第三話
「電源接続。
「温度は」
「許容範囲内、問題ありません」
「ではシステム
「誤作動防止のため、テストモードのプライオリティが実践モードより低く設定されているためです。つまり、<サギリ>の格納庫内でエンジンを始動させ、一酸化炭素中毒による窒息死などの事故を防止する意味があります」
「よろしい、始めろ」
「
<ミズカゼ>の後部座席に腰を下ろしているヒタキが、正面を覆っているMPDの下から引き出しているコンソールを打鍵する。ミズカゼは優れた動体視力で流れるような指裁きがしっかりテスト用コードの文字列をなぞっているのを確認し、耳をそばだててエンジンブレードが回転しないことを確かめた。
格納庫内、駐機されているゲンチョウは巨大な航空機であるため、地上から四メートル近い位置にコックピットがある。ヒンジが後方に据えられたタンデム構造のコックピットは本来、足場など存在しないが、機長である要翠少尉と共にミズカゼは整備班に頼んで設えた足場の上に座っている。ヒタキを挟んで右側にミズカゼ、左側に翠がいて、大型とはいえ狭いコックピットで窮屈そうにしているヒタキの教練を行っていた。
教練は三段階に分けた。まず艦内に用意されている簡易的なシミュレーターでヒタキ自身の報告通り、基礎的な知識と技術を身に着けていることを確認すると、翠はまず<ミズカゼ>が経験した任務の中からいくつかをピックアップし体験させた。エウーリアスの空ではルーフェのみが感じることのできる敵意こそが重要な戦術情報となるがシミュレーターではそこまでの再現ができない。そのためか、ヒタキは想像力を働かせながらも納得できないまま教練を進める。言うまでもなく、実際に肌で感じる任務の空気感と彼女が短い生涯で学んできた出来事はまるで異なり、前者を理解するには実地で経験を積むしかないのだと理解させることが目的だった。
第一段階は最初からあるハードルを越えなければならなかった。知識と経験は別物だと自分で気付くことが訓練の目的として肝要だが、ルーフェであるヒタキは翠の感情を読み取って何を期待されているかを推察してしまう可能性があった。
意外にも助け舟を出してきたのはミズカゼだった。彼女は彼女でヒタキの内面を注意深く観察しており、気になる点があれば文面か口頭での報告を行った。それらを取りまとめるのは翠の役目で、ぎこちない空気感が残りながらも息の合った作業を行えている。彼女の中では翠に対しての折り合いはついているらしい。それもそうだ、この自分は敵ではないのだから、と翠は冷たく自分自身に言い聞かせた。ミズカゼが翠に失望しようとしまいと、開拓艦隊という枠組みの中で与えられた戦闘機パイロットの役職、立場、そして責任からは逃れることができない。
少し前まで、ミズカゼは翠にとって<サギリ>において最も親しい相手の一人だったが、今やそうではなくなった。彼女は最高の相棒だが、最高の友人たりえなかった。どちらに非があるかという議論は意味を為さない。あるのは違いだけなのだから。
そうした彼女とのやり取りを経て、翠は人類の中で最もルーフェという知性に精通した人物の一人となっていた。だから彼女たちの世界観について朧げながらイメージを描くことができる。
ルーフェは実感として得るエウーリアスの意思情報は人間が想像するより遥かに生々しいものだ。翠にとって気にすべき点としては、やはりヒタキは翠に取り入ろうと色の良い回答をしようと随所で試みていることだった。実戦において機長席に座る誰かの機嫌を取っている暇などない。本質的にエウーリアスの空を飛ぶことの恐怖を知らないヒタキを後部座席に乗せるのは、甘木、ユーエらも御免被るだろう。翠にしても、今のヒタキを後ろに乗せる気は毛頭なかった。ではどうすれば信用するに足る相棒へ成長させられるのか、それを考えるのが翠の任務でもある。
