落翼のエウーリアス
夏木裕佑
第一部
第一話
空が近い、と感じてヘルメットバイザを下ろす。
頭上に広がるのは青い海、視界の端にかかるように緑色とこげ茶色で縁取られた海岸線。さらにその向こう側には空を円形に切り取る紺碧色が滲んでいる。思えば奇妙な表現だ。最低明度に設定され、宇宙の暗闇に浸食されつつあるHMDの高度計を眺めながら思う。
人間にとっていつでも空は見上げるもので、大地は踏みしめるものだったが、ここ二〇〇年あまりは遺伝的に刻み込まれた営みから外れた世界に足を踏み入れ、根ざしている——あるいはどこにも根ざさない——人々が大勢いる。今の自分が正にその一人だ。高高度の低気圧環境にも対応できる半ば真空作業服と化した耐Gスーツ、HMDに投影表示される各種情報表示と両足で縦ではなく横方向に突きずらすフットペダル、左手で握るスロットルレバーは巡航位置に固定され、サイドスティックを握る右手はほとんど添えるだけで空を舞う。
機は順調に飛行している。もはや枯れた技術だが、外気流と高度、機体のコンディションを考慮して最適化された飛行能力を発揮する
流線形の機影から盛り上がったバブルキャノピは視界が良好で、機体の優れた空力特性を損なうことなく広い視野を確保している。HMDの根幹をなすヘルメットバイザを羽あげて肉眼で外景を直視したとしてもじゅうぶんな視野だ。外殻をすべて合成素材で覆い、コックピットを保護しながらカメラにより映像を取り込むこともできなくはないが、電気系統がダウンした非常時を想定して昔ながらの透過キャノピーを採用しているおかげで、今、こうして大空と宇宙の狭間を体験しているのだった。
科学技術の粋を集めた高性能な航空機に乗り組んでいる自分が、空を見ている。間違いなくこの惑星の地軸や地表面を大地とするならば逆の視点だ。鳥よりも高い星の視点。おれたちは星の海からやってきた。暗闇の中に浮かぶ青い楽園を前に空を感じるなど、きっと後席に座っているあいつのせいだろう、と彼は思う。そこに侮蔑や畏敬といった感情はない。ただ、そうだというだけの話だ。この星の常識であり、他の人類社会では非常識とされる類の日常。
水素を原料とする双発のデトネーション・ターボファンエンジンは順調にドライ出力を維持し、この惑星における音速の一・五倍の速度で赤道付近を東へ飛行中。今日は単純な
宇宙時代を迎えて久しい人類において、未だに大気圏内航空機が必要とされるのには様々な理由がある。例えば、惑星地表における海洋の面積が大きく水上艦艇や地上兵器では惑星規模の戦闘に耐えられない任務のためだ。また、軌道エレベーターなど惑星の重力圏における弾道軌道、往還機を利用した時代でも航空機による大気圏内飛行機は重要な交通インフラであることから、これらを保護、あるいは脅かす目的で戦闘機が用いられることは多い。制海権、制空権に対しこれらを優越するのは制宙権に他ならないが、大国間の戦闘がめっきりと減った現代においては、各惑星においてはまず制空権が重視されることが多い。航空機の運用は、航宙艦、あるいは惑星周辺での運用を想定した系内コルベット艦と比して費用対効果という点で雲泥の差があるのだ。
もっとも、ここ惑星エウーリアスでの航空機の使用用途は他に類を見ないだろう。皮肉っぽい笑みを片頬に浮かべながら、ヘルメットバイザの奥で忙しなく眼玉を動かして周辺の状況を監視する。仕事はしているというわけだ。
地上の美しい自然は積乱雲が迫ってきたことで視界が閉ざされ灰色の雲の向こうに消えてしまう。落胆と共に機体を水平に戻した。頭上を覆っていた惑星の地表とは打って変わり、黒の濃い濃紺の空が広がる。そこには何もない。いや、意識すれば星々の間にめぐらされた人類社会を想起し、感じることはできるのだが、実際には彼の視線の先に広がるのは広大無辺の虚無だけだ。
高度三万メートル以上の高高空を飛行しているため、電子雑音はほぼ存在しない。G五型にスペクトル分類され、太陽系の太陽と比してほんの僅かに想い質量を持つ恒星から降り注ぐ恒星風が観測されるくらいである。それもほとんど無視できる程度のもので、安定した電波環境の中、静寂が満ちるコックピット内で声が響く。といっても、ヘルメットに内蔵されたヘッドホンによるサラウンド機能で背後から声をかけられたように聞こえるので、実際に空気中を伝わってくる音声を鼓膜で受け取っているわけではない。
