第二話
三機のゲンチョウが駐機されている格納庫に併設されたプリフライトルームに第二〇一飛行戦隊の隊員が集められた。出撃前に神室少佐が飛行計画を説明する壇上には、彼ともう一人の見知らぬ人物がおり、ミズカゼはそれがルーフェであると理解したが、何故だか要翠の反応が気になり、横目でそれとなく彼を観察した。
ミズカゼの隣で席についている翠は興味津々というわけではないが、瞬きもせずに新人を凝視している。歓迎しているというよりは何者であるかを見定めようとしているようだ。甘木丈二やヴェラス・ユーエは概ね好意的に新人の参画を受け止めており、ミズカゼ含めユキシロ、アダナミは予想だにしなかったルーフェの増員を喜んでいるようだ。この宇宙において三人しかいなかった同胞が四人に増えたのである、喜ばないはずがなかった。ミズカゼでさえ、既に新人の存在を受け入れ始めており、その感情を察してか新人は微笑む。
彼女はヒタキと名乗った。茶色い髪は空気を含んだようなボリュームを感じさせながら肩にかかるくらいで切り揃えられ、同じ色の瞳は丸く潤んでいる。顔立ちは中性的、やや女性寄りといったところで、美しかった。ミズカゼ、アダナミ、ユキシロもルーフェの例に漏れず美しい顔でデザインされているが、ヒタキのそれは三人とは一線を画した、いわば人間らしい美人というべきものだった。それが意味するところは測りかねるが、ミズカゼは経験上、人間がこのように高価な製品を手掛ける時にはあらゆる箇所に意味を持たせたがるものだと知っている。
「言うまでもないが、ヒタキは着任早々で右も左もわからん。要少尉、ミズカゼ、両名を当分の教練担当に命ずる。資料は後ほど送付するから、今後一週間分の教育計画を策定しわたしへ提出するように」
反射的にミズカゼは拒絶しそうになったが、軍属である自身の立場を思い出して言葉を飲み込んだ。自分でも驚くべきことに、今は要翠やエウーリアスについて思案を巡らせるのに頭がいっぱいだったから、厄介な仕事を引き受けたくはなかったのだ。そして残念なことにここは軍隊である。
了解、と声に出したのは翠だ。神室少佐は、何か言いたいことがあるのかとミズカゼをじろりと睨む。まあどうにかなるだろう、とミズカゼも声に出して返事をした。
「少佐、おれたちには何も仕事が無いので?」
「<ミズカゼ>ペア以外であっても、ヒタキより支援要請があれば応じること。判断に迷う場合はわたしに言え。また、要少尉が必要と判断すれば教育訓練への参加も考慮されるからそのつもりで」
何か質問はあるか、と神室少佐が問うたが反応が無かったため、ミーティングは解散となった。一先ずミズカゼは指示を仰ごうと翠を振り返るが、既に彼は席を立ちヒタキのほうへ歩き出していた。慌ててその背中を追う。
ヒタキのほうも翠に歩み寄っていた。互いに一メートルほどの距離になった時、ヒタキが立ち止まり敬礼。翠が答礼し、ミズカゼはその様子を横で眺める。
「あらためまして、ヒタキです。よろしくお願いします、要少尉」
「要翠少尉だ。こっちはミズカゼ、わかっているとは思うが君と同じルーフェだ」
「ミズカゼです」
翠からミズカゼに視線を移したヒタキはにこりと微笑み、そして小首を傾げた。何が彼女の気に障ったのかはわからないが、ミズカゼは自分の感情を持て余していることに気が付き、浅く呼吸を繰り返して気を落ち着けた。
二人の短いアイコンタクトに気付かず――あるいは気付いていても無視して――翠は出口を示す。既に三人以外のメンバーは帰り支度を始めており、甘木とアダナミに至っては相変わらずの口喧嘩をしながらもうハッチを潜っているところだった。ユキシロは意味深長な視線をこちらに投げてから背を向け、ユーエ少尉と共に去っていく。
神室少佐はプリフライトルームの隅にあるコーヒーメーカーで自分の分を淹れて、隅の席に座ってタブレットの画面に指を走らせていた。仕事をしている風を装っているが、ヒタキの第二〇一飛行戦隊との初対面を注意深く観察しているのは気配でわかる。ヒタキもそれを意識したのか、行儀よく翠の次の言葉を待っていたが、それは予想だにしないものだった。