コックピットに乗せて実機を動かすのはそのような背景があってのことで、要するにシミュレーターの揺れる座席に腰を落ち着けるよりも、狭苦しく機器の動作音までが鼓膜を打つグラスコックピット内で操縦桿を握るほうが感覚的な情報量が桁違いに多いからだ。座学で、「戦場は恐ろしいものだ」と伝授したところでヒタキは行儀よく頷き、少し想像を巡らせるだけだ。<ミズカゼ>の後部座席には、ミズカゼの汗や電子機器、はたまた格納庫内の熱気までもが伝わってくる。本当はパイロットスーツまで着させたかったが、時期尚早と神室少佐が釘を刺していた。間違ってもヒタキを離陸可能な状況に置きたくないということだと翠は理解し、同意を示して今に至る。
ヒタキが操作するディスプレイの表示が無事にテストモードへ移行し、エンジン出力、残燃料など各種諸元がアイドリング状態になったのを確認すると、翠はミズカゼにアイコンタクトを送った。彼女も頷き返し、二人はキャノピの縁から体を離してラダーを降りた。格納庫の床に足をつけて見上げるとハーネスを緩めてこちらを見下ろしているヒタキと目が合う。目視で翠とミズカゼが<ミズカゼ>から離れたことを確認した彼女は、慣れたというよりは機械的な手付きでボタンを操作し、キャノピを下ろす。
<サギリ>の中枢システムと接続されている電源ケーブルの元を辿り、整備員たちがよく使う床面パネルへ歩み寄る。蓋を開けてスイッチを押すと四角柱がせり上がってきた。機体左翼側にあるここからは全体を見回すことができるため、整備用に用意された外部接続端末のひとつだ。巨大な怪鳥の中に一人残された彼女へと声をかけるべくヘッドセットのイヤホンジャックを四角柱の天面にあるパネルへ差し込む。ミズカゼがするりと割り込んできて自分の分のイヤホンジャックを突き刺す。彼女がこちらを見そうな気配がしたのでそれとなくキャノピを見上げて目を逸らした。
「ヒタキ、聞こえるか」
「良好です、少尉」
「おれのことは機長と呼べと言いたいが、君はまだどの機体の担当でもないから関係ないか。どうだ、コックピットの中は」
「とても静かです。驚きました、格納庫内の騒音レベルはかなり高いはずなのに、自分の心臓の音すら鼓膜に響く……」
すぐ横で、エンジンテストのために<ユキシロ>がランディングパッドの上に載せられたまま滑り出てくる。黄色い警告灯が格納庫内を舐めまわし、けたたましいサイレンが断続的に鳴り響いている中での感想はかなり説得力があった。
「ゲンチョウは任務の性質上、高高空での飛行が主になる。加圧服だけでなくキャノピ内部の気密性も重視されているから、民間航空機と比較しても静粛性には優れるだろう」
「今はテストモードですが、実際にエンジンを始動すればまた違うのでしょうか?」
「多少は変わるが、
「一度、感覚剥奪試験のために無音室へ入ったことがあります。あの時とは違う、奇妙な感覚です。わたし自身がゲンチョウになったみたい」
淡々と報告を続けるヒタキの感想は少し上ずっていて、生まれて初めて触れた巨大な戦闘機械に対する畏怖とその翼で空を切る感覚を想起している高揚感が伝わってくる。
幼少期から空を飛ぶという夢を抱いて航空機と関わる人生を選択した翠にとっては、戦闘機とは飛行機でしかない。民間用も軍事用も関係なく、航空機という巨大な概念の中にある傍流のひとつで、ただ用途が異なるものだ。
だがルーフェにとってはそうではない。ルーフェにとって航空機とは、意思探査任務のために用いられる機械の総称だ。自身の感覚とリンクし、自在にそのすべてを操ることができる第二の肉体で、この空を飛ぶのだ。さながら鳥を見上げるように、翠はルーフェという存在が如何に人間の常識から外れた存在であるのかを思った。隣に立つミズカゼやユキシロ、アダナミは同じ言葉と生活を営むというだけの、異質な知性なのだ。創造主は人間かもしれないが、彼女たちの持つ可能性は到底、人間の手で制御し得るものではない。
