第10話
「おい」
スイセンは人間界から天界に戻る途中、聞き慣れた声がしたような気がして立ち止まった。止まったのはレファーラの人間には異界と呼ばれている場所で、天使はここを通らないとヴィラ=レファーラ―― すなわち人間界に降りたり天界へ戻ったりすることができない。
「―― シオン?」
名を呼ぶと、ざわめく木々の隙間からその姿は現れた。この森にはかつて、ララがセヴ=レファーラの主だった時にはたくさんの生き物がいたものだが、今では生き物はほとんどおらず、森自体もかたちを変えてしまっている。
「どうしたの? 仕事中じゃ……」
スイセンが問うと、シオンは「区切りがついたんでな」と口にした。スイセンはそう、と身をひるがえした。
「それじゃ、僕はヒイラギ様のところへ急ぐから」
「あ、おい、待て」
「うん?」
珍しく引き留めてきた彼にスイセンは首を傾げて立ち止まる。
「…… その件だが」
なんだか歯切れが悪い。彼らしくもないと思っていると、シオンの口が思い切ったように開く。
「私とヒイラギの手違いだった。あの男の魂の回収はなしだ」
「えっ……」
スイセンの瞳が驚きに見開かれる。
「どうして……」
「そういうことになった。あの男は、同じ時に母親を亡くした貴族の娘と一緒になる。身分違いだが、仲良くやっていくんだそうだ。子どもも六人できるらしい」
「君がヒイラギ様にかけあってくれたの?」
問いかけられて、シオンはふんと鼻を鳴らす。
「お前がいなくなったら、誰があの変わり者ぞろいの他の天使たちの面倒を見るんだ。―― まったく、私には理解できない。どうやったって天使と人間じゃ幸せになんかなれっこないのに…… 実際今だって……」
「ねえ、あれキキじゃないか」
スイセンが指さした方向へ目をやるとまさにキキが城から一直線に走ってくるところだった。
キキは息をするのも忘れて、城門から階段を駆け下りるとひたすら走る。
『―― モクレン!』
不意に聞こえてきた声にキキは足を止めた。気づけば辺りは一面森だった。声のした方向には、青年の姿がある。背丈といい雰囲気といい、ザカートに似ている。…… いや、似ているのではない。
(本人だ)
髪の長さとか、着ている服だとか、表情だとか―― 何もかもが違うが、あれはザカート本人だ。心臓の鼓動がどくどくと大きくなっているのを感じる。
彼の視線の先、遥か上空で振り返ったのは、シオンやスイセンによく似た空気を持つ者だった。夢で見た。長い髪が風になびく。モクレンその人だ。
『どうしたの、こんなところで』
首を傾げるモクレンにザカートは「こんなところって」とぎこちなくも優しい笑みを浮かべた。
『貴族専有の庭だぞ。俺は…… 仕事で来たが』
ザカートは言いながら木にもたれた。同じ木の枝へ、モクレンも腰を下ろす。
『ここの庭ね、木も花もいつもとても綺麗に手入れされてるからよく見に来るの。きっとすごく植物に対して愛情のある人が手入れしてるんだと思うわ』
モクレンの言葉にザカートはへえと相づちを打つ。
『…… 木だの花だののことはよくわからないが―― まあ、確かに作るのが心底好きって奴は、服にしろ小物にしろ、いいものを作る』
『あなたは?』
モクレンの髪がさらりと下に落ちてくるが、ザカートには触れない。モクレンの体はいつも透き通っていて、よく反対側の木や草花が見えている。ザカートは手を伸ばした。
『ただの小間使いだ。何も作れない』
『作りたいものはないの?』
触れることができずに空を切った指先を手のひらに握りこみながらザカートはないな、と言った。
『ひとつも?』
『ああ、ない』
断言するザカートにモクレンはふうんと口にして下に降りた。
『ねえ、じゃあ私の服を作ってくれる?』
突然の提案にザカートは「はあ?」と目を見開く。
『触れない相手をどうやって採寸……』
『私が人間になった時に』
突拍子もなくそんな言葉が飛び出してきてザカートは言葉を失う。そのまま固まる彼の周りをくるりと回りながら「あのね」と話し出す。
『ララって知ってる? 異界にいる、私の親友なんだけれど、彼女とね、私が生まれ変わったら絶対に天使以外になるって約束したのね』
『話が突拍子もなさすぎてついていけない』
仏頂面で言われて、モクレンは笑った。
『そういう、天使じゃできないことをするの。服を作ってもらったり、大好きな人と同じ時を刻んだり―― そういう、きっと天使以外にはなんでもないことを』
『大好きな人、ね……』
モクレンの言葉を繰り返しながら、ザカートは立ち上がる。
『そこに――』
ザカートの言葉を遮るように、どこかから彼を呼ぶ声がした。
『やばい、行かないと』
『お仕事?』
『ああ』
急いだ様子でその場を去ろうとしたザカートは数歩行ったところで戻ってくる。
『何か忘れ物……』
モクレンは最後まで言うことができなかった。ザカートの体がふっと近づいて、モクレンの頬―― 正しくはその周りの空気に彼の唇が触れた瞬間、モクレンの言葉はそこで途切れる。
『じゃあまた。別のところで』
このうえなく優しい微笑みに、モクレンは去っていく彼の後ろ姿を見送ることしかできない。
『あれが例の彼?』
『スイセン様』
後ろから声をかけられ、モクレンは反射で振り返った。
『本当に人間と親しくしてるんだ、君』
『疑ってらしたんですか?』
『皆、半信半疑だよ』
スイセンの言葉に少し笑いつつモクレンはザカートの去っていった方向を見た。ザカートの姿はもう見えない。
『モクレン、君が自分で一番よくわかってるとは思うけど、人間の彼に君の姿が見えるってことは、彼は――』