「まず、見てほしいものがある。ついてこい、ミズカゼもだ」
足早に歩き出すので、ヒタキとミズカゼは並んで翠の背中を追う。有無を言わさぬ雰囲気の彼に従い通路に出た。
時折、通りすがる乗組員が会釈などをして挨拶してくる。彼らは愛想よくしていたが、ヒタキを見ると訝しむような顔になった。不信感というよりは、ヒタキが人間かルーフェかを見定めようとしているようだった。
そこでミズカゼは、ヒタキの容姿のコンセプトが理解できた。要するに、ルーフェでありながらそう認識されることを避ける、いうなれば擬装人間なのだ。
なぜそのような存在がこのタイミングで<サギリ>に送り込まれたのか。それは<サギリ>を監視するために違いない。意思探査任務に既に二年以上従事しているこの船は、航宙軍でも開拓艦隊でもない、エウーリアスにおける意思探査に特化した特殊技能を持った部隊となった。頼もしくもあるが、一方で特殊化の進んだ部隊というのは独立不帰の精神を有し、暴走する恐れもある。開拓委員会の上層部が<サギリ>の反乱という可能性に反応し、ヒタキを監視役として送り込んでくるのは、妥当ではないが納得できる仮説だ。
「どこに行くんですか?」
まるでピクニックに行くみたいな呑気な言葉だ。そう思い、これは翠の受け売りだ、と自嘲する。
翠はしばらく黙ったまま歩いていたが、エレベーターに乗ったところで話し始める。腕を組んで壁に背をつけ、音声で下部甲板を行き先指定した。
大きな音を立てて電動モーターが回りだす。
「ヒタキ、君は<サギリ>以外に、世界の何を知っている?」
「何を、と言いますと?」
微笑みながら問い返すヒタキを睨み、翠は厳しい口調で言う。
「最初の教練だ。おれが求めている答えを探って返そうとするのはやめろ。まあ、質問の意味としては少し曖昧過ぎたが。君は生まれてそのままこの船に来たのか?」
「ええと……直行ではないです。わたしは研究所で製造されましたが、教育は別の場所でした。たぶん、どこかの軌道施設だったと思います」
「自分がいた場所がわからないのか」
「施設は窓がありませんでしたから、もしかしたら地下だったかもしれません」
「ここにはどうやって来たんだ?」
「
「補給と共に来たということか」
通常の人員輸送も兼ねている<シマヅ>の補給便は、一カ月に一度の頻度でやってくる。人類の現在の技術では恒星間通信における超光速化は実現できていないため、輸送艦や専用の連絡船の記憶領域にまとめてストックさせ超光速航法で届ける方法が一般的だ。これは同時に人類の経済圏が複数の星系にまたがる広大な領域を有してはいても、実際には星系単位の活動が主体となっている主な理由で、同時にそれは星間国家が事実上の連邦制を採用することが多いことにも繋がっている。
これは開拓委員会が管轄する三つの星系においても例外ではなく、開拓艦隊においては各艦隊に専従する輸送艦がこの任を負っていた。成熟した星系であれば資源は製造設備の独自調達はある程度可能で、経済活動も行われていることから恒星間輸送は経済の必要性に応じたものが中心の貨物となるが、開拓途中の星系では産業基盤が皆無なために外部からの調達が主となる。自然、輸送艦の他星系との往来は頻繁なものとなる。特に輸送艦<シマヅ>は中型の輸送船だが速力に優れ、一部の貨客船と設計を共有しているほどだ。そのため、ヒタキを<サギリ>まで運ぶのに都合がよかったのだろう。
エレベーターが到着する。三人は揃って降りながら、ヒタキは翠の右隣を占めて質問する。もうミズカゼには、翠がどこへ向かい、何をするつもりなのかがわかった。
「わたしがどうやってこの船に来たのかが重要ですか?」
「いいや。君はシャトルで<サギリ>に来たということは、エウーリアスは見たことがないんだろ?」
「資料では見ました」
「肉眼で、という意味だ」
「ああ……そうですね、この眼では、まだ」