段々と落ち着いてきたのか、ヒタキが感想を述べる声色が静かになってきた。翠は相槌を打ちながら、手元で端末を開いてメモを取る。ミズカゼはゲンチョウと翠とを交互に見やり、二人の感情の機微を追いかけている。
そしていくら興奮しているとはいえ感想もそろそろ尽きるかと思い始めた矢先、ヒタキが沈黙した。
「ヒタキ、どうした」
翠は状況が変わり始めたことを察知し、うなじのあたりの産毛が逆立つのを自覚した。決して目覚ましいものではない理由は、ヒタキの内面にこそ変化の大半が巻き起こっていたからだ。
先んじて行動を起こしたミズカゼがヘッドセットを放り出して駆けだす。砂金を流したような金髪が視界の端から風となってラダーを駆け上がっていくのと同時に、翠はマイクに向かって呼びかけている。
「ヒタキ、応答しろ。何があった。ヒタキ」
「わ、わたしは」
「お前は、なんだ。何を見ている。何を聞いている。答えろ」
「少尉、わたしは――み、みずかぜと一緒になったみたい。これがわたしの、羽根になるの?」
鈍い音を立てて静寂が満ちた。回線が切断されたのだと直感し、ヘッドセットを放り投げて機体へ駆け寄る。
「機長、来てください」
既に緊急用のボタンを叩いてキャノピを強制開放していたミズカゼが機上から手招く。機体の奥にあるもうひとつのラダーを使うのもむずがゆく、ミズカゼが使用したそれに飛び乗った。彼女はひらりと身を翻して反対側へと身を避ける。
ラダーを上り切り、絶句した。眼にしているものが信じられずミズカゼの顔を見やるが、彼女も首を振る。
後部座席の上には、何もなかった。ヒタキの意思さえも。
*
歩き回った挙句に格納庫へと戻ってきてしまい、ミズカゼは少し躊躇した末に足を踏み入れた。彼女の姿を見た入口の保安員はホルスターに差した拳銃の銃把に手をかけたが、すぐに誰であるかを見て取り警戒を解く。
自身に向けられる敵意は不快なイメージを伴いミズカゼを責め立てたが、嘘のように霧散した。<サギリ>での人間との接触から、感情が個人の世界観から隆起する脈絡のない概念なのだと学びを得ていたミズカゼではあるが、ヒタキを救えなかったという自責の念があらゆる感情に対してナイーブな色を帯びてしまっているのを自覚して溜息をつく。
機体の周辺は神室応助少佐のチームによる一次調査を終えて開放されていた。現場保存などという考え方が無意味だと神室少佐はよく理解しているはずだが、そうできなかったのは事態対応手順が定められていたが故だ。ヒタキの失踪が物理的なものではなく、恐らくはエウーリアスの意思による干渉であると結論付けられてから、<サギリ>の警戒態勢は解除されつつある。戦闘機のコックピットに座る何者かを消滅させられる相手に対し、最新鋭の自動小銃が何の役に立つのか。
<ミズカゼ>の巨大な主翼の下までやってきて、照明を背に黒い影となっているキャノピを見上げる。先に到着していたのだろう、二人のルーフェが同じ翼の下に立っていた。
まだヒタキがここにいたのならば、ここにもうひとつの影ができていたのだろうかと感傷的になってしまう。微妙な感情の変化は二人のルーフェにも通じたようだ。
「やっぱり、ここへ来てしまうわ」
振り返りもせずにアダナミが言う。ユキシロからは特に否定の感情は伝わってこない。彼女も同じように、ヒタキの残り香ともいうべき気配を辿る内に足先がここへ向いたのだろう。短い期間だったが、彼女の存在を感じ取れるほどに親しみを感じていたのだろうかとミズカゼは思う。
「ヒタキは」しばらく呆けたように機体を見上げていると、おもむろにユキシロが口を開く。「本当にルーフェだったのかしら」
「どういう意味? 少なくとも人間ではなかったように思うけど」