『わかってますよ、もちろん』
心配そうに言ってくるスイセンにモクレンは答えた。
『人間には寿命があるってことも、ずっとは一緒にいられないことも…… どうしたって幸せにはなれないことも、このうえなく不毛なことも』
『じゃあどうして……』
『好きだからです。彼のことが』
モクレンはきっぱりと言った。
『もちろんララのことも。あとスイセン様のことも好きですよ、私』
草花の匂いがする。背中から柔らかな感触が伝わってきて、自分は今草の上に横になっているのだということがわかった。キキは目を開けた。まばたきをするごとに、瞳から熱いものがぼろぼろとこぼれだしてくる。手でぬぐいながら起き上がるも、流れる涙の量に際限がない。
「よろしければ、お使いください」
横からハンカチを差し出してくる男の姿に、キキは驚かない、安心感さえあるが、それはモクレンの記憶ではない気がする。
「夢を見てた」
「モクレン様のですか?」
寝起きの気分を害さない穏やかな声で問われ、キキは「モクレンとザカートの」と答えた。瞬間、リンクスが息を呑む。
「…… どんな?」
「二人が仲良さそうに話してる夢で――」
説明するために一度開いた唇は、途中でその動きを止める。“仲良さそうに”“話してる”なんていう単純な言葉ではおよそ言い表せないような空気が、二人の間に存在していた。
あんなふうに微笑むザカートを、キキは知らない。ザカートが『キキ』に優しい理由は、彼女にはなかった。
「あの子ですらなかった……」
統合に対する淡い、けれど唯一の希望すら消え失せてしまった。どころか、統合して、そこに自分が残って、モクレンがいなかったとして―― モクレンがいなかった時に、彼がどんな顔をするのかなんとなくわかってしまう。
見たくない。その事実を、目の当たりにしたくない。
でもケイロンの言葉を信じるなら、統合しないと自分はこのまま朽ち消える。
「私……」
これからどうなるのか。どうすればいいのか。どうなってしまうのか。「私」という存在はどこへ向かうのか。そればかりが頭の中をぐるぐると回っている。
「陛下」
胸のところでぎゅっと握りしめた手を、リンクスが触れた。
「昔、猫をお助けになったのを覚えていますか?」
「猫……」
キキはきょとんとする。心当たりがないんじゃない。ありすぎるのだ。猫だの鳥だのねずみだの、庭や屋根裏に入ってきたものは片っ端から構ったし、怪我をしていれば手当をして治るまで面倒を見た。小さな頃からだから、全部で何匹の面倒を見たかわからない。
「茶色の猫です。左足を怪我して……」
リンクスが詳細な説明をしてくれるが、まったくぴんとこない。リンクスは苦笑した。
「おとぎ話でよくある、私があの時の猫です、というのをやるのが夢だったんですが…… 現実はうまくいかないものですね」
「えっ――」
キキの顔色が変わり、リンクスが慌てて補足する。
「生まれ変わりではなくて、術で姿を変えて。あなたが十二になる前の日の話です」
思い出した。父が突然、再婚相手として彼女らを連れてきた日のことだ。
「怪我の手当てをして、怪我のわりに全然目を覚まさないから心配でベッドで一緒に寝た。けど朝起きたらいなくなってたからびっくりして……」
それでもまったく信じられないという気持ちで言うと、リンクスが心底嬉しそうな顔をする。
「異界の者には下界に長居するのは良くないので。…… それにあの時は目的があって―― みっともなく怪我などしてしまいましたが」
「目的?」
キキが問うと、リンクスは真剣な顔に戻った。
「あなたの魔力が、どれだけ成長しているかを確認に…… 制御の方は魂が担っていますが、それも器が耐えうるだけの大きさでなければあふれてしまって意味がない」
「どういう――」
リンクスの話すことの意味がわからず首をひねるキキに、リンクスは続ける。
「過去、あなたをさらった者はあなたの強い魔力にあてられました。性質がモクレンと似ていたからなのか…… 強い執念に囚われて、自我を失くす。…… 一般的に、悪霊と呼ばれる、そういうモノに、彼はなる」
「…… なったらどうなるの」
「強い悪霊は、ほかの良くないものを呼び寄せます。普段は天使が処理していますが、天使だけでは処理しきれなくなる。本来それらの通り道であるこの世界も、形を保てなくなる。…… 大丈夫、今しばらくは、ララ様が施した封印が効いていますから……」
「でもいつか切れる」
キキが口にして、リンクスは黙る。
「お母さんの封印が切れたら、今度は私がそれをしなきゃいけないんでしょ? でもそれは、あなたの今の口ぶりからすると統合なしではなしえない。―― 統合は、避けられない……」
思いつめたように口に出すキキの手に、リンクスが自身の手を重ねる。
「俺がわかります」
リンクスはいつもの穏和な表情からは考えられない、真剣な顔つきで言った。
「どんな小さな片鱗でも、他の誰にもわからなかったとしてもあなたは俺が必ず見つける」
覚悟だとか決意だとか、そういう言葉さえも軽々しく聞こえるようなまなざしで、リンクスはキキを見つめていた。
「約束してください」
懇願するかのような口調にキキは肩を震わせた。
「もし、そいつにあなたが知っている以外の名前を口にするように言われても、従わないで。どんな甘い言葉で誘われても、聞いたらだめだ」
「なんの…… だれの、話……」
普段とあまりにも違う彼の様子に気圧されながらキキが問うと、リンクスは「すぐにわかります」と答えた。
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