今ここで自分に与えられた任務は観察だ、とミズカゼは悟る。だがヒタキはルーフェであるから、ちょっとした感情の機微で気取られる可能性があった。着任したばかりの航宙艦でこのような対応をされていると知れば、まだ生まれたばかりでナイーブな感性を持つヒタキには悪影響だろう。
そのため、ミズカゼは慎重に感情を隠しながら、それとない様子でヒタキの僅かに見える横顔をそれとなくうかがった。彼女はまだ翠の意図に気付いておらず、自分のペースで問いかけてくる翠に戸惑っているようだ。
突然、ミズカゼは目の前の茶色い髪が長く伸び、砂色に変わっていくのを目にした。ヒタキはミズカゼより背が高かったが、するりとその体格が小さなものになる。驚きのあまり息を止めて見つめていると、ヒタキが微笑みながら翠に語りかけているが、翠のほうは硬い表情をしていた。柔和な面差しは自分とそっくりで、そのままどこまでも続く草原に生える青草を踏みしめていき――
「ミズカゼ」
我に返る。五メートルほど先で、翠とヒタキがこちらを振り返っていた。どうやら立ち止まっていたらしく、ゲンチョウの機上にある時の癖で状況確認のため左右と後方に視線を巡らせた。
何の変哲もない<サギリ>の通路だ。味気ない塗装、頭上を血管のように這いまわるケーブルとダクト。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。少し眩暈がしたみたい」
ヒタキが心配そうにこちらを見る。ミズカゼは歩き出して二人に追いついた。翠の視線は厳しいというより、何かを探るようなものだった。不信というよりは心配しているのが感じられる。手を振って先を促し、また三人は歩き出した。
やがてハッチに突き当たる。翠が先頭に立って潜って中に入っていく。
ヒタキは目の前の光景に立ち止まり、深く息をのんだ。
そこは展望室だった。よく、ミズカゼも息抜きに訪れる場所だ。最近は翠がここへ足を運ぶことがあるので意識的に避けている。
注意深くヒタキの感情の変化を感じ取ろうとミズカゼは意識を集中した。彼女の胸中には大きな感動と興奮が渦巻いているが、すぐに少しの不安が鎌首をもたげ、恐怖を感じていた。助けを求めるように、展望室の奥、エウーリアスを背景にこちらを振り返っている翠へ歩み寄っていく。そのまま翠の隣を行き過ぎて、透過壁の向こう側にあるエウーリアスに見入った。いや、見入られたのかもしれない。眼を皿のように丸くして、彼女は何かを探している。
「わたしは――これが、エウーリアス?」
「そうだ。お前がこれから対峙していくものだ。怖気づいたか?」
「いいえ。ですが、星とは……これほどまでに巨大で、雄大なものなのですね」
「まあな」
少しぶっきらぼうな翠の回答が癇に障ったらしく、ヒタキは彼を振り返る。星の光に照らし出された二人からは、ヒタキは星を背負う異星人のようだ。
異なる次元の代弁者。そんな印象を抱きながら、おかしなものだ、自分だってルーフェなのに、とミズカゼは不思議に思う。後で内省しておこうと携帯端末を取り出してメモを取っていると、翠が組んでいた腕を解いてヒタキに近付いた。
「君の技能について確認をしたい。ゲンチョウの操縦は可能か?」
「可能です。もっとも、経験を積んだあなた方のように戦闘で使い物になるかどうかはわかりませんが」
「わからない、とはどういう意味だ? 役に立つのか、立たないのか」
「熟練者と同じパフォーマンスを発揮することはできない、と言いたいだけです。そちらのミズカゼが着任した時と同等の能力を発揮できるとお約束します」
「矛盾しているな。わからないと言っていたのに、そこは保証するのか。その自信はどこからくるものだ?」
「わたしの育った場所で、そういわれました。ミズカゼと同水準だと」
「確かに、そういわれたんだな?」
「正確には、言われたというより聞こえたというのが正しいです。皆さん、わたしがそこにいないかのように話していましたから」
「わかった。今日は着任初日だがひとつだけ指示を出す。エウーリアスを肉眼で観察した感想をレポートにまとめろ。二〇〇〇時までにおれに送信しておけ。居室へはミズカゼが案内する。質問は?」
「ありません」
「よし。では解散」
