第9話
スイセンの後をついていくと、騎士たちが広い高台へ住民たちを非難させているところだった。街にはかなりの量の水が押し寄せていて、高台に避難しているのは貴族も平民も入り混じっているようだった。小舟に数人ずつ人を乗せ、水深がそれほど深くない場所へは騎士が鎧を脱いで救助に向かっている。
「あ……!」
そのなかに、義母ルイーズと義姉クラリスの姿を認めてキキは思わず声を上げた。ルイーズは小舟から娘クラリスを先に下ろして、それから自分も急いで小舟を降りようとした、まさにその刹那。突風が吹いて、ルイーズの体が傾いた。騎士がとっさに手を伸ばすが、間に合わない。お母さま、とクラリスの悲痛な叫びがこだまする。キキはへたり込みそうになった。
そればかりか、救助しようと手を伸ばした騎士もバランスを崩して水の中に落ちてしまう。とっさに近くの木につかまりなんとかその場に留まるが、流れが速くいつ流されてしまってもおかしくはない。
スイセンが動いた。騎士に手を差し伸べようとするが、目の前に現れた存在のせいでそれは叶わない。風にあおられたカーテンのようにひらめく空間。その光景に、キキは見覚えがあった。現れたのは、少年のように瑞々しく、けれど老婆のような達観した笑みをたたえた姿であった。―― が、しかし、二人の視線が交錯するとともに笑みは消え、厳しい視線が両者の間で交わる。
「…… シオン。なんのつもり?」
「それはこっちの台詞だ。スイセン、こんなところで何をしている?」
二者の間にぴりっと凍りついたような空気が漂う。
「近頃いやに頻繁に人間界に降りているかと思えば、よりによって人間にうつつを抜かしているとはな。モクレンの二の舞になりたいのか? ―― 愚かなことを」
「モクレンを侮辱するのは許さない」
吐き捨てるように言ったシオンにスイセンは鋭い視線を送った。
「僕はただ、好きになった人に幸せになってほしいだけだ」
「幸せになるかどうか決めるのはお前の役目じゃない」
「望む権利は誰にだってあるはずだ」
スイセンの反抗的な態度にシオンが眉間に皺を寄せた。それは多分、思い通りにならないことからくる不快感から、ではない。
「権利はあくまでも権利だ。こっちには仕事を完遂する義務がある。口を出さないでくれ。この男の魂は今日、この時をもって死を司る天使である私の手に渡ると運命の天使ヒイラギによってずっと前から決められている。数が足りないとわかれば、私がヒイラギに叱られる」
騎士の仲間や住民たちが剣の鞘や木の枝を差し出して助けようと試みているがあと少し届かない。騎士の手は、流されないよう木にしがみついているのでやっとだ。キキがはらはらと見守ることしかできずにいると、シオンとふいに目が合う。
「どうしてお前がここに―― そうか、なるほど」
ひとたび驚いたような顔をした彼は納得したようなことを言ったのちキキを睨みつける。
「余計なことをしてくれた。お前がそいつを起こしたんだな。眠ったままでいてくれればその隙に死んだ奴の魂を回収できたものを」
「シオン!」
スイセンが鋭く声を上げ、シオンはばつが悪そうに顔をしかめた。
「―― ともかく。その男の魂を回収するのが私の仕事だ。邪魔をしないでくれ」
何度目かになる宣告をシオンが口にするが、スイセンは「それはできない」ときっぱり言う。
「ヒイラギ様には僕から話をする。彼をここで生かすためならなんでもする。いざとなれば僕の魂だって」
「本気で言ってるのか? 人間の――」
「僕はずっと本気だ!」
スイセンの顔はついさっきの寝起きだった時とは比べようもないほど決意に満ちていた。
「―― 勝手にしろ。馬鹿者」
言い捨てると、シオンは身をひるがえした。再びその場に布がひらめく。シオンはどこかへ消えた。スイセンはすばやく騎士のもとへ寄ると、その部分だけの水の勢いを変えた。彼の手が仲間が差し出す剣の鞘に届いた。辺りから歓声が上がる。助かったのだ。
「お前、水の天使様に感謝しろよ」
「ああ……」
仲間に言われ、騎士は息を整えながら胸に手を当て、深々と頭を下げた。スイセンがいるのとは、まったく逆の方向へ。スイセンは少し寂しそうな顔をした。
「…… あの」
そんな顔にキキが思わず声をかけようと手を伸ばしたその時だった。
「いた!」
突然目の前の空間がぱっくり切り開かれて、ザカートとリンクスが飛び出してくる。
「よかった、わかりやすいところにいて……」
心から安堵したように大きく息をつくリンクスの前へ出るよう、スイセンがキキの背をそっと押した。
「急いで戻った方がいい。セヴの民にとってここの空気は良いものじゃないから。今日は付き合ってくれてありがとう」
「でも私、何も……」
そばにいただけだ。そう思って言うと、スイセンは優しく微笑んで首を振った。
「モクレンがそばにいてくれてるみたいですごく心強かった。本当に」
―― モクレン。これまでも何度か耳にした名前だ。ケイロンに術をかけられた後の夢のなかでも。
「モクレンって……」
口にした瞬間、ザカートとリンクスの顔色が変わる。「陛下、それは」とどこか焦った様子で口を開くリンクスをスイセンが手で制した。そして量の手のひらを祈るように合わせる。まさに神々しいとでもいうべき姿だった。
「これを君に」
手を開くと、中から蒼い石が嵌った首飾りが出てくる。
「遠い異国にある石だ。君の中の不安に寄り添って、時には取り除く手助けをしてくれる」
スイセンはキキに首飾りをかけながら言った。
