第15話(終)


 キキは我に返った。さっきまで抱えていたザカートがいない。

「…………」

 胸に手を置く。スイセンにもらった首飾りは、ザカートに持っていかれてしまってもうない。立ち上がって暗闇の中壁に手を置くとぬるりとした感触が手にまとわりつく。血だ。乾ききっていない、真新しいものだとわかる。またどこかへ行ってしまったんだろうか。あの、傷だらけの体で。

 どうして今まで気がつかなかったんだろう。「ザカート」なんて下界で聞く名前の響きじゃない。

(彼の本当の名前は……)

 キキはその名前を、頭の中で転がした。今初めて聞いたような、もっとずっと前から知っていたような妙な感覚だ。これを口にしたら―― あの時のように、モクレンがそうするように彼の本当の名前を呼んだら、きっと彼はその身に集めた憎悪ごと消えるだろう。

 モクレンに対する、狂おしいほどの想いごと……。

 と、キキの足に何かが当たった。歩を進めた拍子に蹴ってしまったらしいそれは、石の壁にぶつかって音が鳴る。キキはとっさにポケットに手をあてた。リンクスにもらった鈴の音色に似ていたので知らない間に落としたのかと思ったが、ポケットの中にはしっかりと収まっている。外から漏れてくるわずかな光を頼りに手を伸ばすと、再び衝撃を受け音が鳴る。布の先端に鈴がついたチョーカー…… ともすれば猫につける首輪みたいだ。

 前にリンクスとした会話を思い出す。もしかすると、リンクスの? キキはポケットからリンクスにもらった鈴を出して見比べてみる。同じだ。でも、なんでこれがここにあるのだろう。リンクスが何かの拍子に落としたとして、ザカートがそれを持ち帰ってきた以外にこれがここにあることを説明できないが、そうするとなぜザカートが持ち帰ってきたかという問題が新たに浮上する。

(…… そういえば)

 リンクスはキキが知っている以外のザカートの名前を呼ぶように誘導されても呼んでは駄目だと言っていた。

 でも、どうして? 知っている以外の、ということはこの本当の、下界で呼ばれていた名前も含まれるのだろうか。

 そんなことを考えているうち、何か大きなものを羽ばたかせるような音が聞こえてくる。なんだろうと思って光のそそいでくる方向へ階段を上っていくと空を何かが泳いでくる。それはゆっくりと段階的にザカートの姿に変わって、洞穴の入り口に降り立った。

「案外、かわいい名前してるんだね」

 息を切らすザカートを見下ろしながら言えば、彼は膝をついたままにやりと笑った。

「思い出したのか」

 ゆらりと立ち上がった彼に壁に追い詰められそうになったのでキキは思わず後ずさるが腕をつかまれて動きを封じられる。

「なら、呼んでくれるよな」

 ここに来てから何度も見た、助けを求めるような瞳に、ようやく合点がいった。

「…… どうして? 呼んだらあなた、消えるんでしょ?」

 ザカートは少しの沈黙の後、そうだ、と口にした。

「じゃあなんで……」

「死ぬよ。俺は死ぬ。そういうさだめだし、それが一番いい。お前が呼ばなくても、リンクスに喰われて死ぬ。…… 痛くない方がいいって、それだけの話だ」

 立っているのすらやっとといった様子のザカートを支えてやりながら、キキは彼の顔をじっと見つめた。時間が経つごとに頬にはりついた鱗のようなものが消えていく。

「…… 本当にそう思ってる?」

 ザカートは答えない。そのまま顔をそむけ、奥へと進んでいってしまう。奥へ行かれるとますます暗くなって、ただでさえうつむきがちでよくわからないザカートの表情が余計にわからなくなる。もっとたくさん明かりがあれば、もしくは天井に穴でも開いていれば光が入ってくるのだが。

