第9話 帰って来ちゃった大公家
ちょうどいい言い訳も、名前を挙げられる人物も思いつかなかった私は後から合流した兵士が率いる大公家の紋章のはいった久しぶりにみる重厚な馬車に残りこむことになった。
――オワッタ、私。
もうなりふり構わず走って逃げるをチャレンジすることすらかなわなかった。
体格のすっかり良くなったアインが迷うことなく私を抱え上げたからだ。
そうしてそのまま馬車の奥の席に乗せられ、出入り口側にはアインが腰を下ろし、絶対に逃がさないぞ~と言わんばかりに私と手がつながれている。
荷馬車とは違い、バレリア大公家の馬車には曇り一つない内側からだけ外が見れるガラスのはいった窓が入っている。
窓からみえる2年も住んですっかり勝手知ったる村の景色がもう見納めかと思うとそれがなんとも言えない気持ちだ。
「突然でごめん。君が気に入って住んだ村を離れるのは寂しいだろうけれど。こちらも少々大変で連絡する暇がなかったんだ。許してほしい」
村を去るのが寂しそうに見えたのかアインはそういってあっさりと頭を下げてしまう。
連絡の手紙が万が一届いたら、その段階で逃げ出したんだろうけどね。
連絡する暇がないというのは少なからず本編が始まったからだと思う。
物語ではバレリア大公家は中立を保っていたシュタイン家の娘リリーを殺した後、本格的に政治的に動き出す。
そりゃ大変よね……
「ところで、大公閣下は? 先ほど兵が呼んでいるのが聞こえてしまって。お姿が見えないようだけれど。いらっしゃるなら挨拶をしないわけには……」
ぜーーーったいに挨拶なんかしたくないけれど。
しないわけにもいかない。
「あー、いろいろあって今は僕が少し早いけれど跡を継いだんだ。君が出て行ってからしばらくして、父に病気が見つかってしまってね。そんなひどいものではないよ。ただ療養が必要で今は田舎の別荘の一つに住んでいる」
いつもと変わらぬ声色で、心配させないような口調でアインは話すけれど私は知っている。
アインの父は小説では健在だった。
それが突然私一人がいなくなったから病むなんてことは考えられない。
そりゃ、バレリア家は中立の証である私がいなくなってはしまったから、当然ごたごたはあったと思う。
だけど私はもう直に子供を成せる年齢が迫っていて、殺されるのは時間の問題だったから私が自らの意思で退場しただけだ。
失踪は離縁の理由になることは事前に確認済みだし、むしろ今回アインが迎えに来たことで私との婚姻関係が未だに継続しているだろうことのほうが驚きでしかない。
「領地の空気がどうしてもだめなようでね。大公の条件として一年の半分は領地内に留まる必要があるんだけれど、父はそれができなくなった。だから少し早いけれど僕が引き継ぐことになった。それだけだよ」
「そうなのね、最後にお見かけした時はお元気そうだったから、驚いてしまって」
「父はもういない。だからリリーは安心して家に帰ってきて」
そういってアインは私の頭にこてんと寄り掛かった。
愛おしそうに。
アインの前妻であるリリーを毒殺してくるのは大公閣下だった。
私最大の脅威はアインの言う通り、まさかの私が逃げ出している間に排除されたのだ。
実にあっけなく、あっさりと……おそらく私の隣で無防備に少し体を預けるこの美しい男に。
うんざりとした表情を取り繕う姿ばかりを見てきた人のいいアインは、父である大公閣下とは全然似てないと思っていたけれど。
彼は間違いなく大公閣下の血をひいていて、愛が手に入らないとわかってから悪役に切り替わるだけあって。
成そうと思えば成すのだということをひしひしと感じていた。
大公閣下が退場した今……おそらく。
彼の殺したいリストの一番上に名を連ねているのは間違いなくこんな僻地まで探しして呼び戻しただろう――私だ。
「リリー、屋敷に新しい料理長を迎えたんだ。彼は王都で店をしていて、君の好きな甘味を作るのがとても上手だよ。早く食べてみてほしいなぁ」
「そうなのね……」
「君は青が好きだっただろう?」
「そんなこと言ったかしら?」
確かアインに似合いそうな色が濃い青だからっていうメンヘラ設定の一環としてそういうことをしていたような。
「髪がピンクで合わないからとドレスで着ることは避けていたけれど。小物は濃い青色のものが多かった。だからね、屋敷のカーテンも絨毯も全部君の好きな青にしたんだ」
「全部ですって!?」
頭が寄りかかっているにも関わらず私はアインのほうをむいて大きな声を出してしまった。
「そうだよ。玄関から応接室、使用人たちの部屋まで全部、全部。君の好きな青でそろえなおしたんだ」
「それって、いったい何室あると思って……正気なの?」
あの膨大な広さの邸宅の物を一層するだなんて一体どれほどの金がとんだことやら。
貧しい暮らしをつい最近までしていた私には考えもつかない額が動いたことに意味が解らなくなる。
「正気じゃないんだろうね」
アインの目は虚ろだった。
「君がいなくなって……」
抑揚のない声だった。
「考える時間がたくさんできて。僕が見てきた君が全部偽物だってことと向き合っていたらおかしくなったのかもしれない。ねぇ、リリー。青は好きじゃなかった? これも嘘?」
美しい人が狂ったようで、私はものすごく恐ろしかった。
馬車という密室の中で、初めて聞く抑揚のない声色にごくりと私は唾をのんだ。
「青は……好きよ。あなたに似合うでしょう」
こういうとき人間は慣れ親しんだ行動をとるんだと思う。
だから私は思わず、アインの前で長い間かぶっていたメンヘラの仮面をつけていたころのような言葉をとりあえず言ってしまった。
「僕に似合うから?」
「昔、青のタイをもっていたでしょう? あれがすごく似合うなぁと思って。私も小物で真似をしたの。ドレスはあなたの言う通りこの髪色だとこの色は合わないから」
「そうか、青にすべきは僕の服だったのか」
つないでいない方の手でアインは質のいい黒の上着をぎゅっと握りしめた。
そんなに強く握りしめたらしわになってしまうとかとても言い出せる雰囲気ではなかった。
「だけど、黒地に金糸の今もとても似合うわ」
「ならよかった」
服を握りしめた手が緩んでほっとする。
そうして死ぬほどしんどい時間が流れて私は再び舞い戻ってしまった。
もう二度とお目にかかれないと思っていた、バレリア家に。
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