心の表面を直接撫でるような、細く無感動で囀るような声が響く。
「機長、進路を方位〇・二・〇へ転針してください」
「
座席右側の肘掛けから生えているサイドスティックを握りこむと、メインフライトコントロールシステムが意図を察し即座に操縦権を渡してきた。そのまま機体を左へ緩くロール。右翼が天頂をほんの少し行き過ぎた位置を指示したタイミングで手を放し微かにピッチをかける。巨大な航空機は全ての動翼とエンジン、機体剛性を電子制御しており、飛行に必要なあらゆる要素を最適化し機体挙動を管制する。
この機体——FS-11、ゲンチョウ、固有機体名<ミズカゼ>にはレーダーが搭載されていない。正確には、戦闘機としてレーダーは搭載されているのだが実用的ではない、ここ、惑星エウーリアスでは。能動・受動を問わず電磁波を用いた索敵手段の代わりに、後部座席には目に見えない大いなる意志を感じ取る遺伝子改良された人間が乗機している。対地高度計や風向、時刻表示、方位までもが高精度に把握できる計器の情報に頼りながらも、捉えるべき敵の存在を感知できるのは、彼女だけだ。サイドスティックを握る機長にとっては、彼女との意思疎通が敵の位置を知る術であり、唯一といってもいい対抗手段となる。
方位の変更はすぐに終わり、機体を元の水平飛行へ戻して再度の自動飛行。そこからしばらくの無言。超音速であるため、今もキャノピの向こう側を時速千キロを超える速度で掠めていく空気やエンジンの轟音も聞こえてこない、まったくの静寂が耳に痛いほどだ。ただ、電子機器の駆動音と、背後に座る彼女の気配だけを感じ、宇宙や大気、恒星といったこの世界を象るあらゆる概念から隔絶された宇宙として、このコックピットブロックは独立している……錯覚は現実と曖昧な境界線をまたいでこちら側へやってきた。
楽な任務であるはずだ、これは。本来、主任務は探査であり、戦闘ではない。差し迫った危険も、明確な敵意を持つ勢力も存在しない。戦闘機という形態をとっているのも、自衛するためだ。何しろ、意思探査においてセンサーとなるのは後部座席に座る一人の女なのだから、生きて帰らなければ探査情報も取得できないのである。
五百キロほどを進んだところで、無我の境地にすら至れそうであった意識を警告音が寸断する。それは後部座席で彼女が鳴らしたものだ。手動で機長へと注意を促すために用いられるそれは、ヘルメットの高精度サラウンドヘッドホンの、ちょうど三時方向から鼓膜を刺す。
「
操縦桿を左に倒す。圧力感応式でわずかに可動するそれに力を加えた途端に、全長三〇メートルにも及ぶ巨大な鳥が翼を翻す。燕のように軽やかに傾いた機内で左手で握るスロットルレバーを押し込んだ。MILからアフターバーナーへ、やや下降気味に大きく旋回するまでに約一秒。レーダーは存在しない、全て彼女の感じ取る気配がすべてである。
「もう少し加速できますか」強化された心肺は、声色に微塵も乱れを感じさせない。
「ああ」機長の男はなんとか短く返事を口にする。
「では、もうひと捻り、左へ」
心肺機能を遺伝子レベルで強化された身ではこの程度の加速度は何とでもなるだろうが、生身の人間であるこちらとしては意識して息を吸い込まなければ呼吸すらままならない。耐Gスーツの性能が極限まで高まっている現代においてはブラックアウトこそ防げているものの肉体への負荷は耐え難いことには変わりなかった。それでも加速を続けながら、言われた通りに左旋回を継続、軌道は先ほどまで自機が通っていた箇所へ垂直に、より低い高度を突き抜けていく。
ここまでくれば彼にも敵機を目にできた。如何なる特性か、電磁波による探知を防ぐ術を身に着けた緑色の機影が目の端に映る。十一時方向。見慣れた、正に鳥の形をした
おれにとっては、こいつは戦闘機ではない。正しく怪鳥だ。こいつは自分の意思で飛んでいる、それはおれたちが探し求めるものではなく、ただ敵意だけを詰め込んだものだ。生命ではないが有機物で構成された肉体は空と同じ色をしており、透明とはまた違った錯視で影を視認するにはそれなりの訓練が必要だった。メタファは複数のタイプが確認されているが、共通しているのは全て電磁波による捜索レーダーに一切の反応を示さないという一点。だからゲンチョウにはレーダーはない。それはデッドウェイトでしかなく、重い翼で舞うことが許される空ではなかった。