ミズカゼとヒタキが敬礼する。翠は軽く答礼して足早に展望室を去った。
ハッチが閉まるのを確認してから、ミズカゼはヒタキへ歩み寄る。彼女は同類のミズカゼだけが場に残ったためか緊張を緩め、微笑みかけてきた。
「ずっと、わたしを観察してましたね」
「悪く思わないで。ルーフェであるかどうかに関わらず、新しい仲間がどんな人物なのかを探るのは必要なことなの」
「同じルーフェ、なのに?」
「ルーフェだから、こそよ」
そのような言葉が自分の口を突いて出たことに驚きながら、ミズカゼは何とか感情を押し殺してヒタキを外へ招きだした。彼女は何も言わずに、ミズカゼの薄い肩と並んで歩く。
「何にしても、これからどうぞよろしく」
微笑みの裏にある親しみを見透かして、ミズカゼはただ頷きだけを返した。
*
「ヒタキは使えそうか?」
「正直なところを述べても?」
もちろんだ、と神室応助少佐は頷く。ちらりと横目で那須大智大佐をうかがい、彼も鷹揚に頷いた。
<サギリ>の艦長室である。要翠少尉は着任したばかりの新人ルーフェがしたためたレポートを基に自らの所感を盛り込んでの報告書を作成し、神室少佐に送信した。
もうシャワーを浴びて寝ようかと考えて席を立った矢先、すぐに少佐からは出頭命令が下る。那須大佐を含め、今後の方針策定のためにも口頭で報告させ、根掘り葉掘りを聞こうという意図だ。命令を受領した時から理解していたが、いつ寝れるかわからなくなったのは残念だ。肉体というよりは気疲れで重くなった体を引きずり、今に至る。
艦長室は狭くもなければ広くもないが、この船の中で最も贅沢に空間を利用しているのは事実だ。柔らかなソファ、壁面のコーヒーサーバーなど、執務机を囲むようにいくつもの調度品が置かれているがどれも実用一辺倒だ。那須大佐が過度に見栄を張る性格ではなく実直で優秀な航宙軍大佐であるというのが乗組員にとっての共通認識だが、逆に言えば艦長として平凡な人間であるともいえる。
それでも、複雑怪奇な意思探査任務を遂行する上で母艦の艦長に文句のひとつも言わずにやってこれたのは、やはりこの人物の手腕による所が大きいのだろう。意思探査は前代未聞であるからこそ、教訓から学び実力を養う軍組織にとっては不向きな任務だ。平凡に何かをこなすということは即ち何事かに適応する能力が高いからで、那須大佐には<サギリ>を運用するだけの素養がある。
意思探査任務の専門家と呼べるのは六人の戦隊員と、神室少佐だけだ。那須大佐は実務として、神室少佐の要請に応じ<サギリ>を運用しているに過ぎない。だがそれこそが困難な職務であるのだ、と翠は気が付いた。神室応助が自由裁量で意思探査任務を続行することにこそ意味があり、そのために艦長としてバックアップを行うことが彼の責務であるなら、立派に務めを果たしている。
「ヒタキは、製造された施設ではミズカゼと同水準という評価を与えられていましたが、現状の意思探査任務には耐えないでしょう。少なくともミズカゼのように順調にはいかないというのが私見です」
「理由は」
那須大佐が問いながら手元の端末に目を走らせている。そこには翠の報告書が表示されているのだろう。神室少佐も同じらしく、何も言わずに翠の回答を待っている。
「彼女らの着任タイミングは大きく隔たっているばかりか、エウーリアスそのものの状況がまるで異なります」
頭の中に整理し用意していた所感を述べる。報告書に先ほど書き付けた内容でもあるから諳んじることは簡単だ。
「二年半前から、我々はボトムアップでエウーリアスにおける意思探査任務を遂行してきました。そもそもエウーリアスの空を飛ぶことは安全なのかを確認するところから、です。今日、三機のゲンチョウが神室少佐の飛行計画に従い任務を遂行する能力を得ているのは、手探りで積み上げてきた経験則からなるエウーリアス世界観を持っているからだと考えます」
「翻ってヒタキにはエウーリアス世界観どころか、人間社会の理解すらも不足している。今後の経験からヒタキがエウーリアス世界観を構築したとしても、それはミズカゼと同様の水準に至る保証はない」
