第8話
「申し訳ありません、陛下」
横からリンクスが控えめに言った。
「ケイロン様…… ケイロンはララ王の忠臣でしたので、彼女のことを思ってああいう強引な手段に出るだろうことは私たちもわかっていたのですが、なにぶん彼の――」
「うん、わかってる」
大丈夫、と返す自分にまたしても違和感を覚える。すっかり忘れていた昔のことを思い出したかのように、自身の奥底から湧き上がってきた記憶が、以前まであった何もわからないことからくる不安や恐怖をやわらげてくれている。
「どうして急に、こんな……」
「ケイロンの術でしょう、おそらくは」
戸惑うようにキキがひとりごちると、リンクスが言った。
「彼の術というよりは、ララ王があなたにかけた術を、彼が紐解いたというか、手助けをしたのだと思います。記憶を思い出す手助けを」
「記憶……」
キキは眉をひそめた。
それは、魂と肉体に分裂したことと関係しているのだろうか? ザカートが下界に降りようとした自分を必死に止めたことも、それらと関係があるのか? なにせ、ここへ来てから倒れたり気を失ってばかりで、彼らの説明を聞く暇がほとんどなかった。
目の前ではリンクスが意を決したような顔でこちらを見ている。
「―― 陛下、あなたは……」
彼が重々しく口を開いたその時だった。先ほどまでも勢いよく振り続けていた雨の勢いがさらに増した。桶をひっくり返したようだとか、滝のようだなどという表現では生ぬるい。けして普通の雨では聞こえようのない、叩きつけるような音を立てながら大量の水が上空から降っている。
「…… スイセン様が危ない」
「え?」
「行かなきゃ」
部屋の扉とは反対の、窓の方へ行こうとするキキを、リンクスは急いで止める。
「待ってください、いったい……」
「今行かないと、今じゃないと、また――」
「陛下落ち着いて」
およそ尋常でない様子のキキをリンクスは必死にいさめようとするが、彼女は何かに取りつかれたように止まらない。
「私が行かなきゃ、天使の私が」
「待っ――!」
キキがふわりと浮く。空中に水の波紋のようなものが広がる。リンクスが手を伸ばすが一拍遅い。キキは波紋の向こうへ消えた。リンクスの背筋をぞわりとした何かが駆け抜ける。
「どうした、今……」
騒ぎを聞きつけたのかザカートが駆け込んでくる。そして部屋にキキがいないと気づくとはっと息を呑む。
「いなくなった。スイセン様が危ないからと言って……」
「行かせたのか?」
「止める暇がなかった!」
詰め寄ってこようとするザカートにリンクスは声を張り上げる。
「ケイロン様に、下界へ降りるための術式を組んでもらうしかない」
「前回下界に降りてからまだ二日しか経ってないぞ」
「他に方法がない」
ふたりは言い合いながら広間へ飛び込んだ。そこには案の定、ケイロンとアステリオがいる。
「ちょうどよかった。二人とも、さっき下界との間にひずみが生じて――」
「陛下です」
小さなキキを腕に抱えたまま少し慌てた様子で言うアステリオに、リンクスが言った。
「陛下が自分でひずみを作って下界に降りました。ついさっき」
リンクスの説明を受けるなり、アステリオの顔が先ほどのリンクスのようにさっと青くなる。そのそばでケイロンがなるほどと口を開く。
「陛下を迎えに行くために下界に降りたいと」
ケイロンの言葉にリンクスが「そうです」と頷く。
「早く行かないと手遅れになる」
「魂のない肉体は主人のいない部屋と同じ――。棲む者がなければただ朽ちていくのみ、と……」
「だから早く――」
「しかしそれは私どもとて同じこと」
切羽詰まった様子でいるリンクスとは対照的に、この上なく落ち着いた様子のケイロンの声が部屋に響く。
「棲み処のない魂でここ以外の場所をうろつけばそれだけ魂は摩耗する。雨風をしのぐ家がなければ人間が生きていけないのと同じように。…… リンクス―― ザカートもですが―― あなたがたは二日前に下界に降りたばかりで、本来ならまだあと数日はここで天使の加護を受けていなければいけない」
「そんなことはわかってる!」
「よくよくしっかり胸にとどめて、ということだよ、リンクス」
アステリオが穏やかに言った。
「君が陛下を大切に想うのと同じように、君がいなくなって悲しむ者がいるのを忘れないように、とケイロンと私は言いたいんだよ」
アステリオの言葉に、ケイロンはふいと視線を逸らした。
「…… 向こうの時間で三十分。それ以上はいつどうなってもおかしくないと思ってください。あなたがたが共倒れになっては、陛下もこの世界も終わるということも、しっかり頭に置いて」
「ああ」
術式を展開しながら言うケイロンに向かって、今度はザカートが頷いた。広間の中の、ソファの後ろにある広い空間に細かな文様と文字が描かれた術式が組み上がっていく。そこへ赤々とした光が立ち上る。