「今日は君に会えて本当に嬉しかった。モクレンにもう一度会えたみたいで。…… 忘れないで。僕は君の友達だ。たとえ姿かたちが変わってもどれだけ時が流れても。この魂で繋がってる」
「…………」
黙ったままのキキに彼はにこりともう一度微笑むと宙に舞い上がった。
「もう行くよ。ヒイラギ様に話をしなきゃならないし、シオンがきっと怒ってるから」
城へ戻ると、体の奥底から疲れがどっと込み上げてきた。キキは足元の術式が消えるより先に床に膝をついた。「おかえりなさい、三人とも」とアステリオの人のよさそうな声のあと、こつりと蹄が床を打つ音がしてキキは顔を上げる。
「おかえりなさい」ケイロンは無感情に言った。「目的は達成されましたか? そろそろ術を解いた後の意識の混濁は収まってくる頃かと思いますが――、まあなんにせよ、早く統合なさることです。魂の入っていない体はとかく朽ちやすい。体のない魂もまた」
そう言うと、彼はちらりと小さな存在に目をやった。キキはさっきスイセンにもらった首飾りをぎゅっと握りしめた。
「モクレンってだれ? シオン様もスイセン様も言ってた。夢の中で私は『その人』だった。突然私の中に入ってきた意識や感覚や、記憶は―― その人のものなの?」
その場にいた全員が黙る。少しの沈黙の後、ケイロンが「そうですよ」と肯定した。
「ケイロン!」
ザカートが叫ぶが、ケイロンは無視して続ける。
「モクレン―― すなわち、神より樹木と草花を司る役目を賜った天使が、あなたの前世の姿です…… いえ」言った後、ケイロンは自身の言葉を否定した。「天使モクレンが先代ララ王の娘として生まれ変わり、そのために強大な魔力を得、その身に危害が及んだ結果ララ王は姫自身を二つに分けた。この世界に残しておく魂と、下界で人として育てる体―― 後者があなたです」
告げられた真実に、キキの頭は思いのほかすっきりと冷静だった。ただずっしりとした疲労感が体に重くのしかかってくる。
「…… 統合したら、私はどうなるの?」
「元の通りに戻るだけです。何もかも、あるべきかたちに」
キキの問いかけにケイロンが静かに答えた。
「元の通りって何? 『それ』になるってこと?」
キキは膝をついた自身と大差ない背丈のそれを指さして言った。
「それともその、モクレンって天使になる? それとも、まったく違う別のものになる? それって私なの? 私……」
キキは床に膝をついたままうなだれた。
「私は、どうなるの……?」
そこへ、小さな存在が近づいてきてキキに触れた。
「触らないでよ!」
鋭く飛んできた声に、『それ』はびくりと小さな体を震わせる。
「あんたに何がわかるの。ここでずっと大事にされて、甘やかされてきたあんたに、今もそうやって何もわかってないって顔してるあんたに!」
「おい、子どもに何言って……」
立ち上がりながら大きな声を出すキキを、ザカートが見かねて止める。しかし、それがなおさらキキの神経を逆撫でしたらしくキキはさらに声を張り上げた。
「子どもが何? だいたい、その子だって私と同じだけ生きてるんでしょ。私が苦しんでた間、ずっと! あんたがお母さんに甘やかされて、かわいがられてる間、私はお父さんが遠くへ仕事へ行くって言ってもわがままなんか一度だって言わなかったし、突然知らない女の人を連れてこられて結婚するんだなんて聞かされたって何も文句を言わなかった。甘やかされてるばっかのあんたとちがって――」
ばし、と鈍い音を立てて何かがキキの下半身にぶつかって、床に落ちた。
「きらい!」
何が起きたのか理解する前に再び足に同じものがぶつかってくる。
「きらいっ!」
顔を上げると、目の前のソファからクッションが二つとも消えている。
「―― ッ…… 何なの、この子!」
キキは絶句した。今にも蹴飛ばしそうな勢いのキキを、リンクスが慌てて押さえる。
「陛下、彼女は陛下自身で――」
「こんな子知らない!」
キキが叫ぶと同時に、小さな少女の泣きわめく声があたりに響き渡る。
「私……」
幼子が泣き出すと流石に分が悪いと思ったのかキキはばつが悪そうに後ずさりして踵を返す。
「統合なんて絶対にしない!」
部屋を飛び出していったキキを、すかさずザカートが追おうとするがリンクスが腕をつかんで止める。
「一人にしてさしあげた方がいい。今は彼女も混乱してる」
「今は、じゃない。ここにきてずっとだ」
ザカートは訴えるように言った。
「ここで放っておいたらこれからずっと混乱させることになる。…… それに、彼女は今まで、誰かに甘えたくても甘えられない環境にいたんだ」
ザカートに主張され、リンクスはため息を吐くと「わかったよ」と口にした。
「陛下のところへは俺が行く。君、いざとなるとどっちつかずの態度をとるだろ」
「何だ、どっちつかずって」
むっと眉間に皺を寄せるザカートにリンクスはじゃあ聞くけどと問いかける。
「君、陛下と姫とどっちが大事だ?」
「どっちって…… 選ぶものでもないだろ。だって同じ……」
「こういう時は嘘でも君が一番だと言ってやるんだ」
「は?」
嘘を言ってどうする、とでも言いたげなザカートにリンクスは「そういうところだな」と苦笑して部屋を出ていった。
「意味がわからない……」
リンクスの後ろ姿を見ながら、ザカートはソファの背もたれに手を置いて呟いた。
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