話が早くて助かる、これは思っていたよりも睡眠時間を確保できそうだという意味を込めて翠は頷いた。
「お二人には釈迦に説法でしょうが、世界観の違いは刹那的な判断が生命を左右する意思探査任務においては如実な差になって表れます。要するに想定外の事態に陥りやすいということです。最悪の場合、ヒタキは攻撃を受けたらエウーリアスに不時着すればいいとすら考えているのかもしれない」
「確認だが、ヒタキがそう言ったのか?」
「いいえ、物の例えです。しかし的外れとも言い難いでしょう。まだ、ヒタキはエウーリアスに知性が、意思が宿っているとは認識していない——いえ、できていない節がある。今の彼女とこの空を飛ぶのは、小官はごめん被りたいですね」
上官二名が顔を合わせ、明日も同様の形式で構わないので報告書を寄越すようにとだけ言い含めて那須大佐が手を振り、退出を促した。翠は敬礼して踵を返し、今日は高いびきで寝れそうだと自室へ引き返した。
そうして寝台に横になり目を閉じた十五分後にブザーが鳴る。こんな夜更けに誰が来たのか、甘木の奴なら殴ってやるといきり立ってハッチを開くと、そこには神室少佐が艦長室で相対した時と同じ無表情で立っていた。
突然の訪問に何も言えずに突っ立っていると、神室少佐は狭いハッチから身を滑り込ませて中に入った。こぎれいにされた室内を横断して寝台の前に立つと、腕を組んで仁王立ちする。敬礼も答礼もなしだ。
神室少佐がここまで芝居がかったことをするということは、ただの連絡ではない、こちらに意識を向けさせるだけの重大な報せを持ってきたのだと翠はすぐに勘付き、身構えた。そう考えれば眠りを妨げられて湧き上がった怒りや戸惑いも消え、後はただ潔く言葉を待とうという骨身に染みた軍人根性だけが残った。
何も言わず、飲み物も勧めないまま黙して立っている翠を一頻り凝視した後、神室少佐は徐に口を開く。
「わかっているだろうが、先ほどの話の続きだ。正直に言って、わたしはこの情報をお前に伝えることは反対したのだが、那須艦長の命とあれば仕方あるまい」
手元のタブレット端末を操作してある画像を表示すると、テーブルの上に滑らせた。翠は一瞥して息をのむ。
それはヒタキを捉えた写真だった。白い衣服を身にまとい、清潔そうな密閉された部屋の中で椅子に座っている彼女は、今日、顔を合わせて言葉を交わした時とは別人のように無表情だ。
髪や目の色、顔立ちが同一人物であるのは確かだが、感情というものが全く読み取れない面差しはまるで双子の姉妹なのではないかと思えるほどである。ミズカゼもほとんど感情を顔に出さない
柔らかい肌や流れるような髪を持っていてもここまで機械然としていられるものなのか、と衝撃を受ける。人間であれば、ここまで感情を殺し表情を変えないことなど不可能だ。
ヒタキを見れば見るほど、ミズカゼの顔が思い起こされる。以前まで彼女はころころと表情を変えることはなかったが、機微を感じ取れるほどには感情表現をしていたのだ。このヒタキに比べれば快活とさえいえるほどに。
「これはヒタキが製造された直後の画像だ」
神室少佐の声からは、胸の内に渦巻いているであろう心情を何も読み取ることができない。そして彼がそれらに対して、胸の中でどのように片を付けたのかも。人間である限りはこの問題を考えず、また、衝撃を受けずにはいられない。
「兵器というものは、開発理念と運用実態が必ずしも一致するものではない。ヒタキもその例に漏れなかったようだ。製造時には可能な限り意思探査任務に有利となるように共感能力を削がれた脳構造とされたが、初等教育では逆に感情への理解を求められた。<サギリ>におけるルーフェの運用経験からカリキュラムだけが改良されたのだ。結果、拙い状態ではあるが感情を得、発露させる段階には至っている」
「しかし人間と同等の感情を持て余す傾向がある?」
「持て余すというより、本質的に理解できていない。彼女が他人と同一のものだと信じている心は、人間やルーフェが持つそれとは限りなく近しい類似品に過ぎない。二十一世紀初頭から勃興した人工知能技術と同じで、何かを学習し模倣する能力はあるが意味を理解できないんだ」
