第12話
(…… 寒い)
ぶるりと身を震わせて、キキは目を覚ました。今までこっちに来てから幾度も気を失っているが、これほど目覚めが悪いのは初めてだった。キキは体を起こし、辺りをぐるりと見回した。どこかの洞穴みたいだ。暗い中に、ぽつんと一つだけ小さなランタンが置いてある。キキが寝ていたのは枯草を編んだむしろの上だった。意識を失ったせいで曖昧になっている記憶を呼び起こしながら、状況を整理する。さっき、突然城が壊れたかと思ったら次の瞬間には空の上にいた。竜みたいなものの上に乗って、気が付いたらここにいた。
(そもそも、あれは竜なのか?)
竜だなんて空想上の生き物―― いや、アステリオやケイロンがいるこの世界で今更驚くことでもないのかもしれないが。
ズズ、と何かを引きずるような音がした。キキが身構えると、人のうめくような声がする。
「…… ザカート?」
ランタンを片手に立ち上がり、声のする方へ歩いた。小さな明かりで探るように歩いていくと、にわかに明るくなるような気配がある。そちらへ視線を向けると、長い、階段と呼ぶには無骨な段差があって、その先に彼はいた。
「…… ザカート、なの……?」
キキは駆け寄り、彼の顔へ手をすべらせた。そこにはさっき、キキの手に触れたのと同じ鱗の感触がある。
「…… キキ……?」
目の前の男が、自分の名を呼んで、キキは肩を跳ねさせた。それが目に入っているのかいないのか、ザカートはゆっくりとキキの肩にもたれた。
「え……」
「少しだけ」
突然の行動に驚いているとそう返される。
「少しでいい。こうさせてくれ」
すがるように言われては、拒むことなどできない。ザカートはキキの右肩に額をつけたまま、乱れた呼吸を整えていた。自身の右肩とザカートの右肩が触れあって、息遣いさえ聞こえる距離なのにどこか遠くにいるように感じる。
(…… あ、鱗)
顔に触れると、鱗が消えていた。じっと見ていると、呼吸が整ったらしいザカートと目が合う。「キキ、だよな」と確認するように彼が言ったので「モクレンじゃなくてごめんね」と返すと、彼がはっと短く笑った。
「なんだそれ」
ザカートはゆっくりと立ち上がって片足を少し引きずりながらキキが来た方の道へ戻っていく。…… もし、自分がモクレンだったなら、もっと彼に寄り添えたかもしれないのに。
―― 言い訳だ、そんなの。
「どうしてそんなに怪我してるの」
「…………」
ザカートは答えない。
「あの竜はザカートでしょ? それって私が……」
「モクレンはすぐに目覚める。お前の魔力が強くなるほどに」
歌うようでも、呪詛のようでもあった。
ザカートの言葉にキキは動きを止める。夜目が利いているのか、ザカートは闇の中でふっとキキに近づいてくると、行く手を阻むように壁に手をついた。
「統合した今なら少しはわかるだろう。俺がどれだけモクレンを待ち焦がれていたか」
「…………」
キキはなにも言わない。
「何年…… 何百年待ったか。やっと会える。リンクスには渡さない」
「…… そんなに好きなの、その人のこと……」
問いかけると、ザカートの唇のかたちがゆがんだ。
「憎んでる」
何度目かのザカートの襲来をしのいで、リンクスは大きく息をついた。人の姿に戻ると、ふらつきつつもぼろぼろになった広間のソファに横になる。
「―― あれ」
胸に手をやって、そこにあるはずのないものが見当たらずリンクスは首を傾げる。
「鈴がない」
「え?」
「さっきザックとやりあってる間に落としたのかも」
「探してこようか」
心配そうに聞いてきたアステリオに、リンクスはいやと言いよどむ。なんとなく、探したところで見つからないような気がした。後で自分で探しに行くと答えて、半身を起こす。
暴れるザカートを押さえるのは、あと数回が限度だろう。ザカートがリンクスを喰らって、下界を憎悪の海に沈めるのはそう遠い話ではない。
「簡易結界を張りましたが、もって数日です」
かつて広間のあった場所に戻ってきたケイロンが、不安そうに言う。ララの魔力で作られた城はリンクスたちにとっては保存容器のようなもので、あまり長い間城の外に出てはいられない。それまでにはザカートをどうにかして、キキを城に連れ戻さなければならない。