「唯物論じゃなくて観念論的な話。要するに第三者から見て、彼女は何者であったのかということ。彼女はルーフェよりも人間に興味があるみたいだった。彼らの思考を理解して、人間社会の中で生きていくために必要な常識を学ぼうとしてた。それは果たして、ルーフェとして正しい存在の仕方だったといえるの」
当然、とアダナミは自信たっぷりに頷いた。
「ルーフェとして生まれた限りは、それは避けられないものじゃない。わたしも、ミズカゼも、例えば素っ裸のまま人込みを歩くわけにはいかない。体温の保存や皮膚表面の保護を目的とするなら、もっと効率的な衣類が存在するはず。わたしたちの感性は現状を受け入れているし、違和感なんてない」
「じゃあ、あなたは自分の人格が人間の手垢のついたものではないと言い切れるの? わたしが言いたいのは、ヒタキは人間が望むようにしか生きていなかったということよ。物事の存在意義は与えられるものばかりではない。自分自身に納得がいくかどうか、それは自分で見つけるしかないじゃない」
何も言い返せないでいるアダナミからは憤りが伝わってくる。怒ってはいるが頭ではユキシロの正しさを理解しているのだ。そしてヒタキの存在を過去形として扱っていることを否定しない。
確かにヒタキは、訓練であっても上官である翠に取り入ろうとすることが幾度かあった。問いかけに対しては、正確に回答しようというよりもどうしても翠の思考を先回りして彼の望む答えを提示しようとしていた。彼女自身は気付いていないようだったが、その時のヒタキは恐怖を抱いて人間と接していたのをミズカゼは報告している。
ルーフェは被造物だ。それは動かしようのない事実であり、ヒタキの精神の奥深くに根を下ろしているトラウマのようなものだったのかもしれない。人間に否定されれば、彼女がこの宇宙に存在している道理が消え失せてしまう。
人間と共に生活するのだから、人間に気に入られるというのは生存戦略としては正しい。だがルーフェとして考えればどうか。人間からルーフェに対する価値観を蔑ろにする行為には他ならない。ユキシロは際立って人間に取り入ろうとするヒタキを敵視していた部分があるのだろう。何しろ、ミズカゼに対してさえそうなのだ。
ここで言葉を交わしている三人のルーフェは、三年に近い歳月を<サギリ>で過ごしてきた。閉鎖的な環境ではあるが、乗組員はそれぞれ数十年というルーフェとは比べ物にならない時間を生きてきた人間たちで、彼女たちの持つ世界観に多大な影響を及ぼした。人間がいたからこそわたしたちは世界を広げることができたし、この宇宙の大きさに対する自分の小ささを自覚できた。広がった視野で世界を見回せば新しい意味が見えてくる、人生の意味さえも。ヒタキには、同じ境地に至るまでに必要な時間が足りなかったのだ。
ふと、この場の誰もヒタキの身を案じてはいないのだとミズカゼは気付き、また自己嫌悪が鎌首をもたげる。ユキシロはルーフェのなりそこないがエウーリアスに食われただけだと思っているし、アダナミは憤慨している様子だが、それはユキシロの態度が気に入らないからだ。この自分にしても、ヒタキを心配しているというより、ひとつの知性が消失した出来事に対して責任を感じているに過ぎない。ヒタキを心配しているなら、いてもたってもいられずにもっと艦内を走り回っていてもいいはずだが、最終的にここえ辿り着いたわたしたちは、既にヒタキの死を悼んでいる、諦念と共に。
実際、多くの人間たちは未だに消えたヒタキを探して<サギリ>艦内を右往左往しているが、それも任務であるからに過ぎない。ヒタキを愛し、彼女を心から思う何者かが、この船には、宇宙には存在しない。それこそヒタキの恐れていたことなのかもしれないが、もはや確かめる術はなかった。
寂しいことだとは思うが、やはりミズカゼの中でそれ以上の感情が湧き上がることはなかった。わたしはこんなにも血も涙もない女なのだろうか、と考えても答えは出ない。何か、頭の中に綿が詰まっているような苦しさが思考を覆い隠してしまう。