「二機、方位三四八よりヘッドオン」
「
「了解、<サギリ>への状況報告は完了。
マスターアームスイッチを跳ね上げて武装選択、翼下のハードポイントに吊り下げた
ほとんど真正面から突っ込んでくるメタファは翼を重ねるように小さな編隊を組んでいて、背後のレーダー員席に座る彼女自身に取り付けられたセンサーが脳で認識している敵位置情報を識別し、コンソールで情報を補正しながら機長のHMDに情報を転送する。これにより、遠方のメタファであっても相対距離と位置を容易に知ることが可能だ。有体にいえば狙いをつけることができる。
敵機——便宜上そう呼んではいるものの、違和感は拭えない——の戦術は極めて単純だ。接近し、体当たりする。ミサイルや機関砲といった人類が用いる科学兵器は使用しないが、驚異的な運動性能と先述したステルス能力により、この惑星に入植しようとした数多の人々を撃墜せしめてきた。まともに格闘戦を挑めば、燕が餌を獲るように容易く仕留められてしまう。
だが、今はこちらに距離と有利がある。殊、遠距離の戦闘では人間と我々が開発した兵器が有利だ。
「オーケイ、
「わかりました」
深く息を吸い込み、彼女は兵器システムでいうロックオンを行うべく意識を集中するのが感じ取れる。
数秒後、電子音と共にコンテナに菱形のロックオンカーソルが重なった。相対距離二万三千メートル、射程内だ。
「FOXー2」
コールと共にレリーズボタンを押し込む。
空対空誘導弾はシーカーを備えていない。紙のように薄い受信機が胴体前面に貼られており、母機からリアルタイムに送信される三次元位置座標に応じて未来位置を予測し誘導を行う。人間の脳波には出力に限界があり、もちろん遠方の受信機が認識できるものではないが、<ミズカゼ>のレーダー員が被るヘルメットに内蔵された高精度の脳波センサーがリアルタイムに脳活動をモニタリングし、いくつもの複雑でブラックボックス化されたフィルタを経由することによりミサイルの誘導信号へ変換、攻撃を可能とする。
尾部のロケットモーターに点火し大加速を終えたAAMー2が音速の四倍以上の速力を発揮し標的へ向け飛翔していく。途中までは白い噴射煙で軌道を確認できたが、加速を終え慣性飛行に移った時点で目視による確認はできなくなった。HMDには視界に上書きするように、敵機の位置とAAMー2の軌道と目標との相対距離が表示されており、目まぐるしく移り変わる数字が順調に敵機を目指していることを示している。
攻撃を察知したメタファは左右に分かれた。重なっていたアイコンがぱっと弾けるように左右に回避機動を取る。<ミズカゼ>はその間に機首を上に向け高度を上げた。基本的に、メタファは低空であるほど良く動く。こちらが高所に陣取っていれば敵は不利な状況で格闘戦を演じることになるだろう。
「ああ、ダメ。そっちじゃないわ」
呟く女の声にどきりとするが、すぐにそれはミサイルへ向けた言葉であると気付く。彼女は今、四発のミサイルを目標へ向けて指向しているのだ。並外れた集中力と並行思考、そして空間把握能力により、この空の隅々まで意識を張り巡らせているのだと以前に聞いたことがある。
馬鹿げている。おれはただの人間だ。こんな超常的な敵との戦い、惑星の意思を探る退屈な任務など、こいつらに任せておけばいいのだ。なぜ人間が介在する理由がある。
いつも通りに湧き上がる文句を心の底に押し込めて、周辺へ目を配る。今は誘導中だ、不要な機動で彼女の集中力を乱すべきじゃない。かといって、機長として何もすべきではなかった。たとえ目に映らないとしても、他に敵機がいないかを確認していなければ気が休まらない。
電子音。警告ではなく通信回線の接続を報せるものだ。待つほどもなく声が響く。
「<サギリ>より<ミズカゼ>。現在軌道変更中、強硬回収を実施する。軌道変更完了まで三五四秒」
「聞こえたな、少尉。まずあの二機を落とす」
「
その数秒後、メタファ二機にミサイルが命中する。
が、即座に警告。後席から新たな敵機の出現を感知と報告が入った。
