第11話
リンクスがキキを追いかけていってからずいぶん経ったような気がしてザカートは部屋にかかる時計を見た。しかし実際はそれほどの時間は経っておらずザカートはため息を吐く。内容がほとんど頭に入ってこない本を閉じて窓の外を見てみると、雨はとっくに止んでいた。
「雨、もう降らないといいけど」
とアステリオが眠る『キキ』を抱えながら言った。外は日が差している。
「寝かせてきた方がいいんじゃないのか」
長い間抱えたままなのを見かねて言えば、アステリオは「服をつかまれてて」と少し困ったように、しかし嬉しそうに言った。
「明日腕が痛くなっても知らないぞ」
「大丈夫」
忠告するが、そんなふうに返されザカートは嘆息した。まあ、何年も面倒を見ていたわけだから、愛おしく思う気持ちもわからないでもない。統合自体も、二人のキキのことを思えばそう遠い話にしておくわけにもいかないしと思いつつ『キキ』をもう一度見て、目に入った光景にザカートは目を見開く。まばたきして再び見ると、さっきと同じように『キキ』の体がゆらりとかすんだ。
「…… キキが『キキ』を受け入れ始めてる」
ザカートの言葉にケイロンが振り返る。
「なんですって?」
「姫が消えかけてる」
今度はアステリオが言った。
「統合が近いのかもしれない」
「統合しないってたったさっき言ったばかりだぞ」
ザカートがいまだ困惑したように言うと、アステリオがケイロンと目くばせした後、口を開く。
「出て行った先で何かあったか……」
「リンクスが何かしたんでしょう」
ケイロンが言った途端、ザカートは息を呑んだ。それからゆっくりとうつむいて、ぎゅっと目を閉じる。
「…… キキを寝かせてくる、抱かれたままよりそっちの方がいいだろ。統合に向けて、準備もある」
「―― あ、ああ、うん、そうだな」
アステリオがザカートに『キキ』を渡すと、彼女はうっすら目を開いた。
「ザック……?」
自分の名を呼ぶ少女を背負いながらザカートは優しく微笑む。
「うん、疲れたな。横になって休もうな」
「んむ……」
兄妹のように寄り添って部屋を出ていくザカートと『キキ』を横目にアステリオは窓辺にたたずむケイロンのもとへ近づいた。
「術式は? なんとかなりそうか?」
尋ねられ、ケイロンは「準備はしました」と答えた。
「どっちに転んでも対処できるように…… あらゆる場合に備えて対応できるように体制を整えたつもりです。ただ、陛下の魔力がどれだけのものか―― 大きすぎれば奴は魔力にあてられて肥大化するし、小さすぎても奴を封じ込めることができない」
「うん……」
言葉少なになったアステリオを、ケイロンは「感傷に浸っている場合ではないですよ」とたしなめる。
「ここが落ちたら天界も落ちる。天界が落ちれば下界も危ない。気を抜く暇はありません」
ケイロンに言われて、アステリオは「そうだな」と吐息交じりに言った。
「陛下、もしよろしければこれを」
城へ戻る道中、そう言ってリンクスが差し出したのは親指ほどの大きさの鈴だった。細かな、しかし派手ではない装飾がなされていて、それはどこかスイセンにもらった首飾りに似ている。
「万が一の時に鳴らしてください。どんなに遠いところからでも、私にだけは聞こえます」
リンクスは胸元を服の上からトンと叩いた。すると軽やかな鈴の音が鳴る。キキは手の上に置かれた鈴をじっと見つめた。
「でも、私が統合するのが一番良いんでしょう」
キキが言うと、リンクスは複雑そうに微笑む。
「念のためです。統合した結果どうなるかは誰にもわからないし、もちろん使わずに済むならそれが一番良いです。…… もちろん城にはケイロン様やアステリオ様がいるし、ザカートだって、あなたを守るためならなんだってするでしょう。―― ただ」
「ただ?」
首を傾げるキキの手を取りながら、リンクスは続ける。
「本当に、何が起こるかわからないんです。統合に関してもそうですが、あいつが開花したあなたを見て、影響されて、最終的にどうなるのか…… 未知の部分が大きすぎる。ララ王でさえもやっとのことで封じ込めたんです」
リンクスは話し終えた後、すみません、とキキに向かって謝罪した。
「怖がらせたり、不安にさせたいわけではないのですが、頭に入れるだけ入れておいてほしくて。あと、もうひとつ」