「二人とも気をつけて」
アステリオが言うと同時にザカートとリンクスは光の中へ消えた。立ち上った光は穏やかな色へと変わって、床に薄く残っている。
「三人とも無事に帰ってこられるといいんだけど」
「帰ってこなければそれまでのこと」
心配そうに言うアステリオの横でケイロンがきっぱりと言った。
「彼女にしても、戻ってこられないのならこの世界ごと朽ちるのみ」
「どこへ行くんだ?」
言いながらケイロンが術式から不意に背を向けたのでアステリオが尋ねると、彼は振り返らないまま言った。
「姫のための本を取りに。…… ついでに、有事の際に立ち上げる術式の準備も、一応」
退室した男の背中を見ながら、アステリオはため息を吐いて抱えていた小さな『キキ』をソファに下ろした。
「まったく、素直じゃないんだから」
呟くと、目の前で『キキ』が首を傾げた。
気がつけば空の上だった。空の上といえど、変わらず雨が降りしきっているが不思議と服は濡れていない。不思議というなら、空の上にいることも含めてそうなのだが。キキは周囲をぐるりと見回した。なんとなく引き寄せられるように、近くの緑が生い茂る木の中をのぞきこむ。
まだあどけない少女のような、ともすればはかなげな青年のような姿の人物が、木の幹と太い枝に身を預けて器用に眠っていた。誰かに似ている。たとえるなら兄弟のような。そんなふうに思って少しの間考えてから、ふと気づく。
あの妖艶かつ大胆不敵、死を司る天使シオンに似ているのだ。ということは、彼も天使なのだろうか。連れ去られそうになった経験から、関わり合いにならない方がいいのではと思いかけるが、彼の寝姿にそんな考えはたちまち消し飛んでしまう。
なんというか、シオンに感じたような自分自身の安全が脅かされるような、あるいは見たものをみな虜にしてしまうかのような魔性的な美しさではなくて、見ているこちらがほっと癒され心が安らぐような、そんな雰囲気を持っている。
「―― ん」
そばに人がいる気配に気がついたのか、彼は身じろぎしてからゆっくりと体を起こした。そしてキキを見るやぱっと目を見開き迫ってくる。
「…… モクレン?」
雪のように白い指先で触れられて、キキはびくりと体を震わせた。癒されるようだとは思ったが、これほどまでに端正な顔を近づけられては性別など関係なく誰でも心臓が高鳴ってしまうに違いない。
「いや、あの……」
「―― ちがう……」
呟くと、彼は悲しそうな顔をしてキキから離れた。
「君は新しいセヴの王だね」
「…………」
「よかった。モクレン、ちゃんと生まれ変わることができたんだ…… うん、よかった……」
「あの!」
寝ぼけまなこでキキには理解できない話をする彼に、キキは思い切って声を上げる。
「あなたはスイセン様ですか?」
なかばしがみつくようにして前のめりになりながら問いかけたせいで、彼は文字通り目をぱちくりさせた。キキは慌てて取り繕うかのように続ける。
「あのっ、あの…… 私さっき、術をかけられて、ケイロンという人に―― あ、ケイロンというのは私の母の、先代の王の忠臣だった人なんですけど、その人が、というか母が私にかけた術をその人が解除してから私、なんだか変で、気づいたらこんなところにいるし、スイセン様が危ないって思って、気づいたら口走ってて、本当にそう思ったけど、でもなんでそう思ったかもわからなくて」
「うん―― うん、えっと……」
彼は支離滅裂とも言えるキキの話にいちいち相づちを打ちながら聞いて、ふと口を開いた。
「確かに僕はスイセンだけど、全部を僕の口から説明するのは難しいな……」
「え、あの…… この雨って、スイセン様が降らせ続けていらっしゃるのではないのでしょうか……?」
申し訳なさそうに言うスイセンにキキはおずおずと問いかけた。するとたちまち、スイセンの顔色が変わっていった。そしてぱっと体の向きを変えて立ち上がり、木の葉をかきわけて外の様子を見た。そういえばこの木は、不思議なことに葉っぱの隙間から雨が一滴も入ってこない。
「どうして…… だって雨は……」
「スイセン様?」
「雨は昨日止めたはずなのに!」
突然ヒステリックに叫び出したスイセンにキキはびくりと肩をすくませた。それを見てスイセンは我に返ったのか、肩で大きく息をした。
「…… どうしよう…… どうしたら……」
それから、何か決心したようにキキの方へ向き直る。
「君、名は?」
「え?」
「君の現世での名は?」
不意に尋ねられて、キキはまたしてもおずおずとした様子で口を開く。
「き…… キキ…… キキといいます」
「キキ。いい名前だね。―― お願いがあるのだけど」
天使に頼みごとをされるのは初めてだ、とキキはどこか他人事のように思った。
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