「どこだ、見えないぞ」
「下です、機長。数、四。突き上げてきます」
反射的に真下に首を曲げる。本来であれば自身の股間と太腿しか見えないが、咄嗟に切り替えたHMDの投影機能によりその先にいるメタファ四機を視認できた。
今の二機は囮だ。彼女の注意が攻撃に向けられている隙に、ここまで近距離に肉薄できたのだろう。四機は一辺が五十メートル正方形の頂点の位置を占め、音速の三倍に迫る速度でズーム上昇。
無意識の内にサイドスティックを捻りピッチ、大きく弧を描いて宙返りをすると、そのまま敵編隊へ向け降下。エアブレーキを展開し減速。
「交錯まで三秒」
耳で聞きながら、武装選択。胴体中央に装備されているレーザー機関砲をオンライン、電力の大半をこれに回し、HMD上のレティクル中央に正方形の一片を捉える。一・三メガワットの光学レーザー兵器は機体推進軸を中心に〇・四度の範囲で照射器を可動でき目標へ指向できる。微妙に操縦桿を操作し、直感に任せて引き金を引いた。
コンマ五秒の瞬間に五回のレーザー照射が実行される。二機のメタファが即座に赤熱し四散、黒煙を尾に引きながら落下していく。残りの二機は撃墜された二機の軌道から離れたが、すぐに体勢を立て直して<ミズカゼ>めがけ突っ込んでくる。その隙を突く形でスロットルレバーをアフターバーナーへ叩き込み、崩れた正方形の中心を貫き飛び去った。
メタファ二機は急旋回し追撃の構えだが、位置エネルギーを運動エネルギーに変換しさらに最大出力でエンジンを吹かしている<ミズカゼ>が水平飛行に機体を立て直し始めると追いつけずに離れていった。強烈な加速度で大きく肩で息をしながら、敵編隊との相対距離があっという間に三〇キロメートルとなったところで右に四五度、機体を傾けて旋回を開始。大きく螺旋を描くようにさらに高度を取る。
「もう一度アタックだ。AAMー2を使う」
「了解……いつでもどうぞ」
既にロックオンは完了している。敵機の回避機動が落ち着き機首が<ミズカゼ>に向けられるのを待ち、レリーズボタンを引き切った。四発のAAMー2がハードポイントから切り離され、螺旋を描きながら発射したため、ミサイルは直角に右へ機首を向けてからロケットモーターに点火した。
遭遇劈頭の初撃と同じく、危なげない誘導でミサイルは目標に命中。撃墜を確認し、<サギリ>が送信してきた回収予定地点へ向け機首を返そうとしたときだった。
「
即座に左へ九〇度ロール、加速しつつピッチ。リミッターがかけられてはいるが殺人的な機動に一瞬、ブラックアウト。すぐに視界が元に戻り、辛うじて連続している意識の中で状況を確認しようとあちらこちらへ首を動かそうとするが旋回は継続しているため、HMDを利用した情報収集ができない。
苦しそうな息遣いから察したのか、後席から声が飛んでくる。
「後方にメタファ、三四機が出現。方向多数、全力回避中。機長、旋回を継続してください。可能であればもう少し加速を」
「馬鹿言うな」
「馬鹿とは言っていません。加速が難しいのであれば左右に振ってください。このままではやられます」
言われた通りにヨーを絡めて軌道を不規則に変える。無理に首の向きを変えれば頸椎を脱臼するほどの負荷がかかっているため定かではないが、ほぼ真正面しか見えない視界の中でも、機体のすぐそばを凄まじい速度で掠めていくメタファの群れがわかった。空色の刃のような翼が機首のすぐ右側を通り過ぎ、肝を冷やしながら超音速の衝撃波に揺れる機を制御しようと懸命にスティックを握りこんだ。
「全誘導弾射出、誘導中。撃墜、撃墜、撃墜——」
後席からの報告は興味のない天気予報のように聞こえる。大旋回の最中、遂に失神し、<ミズカゼ>は機長の意識喪失を認識して後席のフライトオフィサへ操縦権を緊急移譲。彼女のHMDに「YOU HAVE CTL」の表示が点滅し、慌てて機体を水平状態へ復帰させた。
ここぞとばかりに、四方八方へ散ったメタファが急旋回し、<ミズカゼ>へ向け殺到する。三〇秒足らずの交戦でメタファは一五機が撃墜されていたが、残りの一七機でも機長が意識を失った<ミズカゼ>を撃墜するにはじゅうぶんだった。