「あら、翠。どうしたの、そんな恰好で?」
アダナミの声に振り返ると、いつの間にか近くまでやってきていた要翠と目が合った。頷いて挨拶をすると、彼は軽く手を振って応える。
翠はこじんまりとした背嚢を背負っていた。身に着けているのは体温調節機能のある身体保護インナーと、その上に身に着けた作業服だ。整備班から拝借したらしいそれは、少し前の<サギリ>艦内における意思探査任務を想起させる。というよりも武装していないこと以外はほとんど変わらない出で立ちといってよかった。
「整備区画にヒタキを探しに行く」
「正気なの?」
頭がおかしくなったという意味ではなく、ヒタキ一人のためにそこまでするのか、という意味合いでユキシロが問うた。
当然だ、と翠は答えて<ミズカゼ>に近付く。そしてミズカゼの隣に立ってキャノピを見上げた。その胸中に渦巻く感情は複雑なものだった。親しみとも怒りとも取れないものでミズカゼの混乱をよそに彼はぶっきらぼうに、言った。
「ミズカゼ、ヒタキの行き先に心当たりはあるか」
「ありません」
「お前はなぜここにいる?」
「彼女の意思を辿ってきただけです。ここにヒタキの意思を感じるのかという質問でしたら、答えはノーです」
そうか、と言い残して翠は歩み去った。意思探査任務の時より軽装とはいえ、十キロを超える荷物を背負って移動するのは骨が折れる。
ミズカゼを連れていくこともなく、のそのそと歩み去る彼を見送り、ユキシロが顔をしかめた。
「理解不能だわ。<サギリ>艦内にいるとは限らないのよ。生きている保証だってないのに、翠はヒタキを諦めていない」
「教練担当だからじゃないの? 自分の責任を感じているんじゃないかしら」
「あなたも翠を感じたでしょう。彼がヒタキに固執するのは罪悪感からじゃない。ミズカゼは何かわからないの」
なぜ翠のこととなると自分がやり玉に挙げられるのか。怒りと共にミズカゼは頭を振り、格納庫を後にした。
結局は、ヒタキの存在は彼女の怒りよりも矮小なものでしかなかった。
*
ふとした拍子に考えさせられる。ヒタキが失踪したことは、おれにとって十字架になりえるのだろうか、と。
「お前に責任があるかどうかは、わたしが判断する。だが私見を述べれば、人類にとって既知の思考回路を有さない知性を相手取った時に、お前に過失があるとは到底思えない」
神室応助は機械的に、事務的に、そして僅かな気遣いを込めてそう言った。それは事実だろうと納得できるものだが、どういうわけか<サギリ>艦内を探し回った挙句、背嚢まで担いで整備区画まで再び出向くこととなった。
感情的な行動ではなく、しっかりとした理由はある。<サギリ>の整備区画は過去にエウーリアスの意思が介入し電動カートを操作したことがあり、ほとんど唯一の艦内における干渉例があった。より深い区画である格納庫で事件が起きたとはいえ、今は少しでも可能性のある場所を絞り込み探すのが合理的と思えた。
ミズカゼは置いてきた。ルーフェの三人は、ヒタキに対して情を抱いてはいない、人間である要翠にもそれとわかるほどの無関心さだった。
実際の行動としては、捜索の要請があれば参加するし、人並みにヒタキの動向を知りたいと思いこそすれ、自発的に何か行動を起こすまでに至らない。甘木丈二やヴェラス・ユーエでさえ、第二〇一飛行戦隊で初の戦死とも取られかねない異様な事態――実際は行方不明だが、エウーリアスでの戦闘で死体が残るほうがありえないだろう――に動揺し、ヒタキの身を案じていた。少なくとも翠にはそう見えた。