リンクスがキキの手を握ったままの自分の手にぎゅっと力を込める。
「あなたのことは絶対に私が守る。何があっても、どうなっても」
誓うように口にされ、キキは戸惑うように口を開いた。
「…… 頭には、入れておく」
守ると言われたのはリンクスが初めてではない。父にだって言われたし、義母にだって言われた。あなたの生活は私が守るから、と。彼女たちとの生活は別に不自由ではなかった。囲われ、隠され、守られて、何も文句はなかった。自分が譲歩することですべてがうまくいくのならそれでよかった。
(守るって呪いみたいだ)
お互いの気持ちを人質にして、心と体の自由を奪う呪縛。
「しかし、お前も馬鹿だな」
上の方から声が聞こえる。露台から見上げてみると、窓辺に寄りかかるザカートの姿がある。誰かと話しているようだった。
「よりによってあやつに封印されようとは。生半可なことでは解けないぞ」
「その方がいいでしょう」
聞いたことのある声に、ザカートが返した。
「変わった奴だ。…… まあ、人間というものは総じて変わっているが。まったく、何千年経っても理解できそうにない。死ぬまで続く苦しみよりも、永遠に救われることの方がずっとよかろうに」
「…… 俺もそんなふうに思うことがあります。他の、今まさに苦しみの奥底にいる人間も、シオン様のおっしゃるように思う者がたくさんおりましょう」
シオンという名に、キキは再び露台から上空をあおいだ。
「それでも生きようともがくのが人間であると、俺は思います」
ザカートが言うとシオンの短く嘆息するような声がした。
「しかし、それでは生まれ変わることすらできまい」
「モクレンはあれでいて、時々抜けていて、鈍いところもあるので、俺が変わらないくらいが多分ちょうどいいんです」
そう言うザカートの口調は少しだけ楽しそうだ。キキにはこんな声を聞かせてくれたことはない。『キキ』なら、聞いたことがあるだろうか? けれどきっと、それすらも例のモクレンに向けられたものであるなら、統合したところで――。
「それに、放っておけない奴もいるので」
「ララの娘か」
「ええ、まあ」
シオンの問いに肯定で返したザカートの声に、キキの心臓が跳ねる。
「―― 陛下?」
と、その時リンクスが後ろから声をかけてきた。お茶が入りましたよ、と告げると同時に、ザカートの寄りかかっていた部屋の窓が開く。
「帰ってたのか」
「あ…… う、うん」
「今そっちへ行く」
キキの姿を認めたザカートがそう言って慌ただしく引っ込んだ。『キキ』の部屋にいたんじゃないのか。いてやらなくていいのか。
(いや、ていうか)
さっきのは、どう考えても『キキ』のことだろう。どうして自分のことかもなんて一瞬でも思えたんだろう。恥ずかしい。
『なんであんな家に帰りたがる』
『救われたら何をしても許されるのか?』
あんなふうに言われて、ひどく救われている自分がいる。
(ああ、私)
ザカートのことが好きなのか。
自覚した瞬間、胸が熱くなった。恋心の自覚に対する比喩では、多分ない。お茶を淹れる前のティーカップにあらかじめ湯を入れておくとだんだんと温まってくる、あれに似ている。じわりと熱を持つ自身の胸に手を置いた、その時だった。城がみしりと軋んだ。キキがかつて住んでいた屋敷が雨風にさらされて軋む音に近いが、この城は木でなんかできていない。そんなに簡単に軋んだりしないはずだと思った瞬間、ばこんと何かが壊れるような音がして、次の瞬間には空が見えた。天井がなくなったのだということに気づくまで数秒かかった。
「陛下!」
リンクスの焦ったような声が飛ぶ。
「や――」
伸びてきた手は一歩遅く、キキには届かない。背中を強く押し上げられ、怖いとか思う間もなく気づけば空の上にいた。スカートがあおられるなか、キキは目の前のものに無我夢中でしがみついた。石に近い、ざらりとした感覚。反対側の手には、真逆とも言えるつるりとした手触りがある。猛風のなかどうにか目を開けると、そこには鱗らしきものがある。
(―― 竜?)
信じられない、と驚いている間にもそれはどんどん空を切っていく。あまりの風の勢いに目を開けていられなくなったキキは、そのまま意識を手放した。
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