遂に落とされるかと思われた刹那、天頂から一七度ほど傾いた上空より超音速の空対空ミサイルが降り注ぎ、瞬く間にすべてのメタファを撃墜。無数の残骸が降り注ぐ。
爆煙を突き抜け<ミズカゼ>が姿を現すと同時に、機長の意識が戻る。猛烈な吐き気を懸命にこらえながらフェイスマスクをはぎ取り、肺を突き刺すような冷たい外気を吸い込んだ。いくら呼吸しても足りない。汗が目に入り、スロットルレバーから左手を離して乱暴に拭う。
ふわりと、羽ばたくように左右に同型機、ゲンチョウがやってくる。顔を向けると右側が二番機の<アダナミ>、左側が三番機の<ユキシロ>だった。さらに上を仰ぎ見ると、大気上層まで軌道を落とした仮装航空巡洋艦<サギリ>のスリムな艦影が、濃紺と漆黒の狭間に在る色合いの只中に浮かんで見える。
「<アダナミ>より<ミズカゼ>、援護が間に合ったようでよかった。どんな具合だ?」
荒く息をつきながらフェイスマスクを着け、酸素を肺に取り込みながら答える。
「最悪だよ、<アダナミ>。最悪だ」
ほんの少しの間を置いて、機長席に座る男のヘルメットが上下に動くのが肉眼で見えた。
「帰ろう、<ミズカゼ>」
三機が五〇メートルほどの間隔を置いて横並びになったまま、徐々に機首を持ち上げていく。大気が希薄な上層部へ帰投するために機体背面の
「<ミズカゼ>より<サギリ>。これより帰投します」
最後に眼下の豊かな大地を見下ろす。
美しい。
この美しさがおれたちを否定するなら、どこへ往けばいいというのだろうか?
<ミズカゼ>は加速し、一三秒後に<サギリ>への帰投コースに乗った。
*
<サギリ>の航空機発着フックは艦底部に艤装されている。ユニットそのものを吊り下げる形式で、航空機は艦体から下方に伸びたこのユニットにランディングギアを出したまま降着し、エンジン出力を一時最大まで高め内部清掃、エンジン停止。そのまま艦内に収容され、ランディングパッドへと移され格納庫に収容された。
航宙艦内の与圧された格納庫は三重の対爆隔壁で仕切られており、その中に入ってようやくヘルメットを外すことができた。
額にへばりついた髪の毛をグローブを嵌めた手で掻き上げ、キャノピを開く。格納庫内の人いきれがどっと流れ込んできて、整備ボットの移動するモーター音や工具類ががちゃがちゃと擦れたり、整備員たちが何事か指示を受けているのが聞こえてきた。
帰ってきたとは思えなかった。故郷はずっと遠くにあり、ここは異世界のまま。船が海に浮かんでいればまだどこかに向かっていると錯覚できただろうか。
格納庫内の定位置に<ミズカゼ>が運ばれているのをいいことに、ベルト類まで外して荒く息をつく。そうこうしている間に、股の間に挟まったサブディスプレイのどこかから声が聞こえてきた。
「後はやっておきますから、少尉はお休みになられてください」
ヘッドレストに頭を預けるように上を向いていたが、声に視線を前に戻すと、庫内を見渡せる高さに埋め込まれた指示所に詰める整備員がこちらを見ているのがガラス越しに分かった。
「すまない」
軽く手を振りながら返事をする。胃がむかついてしょうがない。先ほどまでは中身を吐き出さないようにするので精一杯だったが、今はかなりましになったほうだ。何とか声を絞り出せる。
機体が停止するのと同時に、男は窮屈な座席から立ち上がろうと身をよじる。そのまま後始末を整備員に任せるため、座席から添えられたラダーに身を投げ出すようにして移り、降機した。
ふと、彼女の様子が気になり振り返る。
庫内の燦燦と輝く照明を背景に、ジャーマングレーの巨大な戦闘機が威容を見せつける。後部座席に立ち上がるシルエットを見据えれば鋭利な輪郭が鮮明に網膜に焼き付いた。やや膨らんだ胸と尻、驚くほど華奢な体つき。
細い腕が持ち上がり、慣れた様子でヘルメットを持ち上げる。息継ぎをするように目を閉じながら、美しい顔立ちの女がそこに立っていた。
彼女はこちらを見る。長い砂色の金髪が汗で額にへばりつき、その隙間からエメラルドのように煌びやかで、無機質な緑色の瞳が男を見据えた。
「
気遣うようなその言葉に、名を呼ばれた機長——
「ミズカゼ」
それが彼女の名前。
女は頷き、よかった、と微笑んだ。
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