話の先が見えてきた。つまりヒタキと接するにあたり彼女の不安定な情緒と感情が本物であると錯覚させつつ、今のようにあやふやなものではない、ヒタキ本人の本心を発露させなければならないということだ。本来であれば不適格なルーフェとして送還までを考えるべきだが、軍隊としての体裁を持つ以上は与えられた人材で任務に当たるしかない。ましてやここはエウーリアスだ。最悪の場合、ヒタキがエウーリアスに共感してしまう可能性も無きにしも非ずであり、そうなれば史上初のエウーリアスにおける反乱となる。
危険性を承知の上で、ヒタキを一端のルーフェとして教育しなければならない、それが翠に課せられた任務なのだった。第二〇一飛行戦隊に余剰人員はいない、ヒタキでさえも理想的な成長を見せるのであれば頼もしい仲間になるのは間違いなかろうが、実現するには途方もない努力が必要だ。
そんなことは心理カウンセリングの領域だと翠は思う。人間だって、自分自身の感情を持て余したり理解しきれない部分があるというのに、ヒタキの心を掌握してあまつさえ操作するなど不可能に近い。
翠の考えをすぐに見抜いた、あるいは予期していた神室少佐は労わるでも発破をかけるでもなく、静かに眼を見据えて言った。
「彼女の問題は時間が解決するだろうが、はっきり言ってわたしが心配しているのはお前とミズカゼだ」
思いがけない一言に翠が何も言えずにいると、神室少佐は狭い部屋の中でテーブルの下に固定されていた椅子を引っ張り出し、背もたれの上に尻を乗せた。
「正直に答えろ、少尉。お前とミズカゼの間に何があった?」
「報告書に書いた通りです、少佐。おれとミズカゼは、違う。それがわかった」
「ただ違うだけならば何の問題もないはずだ、わたしとお前のように。だがお前は、何がミズカゼと違うと感じた。人間とルーフェの差異か、家族か、夢か、能力か?」
神室少佐が来訪した時は驚きで言葉が出なかったが、今度は自分の中に答えが無く返答に窮した。
いつからミズカゼと折り合わなくなったのかを応えるのは容易い。前回の意思探査任務で<サギリ>艦内を探索し、翠が給仕用の電動カートを銃撃した時からだ。たとえ相手を害する行動を取っていたとしてもその能力がない相手に対し、念のためと暴力を振るい破壊する翠の行動を、ミズカゼは否定した。
人間とルーフェは異なる知性体だ。その違いが垣間見えた出来事ではあったが、頭の片隅でもう一人の自分の声が、それだけではないだろうと囁く。
わかっている、そんなことは。しかしそれを認めてしまっては、おれは軍人でも、要翠でもなくなってしまうだろう。このエウーリアスで自分を見失ったものは食われるだけだ。
「おれは……自分に失望したんだと思う。ミズカゼは今まで何かを否定したことはなかった。おれが電動カートを撃った時、おれは彼女が初めて否定した概念になった」
しどろもどろの回答は独白に近かった。翠は、神室少佐から叱責が飛ぶと思い彼の言葉を待った。
だが予想を裏切り、神室少佐は少し考えた後で、静かに言った。
「お前がそう感じるのは、心からミズカゼを信頼しているからだろう。だがその逆もまた然りだ」
「どういうことです?」
「言葉も使わずに相手の感情を知ろうとするなど、お前はルーフェにでもなったつもりか? お前は何者なのだ、要翠。何のためにここに存在し、何を為すために汗を流す? それをよく考えることだ。考え続けろ。我々のような無能な葦には、それくらいしか許されていないのだから」
神室少佐は椅子から立ち上がり、部屋を出ていった。
取り残された暗い室内で、翠はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて思い出したようにラップトップコンソールを開き、ヒタキが書いたレポートを何度も何度も読み直した。
今なら、別の視点で彼女を見ることができる気がしたのだ。
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