―― もしこのままザカートをとめられなかったら、ザカートは、キキを……。
想像して、リンクスはぎゅっと目を閉じた。リンクスがここへ来たのは、キキが生まれるよりもずっと前、ララがキキの父親と出会ってすらいない頃だった。
リンクスは、アステリオやケイロンと同じようにララが異世界から集めた。ただ、リンクスだけはララが即位するときに側近として集めたアステリオやケイロンとは違う。モクレンが死んで、この世界に来たザカートが暴走した時のために呼ばれたのがリンクスだ。
そもそももといた世界では実験と解剖を繰り返して生まれた身であるし、道具として扱われることになんの抵抗もなかった。鈴を首につけられた時も犬や猫のようだなとはおもいつつも黙って受け入れたし、実際その通りだし。
ただ、ザカートのひたむきにすら思える狂いように相手がどんな人間なのか気になりはした。こちらに残ったのはほんの魂の一部分だし、年端もいかない子どもだし。ザカートにべったりだし。だから、キキが分裂してしばらく経って彼女の様子を見に行くように言われた時、少しだけ気持ちが昂ったのも事実で。
そのせいで、柄にもなく木から落ちてみっともなく怪我をして、観察対象であるキキに見つかってしまったわけなのだが。猫の姿だったのが不幸中の幸いだった。
『大丈夫?』
心配そうにしゃがみこんでくる彼女から一刻も早く離れねばと思うが、擦りむいた左前脚が痛くて今は動けない。キキはリンクスの傷を見て一言、痛そう、と呟いた。
『―― でも、この程度じゃ死ねないね。大丈夫、すぐに良くなるよ』
ちょっと待ってて、と言って一旦その場を後にしたキキから、リンクスは目を離せなかった。今までそばにいたのは、無慈悲な人間か哀れむ人間だけだったから。あんな寄り添い方をされたのは初めてで、どういうわけか泣きそうになってしまった。
手当てのあと片時も目を離すことなくそばにいられて、夜になれば文字通りベッドの中で寄り添われて、困り果てた挙句礼も言わず隙を見て逃げ帰ってきた。
『ずいぶん遅かったけど、何かあったのか?』
息を切らして城へ戻れば、ザカートが開口一番にそう聞いてくる。
生前はひどい環境にいたらしいが、それでも自分に比べれば彼のキキに対する感情はひときわまぶしく感じる。…… それでも、そんなふうに思っていてもなお、欲しいと思ってしまうくらいには、キキもまぶしかった。絶対に手に入るわけはないのに。
「―― リンクス?」
アステリオが心配そうに尋ねてきて、リンクスははっとする。
「そんなに心配しなくても、ザカートが陛下に危害を加えたりはしないよ」
「…… わかってる、そんなこと」
そんな、あたりまえのこと。
ザカートは泥のように眠っている。彼の寝顔を見つめながら、キキはさっきのやりとりを思い出していた。
『憎んでるって、どうして……』
『あんたには話さない』
キキの問いかけに、ザカートは振り返らないまま答えた。
『行ってもどうにもならない。…… キキの方が、話したところで意味がわからないぶんまだましだ。素直で、かわいかったしな』
ザカートはもう寝る、と言ってあの通りむしろの上に倒れた。あまりにも動きがないので死んでいるのはと時々不安になるが、吐息が聞こえてきてそのたびほっとする。
何も言い返せなかった。言い争いをしたいわけではないからいいのだが、あれではまともに会話などしてくれない気がする。別に、彼が本当に幼いキキに対してモクレンを憎んでいるだのなんだのという話をしていたとは思っていない。…… というか、自身の記憶の中にそんなものが見当たらないから、多分ないんだろう。代わりに、ザカートが『キキ』をひどく大切にしてくれていた記憶がある。
話を聞いてくれたこと。
どんな遊びにも際限なく付き合ってくれたこと。
その後、遊び疲れた『キキ』を抱いてベッドまで運んでくれたこと。
眠れない夜にそばにいてくれたこと。
―― そういう彼が、彼女もものすごく好きだっただろうこと。この先も同じ生活が、ずっと続くことを望んでいたこと。
(―― キキ)
あなたは、
「どうして、統合してくれたの……」
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