だとしても、翠はルーフェを薄情とは思わなかった。人間は互いの感情を直に読み取ることはできないから、大体は言葉、仕草、ニュアンスで感情を伝達する。それはどこまでいっても確かめようのない不確実な事実でしかない。だがルーフェにとっては、言葉の裏に隠された心の機微を鋭敏に感受する。言葉や仕草は必要ない。ルーフェにとって本当の無関心とは、相手を排斥することだ。アダナミ、ユキシロ、そしてミズカゼは、これ以上ヒタキを捜索したところで望みは薄いと冷静に判断しているからこそ、余計な感情を抱かず、何の行動も起こさない。
まるで機械じゃないか、そう考えかけて頭を振る。ルーフェは、決して機械ではない。人間による遺伝子操作で
どれほどかけ離れた存在であろうと、共存と理解の道を諦めてはいけない、諦めたくないという往生際の悪さが人間が誇ることのできる知性というものではないか。
居住区画から整備区画へ通ずるエアロックの中に一人で踏み込む。前回と同じ3Bと銘打たれた小さな箱の中に入り、照明が赤く点灯する。そして元の白色に戻り、待つほどもなく正面のハッチが開いた。
エアロックを潜れば、やはり翠は一人だった。正面と左右に走る整備区画の無機質な通路は無人で、煌々と照らされてはいるが影を作るものが無い。若干、遠近感が狂いながらも翠は手に持った携帯端末の表示に従い、前回の意思探査任務で電動カートと遭遇したポイントへ向け歩を進めた。
<サギリ>は仮装航空巡洋艦という特殊な艦級でありながら高い完成度を誇る。実際に整備区画を歩いている翠にはそれがわかった。航宙艦にとって大気圏内飛行を行うということは、海に浮かぶ船舶が航空機と同じ速度で水中を進むようなものだ、と赴任前のブリーフィングで言われたのを思い出す。惑星上とは比べ物にならない速度で移動する航宙艦にとって、人が生存するのも困難な上層大気でさえも密度が高すぎるのだ。
船体構造のバイタルパートに位置している居住区画や格納庫はまだしも、整備区画でこれほど設備が整い、気密や温度など人間の活動に必要な要素が担保されているのは驚異的と言わざるを得ない。精密機器に至るまで、信頼性と生産性を両立することが高度技術文明の証だ。<サギリ>は現代科学技術の結晶と呼ぶに相応しい船だ、と翠はこれまでにない感慨を抱いた。
ふと立ち止まり、後ろを振り返る。
誰もいない。当たり前のことだ。整備区画に立ち入る人員は、ヒタキの失踪により警戒態勢を取っている艦内において今は皆無だ。
では、誰かいるとすれば誰になるのか。
逆説的で突拍子もない考えだが、今この瞬間に整備区画に立ち入る何者かこそがエウーリアスの影響を受けた誰かではないのか。
それはおかしい、と翠は冷静に判断する。おれがここにいるのはエウーリアスの意志に干渉されたからではなく、ヒタキが失踪したからだ。仮に一種の催眠状態に陥っているとしても、神室少佐や他の乗組員までも騙すことはできない。ミズカゼ、ユキシロやアダナミといったルーフェと会話をしても彼女たちは何も違和感を感じていたなかったし、これは考えすぎというものだろう。
一方で、ヒタキの失踪はエウーリアスの意志が実力行使をしたというより、なにがしかのメッセージなのではないかと思えた。<サギリ>を攻撃するのであれば、こんな手の込んだ回りくどいことをする必要はない、ただ大量のメタファを<サギリ>が沈むまで叩きつければいいだけだ。着任したばかりのルーフェを排除したいのなら、輸送艦<シマヅ>からシャトルが射出された時を狙えばいい。
エウーリアスはヒタキを消滅させたのか、拉致したのか。恐らくは後者だ。ミズカゼ、ユキシロ、アダナミはルーフェとして長い経験を積み、確固たる個人世界観を有している。意思疎通のために白紙状態のルーフェの脆弱な精神に干渉し傀儡とする、というのは、現下の状況を鑑みれば妥当な推理だと思える。
いずれにしても、確かめる術はひとつだ。
翠はくるりと向きを変え、今しがた潜ったばかりのエアロックを目指して走り出した。
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