 上からぱらぱらと小石や砂利が落ちてきた。反射で身をすくめた瞬間に、先ほど拾った鈴がポケットから落ちる。

 ザカートの反応は早かった。地面に落ちた鈴に手を伸ばしてくる彼よりも一歩早く、キキは鈴に手をかける。

「―― なんでお前が持ってる」

「それはこっちのせりふ」

 鈴を押さえたキキの手ごと、ザカートは鈴を握りしめた。

「…… 本当に、死んでもいいと思ってるの」

「いいとか悪いじゃない。それしか道がないんだから、考えたって意味がない」

「本当に?」

「何が言いたい?」

 ザカートが眉をひそめる。ちゃんとした反応が返ってきたのは初めてのような気がする。

「―― そんなに物分かりのいいふりなんてしなくていいと思う。だってあなたの命だよ。世界のものでも、天使のものでもない」

「そんなふりはしてない」

「してる」

「してない」

 ザカートは今までにないほどきっぱりと声を張り上げて立ち上がった。

「お前に何がわかる」

 キキはわかるよ、とつぶやいた。

「あなたが教えてくれたからわかる。お願いだから自分を犠牲にしないで。傷ついたりしないで。モクレンだってきっとそんなこと望んでない」

「お前はモクレンじゃないだろ!」

「じゃあ聞くけど!」

 再び声を張り上げるザカートに負けじとキキは声を出す。

「モクレンは…… モクレンが今のあなたに何も思わないって、本当に思うの? モクレンは苦しんでるあなたを見ても何とも思わない人なの?」

 違うでしょう、という言外の意味を感じ取ったのか、ザカートは黙りこんだ。キキはそんな彼の手を取って、拾った鈴を押し込んだ。

「…… 月並みだけど、好きな人に苦しんでほしい人なんて、不幸になってほしい人なんていないんじゃないかな……。あと、あなたがいなくなったら、みんな悲しむ。もちろん『キキ』も。―― リンクスだって、本当は戦いたくなんか……」

 ザカートが息を呑むような気配がして、キキは言葉を止めた。

「…… どうかな。俺が死んだら、かえって喜ぶかもしれない」

「…… どうして、そう思うの?」

 キキが尋ねると彼はまた背を向けてしまった。

「―― リンクスは多分、そんなこと思わないよ。あなたのことすごく大事に思ってる」

「…………」

「だって彼、私にあなたの名前がわかっても呼ぶなって言ったんだよ。あなたがそれを、私に望んでも」

「―― 嘘だ」

「嘘じゃない」

 小さな声が返ってきて、キキは歩みよりながら答えた。

「私に鈴を渡したのだって、一番に駆けつけるためなんだと思う。…… 多分リンクスはわかってるし、わかってたんだと思う。私がここに来て、あなたを好きになること、好きになったら、どうなるかってこと……」

 ザカートがのろのろと振り返る気配がして、キキは顔を上げた。

「―― っわ、」

「えっ」

 暗闇で距離感のない中近づいたせいで思った以上にお互いの距離が近く、二人はまったく同じタイミングで声を上げ、鏡のように体を跳ねさせた。結果、バランスを崩したキキの体が傾く。倒れそうになったところをあわや、腕を引かれ男の腕の中に倒れこむ。

「あ…… ごめ――」

 謝罪の言葉とともに体を離そうとすると強い力で抱き寄せられる。

「―― 死にたくない」

 肩口でささやくようにこぼした言葉に、キキは短くうん、と返した。そしてゆっくり背中をさすってやれば、より一層強く、けれどすがるような切実さで手に力がこもる。

 ―― ケイロンも、アステリオも、そしてリンクスも。きっとキキには想像できないほどの年月をザカートと共に過ごしたのだろうが、彼の中で欠けた部分を埋めるには至らなかったのかもしれない。

 ずっとどこかで何かが欠けたまま、自力で消えることもできず、必死で立ち続けていたのだろう年月のことを思うと、ただたまらなかった。泣きじゃくる彼の涙が止まったような気配に、キキはそろりと体を離す。

「…… やっぱり、似合わない」

 キキは苦笑交じりにつぶやいた。

「ル=ヴェルニ=ザ=カート―― 哀しみに滲む空なんて名前よりも、…… そうだな、明日に向かう夕陽…… コール=ヴェル=ザ=カート―― うん、そっちの方が、よく似合ってる」

 途端、頭上がみしりと動いた。天井が崩れる、と思うと同時に大きな翼がキキを守っていた。見上げると、キキの体の何倍も大きな竜が、目を開けていられないほどの陽射しの中で立っている。キキとザカートを覆い隠していた、重く暗い石壁はどこかへ消え去って、すっかり形をなくしている。キキはそっとザカートに触れた。

