔離された人工子宮から生まれてくるが、幼児としてではなく、ほとんど今の容姿のまま生まれてくる。違いといえば頭髪が生えていないことくらいで、大脳や身体は成熟しているため決められた教育を施され、現在のように高度な知覚と理路整然とした思考を持って社会へ出されるのだ。ここ、惑星エウーリアスという閉鎖的な人類社会へ。

 ここ数年間、ミズカゼと接する中で、彼女は実年齢に似つかわしくない高い知性を備えているのは知っていたので、翠は彼女の言葉の裏を探ろうとし、はたと気付いた。人間社会を経験せずにここへやってきたミズカゼにとって、未だに人間が営む生活は未知の領域であり、彼女にとって大きな関心ごとなのだ。

「君は、人間を知ろうとしている」

 少し驚いた様子で、ミズカゼは首肯する。翠は少し考えてから、ミズカゼの肩を叩いて出入口を示した。

「ミズカゼ、腹は減ってるか」

「ええ、まあ」

「一一四〇時に食堂で落ち合おう。いいな?」

 今度はミズカゼが翠の言葉をうまく咀嚼しきれていない様子だったが、翠は返事も待たずにジムを後にした。自室でシャツとパンツを脱ぎ捨てて新しいものと取り換え、濃紺の軍服のズボンに足を突っ込んだ。財布代わりの携帯端末モブを手に取ってポケットに入れ、現在時刻を確認する。一一二六時。ゆっくり歩けばちょうどいいくらいだろう。

 ミズカゼは戸惑っていたようだが、まずは彼女を知ることがエウーリアスにおける意思探査の糸口になる。直感がそう働きかけ、気付けば彼女を誘っていた。<サギリ>の食堂は、二人の生活圏で最も豪華な食堂に違いない。

 部屋を出たところで誰かとぶつかりそうになる。思わず身を引いて、今しがた閉まったばかりの気密に背中を押し付けて距離を取った。

 ハッチの前に立っていたのは、肩にかかるくらいの長さできられた燃える赤い髪、はっとするほどに透き通った碧眼を持つ小柄な少女だった。それだけでサイバーパンク世界から飛び出してきたキャラクターのように見えるが、その眼差しに込められた強い意思と身に着けた軍服が現実感を纏わせている。

 この少女の名はアダナミ。ミズカゼと同じ、ルーフェの一人だ。二番機<ミズカゼ>のレーダー員である。

「こんにちは。要、ミズカゼになんかした?」

 出し抜けに彼女は詰問してきた。直情的で高飛車な性格のアダナミは、甘木丈二でも手を焼くほどのおてんば娘のようだ。

 藪から棒に問われた割にしては落ち着いて返答できたと思う。

「いや、一緒に飯を食わないかと誘っただけだが」

「は? なんで?」

「ミズカゼと話がしたいだけだ」傍若無人な振る舞いに階級を意識することで対抗し、「それがどうかしたのか?」

 うーん、とアダナミは形のいい眉を潜めながら腕を組んだ。

「どうかしたってわけじゃないんだけど、ミズカゼからよくわからないモノが響いてきたから」

「おれが何かしたと思ったのか」

「というより、アンタしかいないじゃない、ミズカゼに接する人なんて。ただの消去法よ」

 それにしても、とアダナミは翠と反対側のハッチに背をつけて怪訝そうに見上げてくる。

「本当に食事に誘っただけ? セクハラとかしてないでしょうね」

「してない。何なら一緒に来るか?」

「結構よ、これからフライトスケジュールについて少佐から連絡があるの。ま、変なことしてないんじゃよかったわ。それじゃね」

 あっけらかんとした様子で後ろ手に振りながらアダナミが歩み去っていく。旋毛風のような奴だな、とあまり面倒なことにならずに済んだことに胸をなでおろしながら反対方向に歩き出し、少し遠回りをしながら食堂へ歩いていく。

 ルーフェは、と翠は歩きながら考える。ミズカゼやアダナミは、他者の感情の機微に非常に敏感だ。だが、受け取った感情のすべてを理解し、心を読んでいるわけではない。感情とはすなわち、外界からの入力に対する反射であり、知性にとっては感覚質クオリアとして近くされるものだ。要するに、五感で感じ取る全ては本人にしか解せない概念であり、赤を赤、痛みを痛みとして伝達するには、知性それぞれに対するローカライズが不可欠なのだ。それは人間とルーフェの違いというより、知性、魂の違いに他ならない。即ち個々人それぞれにとって宇宙が存在するということであり、他者の世界観を理解するためには宇宙と宇宙の翻訳が立ちはだかっている。

 意思探査任務であっても同じことではないか、と翠は思い当たり、衝撃のあまりその場に立ち尽くした。

 エウーリアスも、異質とはいえ知性に分類されるのであれば、世界観の翻訳が避けては通れない。相手の意思を知るには世界観を探るしかない。ルーフェに対しても同じことが言える。つまり、ミズカゼやアダナミを理解しきれていない自分が、ただ漫然と探査任務をこなすだけでは、任務は達成など望めないし、恐らく近い内に落とされる。メタファに切り裂かれるのが先か、ベイルアウトしてエウーリアスに飲み込まれるのが先か、その違いでしかないだろう。

 この思考はどこからやってきたものか、と考え、きっと先日の経験だろうと納得する。漫然と遂行されるだけの意思探査任務、その中で初めてといっていいほどに大きな生命の危機に瀕した、その経験が生存本能を叩き起こした。エウーリアスの空を飛ぶには、今までのままでは、死ぬ。ただそれだけの話だ、戦闘とはシビアなものであり、結果には、生きるか、死ぬか、そのどちらかしかない。本来、そういうものだ。探査任務と銘打っているものの実際は戦闘哨戒なのだと理解していたはずなのに。

 いつの間にか食堂の前に立っている。中からは食事の喧騒が響き、入口から覗くと、保温ポットを両手で握りこんだミズカゼの姿が見えた。彼女は目敏く翠の姿に気が付き、こちらへ視線を向けた。

 まずはミズカゼだ、と翠は足を踏み出す。ミズカゼ、アダナミ、エウーリアス。神室少佐にも相談しなければいけないが、望もうと望まざると、この星で飛ぶのであれば適応するしかないのだ。

 それが生命というものだ。

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