「なんだか、長い夢から覚めたみたいだ……。でも、これも夢みたいで、いつ覚めるかと思うと怖い」

 ザカートは言いながら鼻先を寄せてくる。キキは彼の皮膚をそっと撫でながら言った。

「じゃあ、確かめに行く?」



 空が一瞬にして晴れ渡った瞬間、リンクスたちは一斉に顔を見合わせた。

「気づいたようですね」

 ケイロンが安堵したように言って、アステリオが微笑んだ。

「リンクスが何か陛下に言ったのかな」

 尋ねられ、リンクスは複雑そうな顔をした。

「…… 俺は特別なことは何も。彼女が自分の力で気づかないと意味がないから」

「それにしたって、あの歳で気づいただけじゃなく術の書き換えまでするなんて、期待以上だよ」

 アステリオは感嘆するように言った。

「モクレンの魂ありきの結果でしょう」

 対照的に、落ち着いた様子のケイロンの言葉に、アステリオが「そりゃそうだけど」と食い下がる。

「大きく見積もっても、五割くらいは姫の実力と思っても……」

「馬鹿なことを」

 ケイロンは冷たく言う。

「八割でしょう。彼女をセヴの王として認めるには、十分すぎる成果です」



 下界の空はすっかり澄んで、晴れ渡っていた。けれどまだあちらこちらに洪水の名残があって、ほとんどの人間が後片付けや復旧作業に奔走していた。

「これ…… 偶然上見た人がびっくりしない?」

 キキは下を見下ろしながら言った。キキを背中に乗せたザカートは平気さ、と口にする。

「ヴィラの人間には見えない。この間一人で下界に降りていった時にも見えてなかっただろ?」

「あ、そうか」

 スイセンといた時のことを思い出す。まがりなりにも一人の人間の人生を変えた。それが良いことだったのかそうでないのか、キキにはわからない。

「…… 統合して、少しはわかったような気もするけど……。異界って、異界の王って結局何をすればいいの?」

 ザカートの背中で風に目を細めつつ聞くと、下から考え込むような声が聞こえる。

「ララは…… お前の母親は、セヴを橋で、通り路で、扉だって言ってた。俺にもよくわからないけど」



 ザカートは人間界を大きくぐるりと回ると、大きな湖のそばへと降り立った。湖のはるか向こう岸にはキキの住んでいた街が見える。キキの家らしきものが見えるが、無事かどうかわからない。人間の姿に戻ったザカートがゆっくりとキキの見つめる方向より少し右にずれた場所を指さした。

「…… あのへんに、昔下働きしてた店があった」

 彼の指す方向にはその建物はなく、今ではとある貴族の私有地になっている。

「じゃあ、私の家とけっこう近いのかな」

「そうかもな」

 突風が吹いて、ザカートがキキを守るように体を動かした。

「…… 私、やっぱりあの二人のこと嫌いになれない。お義母さまが流されてショックだったし、お義姉さまが助かって心底ほっとしてる」

「別に嫌いになれって言いたかったんじゃない。俺もそうだ」

 ザカートはキキをいたわるように、励ますように肩に触れた。

「だから辛かった。だからモクレンに救われて、俺に何も言わずに、俺じゃない誰かのために俺を置いていなくなったあいつを恨んだ。―― だから、キキに救われた」

 ―― キキに、『キキ』に?

 自分は今、彼にはどう見えているのだろうか。自分でも正直よくわからない。キキなのか、『キキ』なのか、モクレンなのか、それとももっと別の誰かなのか。自分の中に、はっきりと別の何かがあるのを感じる。けれど違和感はなく、静かにそこにたゆたっているのがわかる。

「どうした?」

「…… 私……」

 おずおずと切り出すと、ザカートは不思議そうに首を傾げた。

「私って今、何なんだろうと思って――。モクレンなのか、キキなのか、あの子なのか…… それとももっと別のだれかなのか」

 ザカートは黙ってしまった。永遠かと思った沈黙の後、口が開く。

「俺は、リンクスみたいに気の聞いたことは言えないけど……。たとえば、リンゴはあの形と、香りと、味ありきでリンゴたりえてるんだと思わないか? 名前ひとつで何が変わるわけでもない」

「…………」

 きっと、これが彼にとっての自分という存在のすべてなのだ。きっと、キキがキキである限りは、それはずっと変わらない気がした。

「名前は大事じゃない? それこそ、リンゴがヘドロとかナマズとかって名前だったら今と評価は変わる気がするけど」

 ふ、とザカートがおかしそうに吐息を漏らした。

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

 どこか甘やかすような声が誰に向けられたものか、なんて、考えるだけ多分無駄だ。

「―― キキ」

 口にすると、ザカートが柔らかく微笑んだ。キキ、とささやくように呼ばれて、なんだか泣きそうになってしまう。

「帰ろう」

 うん、とつぶやいて、キキは身をひるがえした。異界のことも、ララのことも、自身のことも、少しずつ整理していけばいい。なにしろ、時間はたっぷりあるのだから。

 赤い夕陽が、ふたりの行く先を明るく照らしていた。


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いとしきわが哀しみたちよ 水越ユタカ @nokonoko033

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