第4話
目が覚めるとベッドの上だった。泣きつかれてしらない間に眠っていたらしい。薄いカーテンの向こうから柔らかく西日が差し込んで来るのがわかる。
「お目覚めですか?」
数回瞬きすると視界がはっきりしてくる。そばにいたのがリンクスだとわかると、キキは横になったまま天井に視線を戻した。
「シオン様に会ったとザカートから聞きました。あの方に会った時は、くれぐれも目を合わせませんよう……」
「何をすればいいの?」
自身の言葉を遮る声に、リンクスは少し驚いたように顔を上げた。
「何か私にしてほしいから呼んだんじゃないの? ここに来てからずっと視線を感じる。…… まるで品定めでもするみたいに。そう思ったら、天使が出てきた。最初の服を乾かしてくれた風も、その前のここへ来る時の吸い込まれるみたいな水も、突然現れた崖も、全部天使がやったことなんじゃないかって…… おとぎ話みたいだけど、そうでも考えないと説明がつかない」
リンクスはキキの話をじっと聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「―― ええ。おおむねおっしゃる通りです。ただ、私たちが貴方に頼みがあるのと、天使たちがこぞって貴方の様子を窺っているのはまったくの別件です」
「え、そうなの?」
「ええ。先に着替えませんか? その服も素朴で素敵ですが、こちらでも新しいものをいくつか用意したので。陛下さえよければ、それを着て皆でお茶の時間にしましょう。もちろん、きちんと説明をした後で」
リンクスに促され、キキは新しい服に着替えた。幼い頃に父に買ってもらった服に似ている。リンクスに見せると、彼は「よくお似合いです」と褒めてくれた。
「きついところや、緩いところがあれば教えてくださいね。ザカートに言って直させますので」
「あの人、裁縫ができるの?」
まさかここで出てくるとは思わなかった名にキキは思わず尋ねた。
「できるも何も、そのドレスはザカートが仕立てたものですよ。寸法は同じ年頃の女性の平均的な値を参考にしたと言っておりましたが」
へえ、と呟きながらキキはさっきよりもじっくりドレスを見た。自分も裁縫はそれなりに得意だと思っていたが、その比ではない。あの仏頂面の男が、このドレスを一針一針縫ったのかと思うと……。なんだか微妙な気持ちになる。
「…… それで、私にしてほしいことって」
着替えによってすっかり逸れていた話題を戻すと、リンクスはそうでした、と思い出したように言った。
「―― 統合です」
統合、とキキが言葉を反芻すると、リンクスがええ、と頷く。
「分裂させた経緯もあるので、今すぐということではありません。時機を見計らってすることになります」
「元通りに戻すってこと?」
「そうです」
キキはごくりと唾を呑んだ。どうも実感として入ってこない。自分のこととは思えない。
「…… もうひとつの方は?」
天使からの視線はその統合の瞬間まで続くのだろうか。そう思って尋ねると、リンクスは困ったように眉尻を下げた。
「それは、本人から聞いた方がよろしいかと」
本人というのは天使たちのことだろうか。確かに、本当に何か用があるならば先ほどの天使のようにいずれキキの目の前に現れるかもしれない。―― 彼のように、突然連れて行こうとするかもしれないが。考えて、キキはぞくりと背筋を震わせた。
「ただ、なるべく一人にはならないように気をつけてください。先ほど経験されてわかったかと思いますが、ここは下界ではありえないことが起こる場所ですから」
「わかってる」
ありがとう、と礼を言いながらキキは頷いた。
「他に行くところもないし、その統合? まで大人しくしてる。…… あれと仲良くできるかはわからないけど」
そう言うと、リンクスはわずかに安心したような顔を見せた。
「それがいいと思います。さあ、お茶の時間にしましょう」
リンクスに案内されて大きな両開きの扉のある部屋に入った。今度はおかしなことは起こらなかった。そこは広間のような場所で、壁際に暖炉も備わっているのにキキにはどうしても冷たく拒絶されているように感じられた。
部屋を見回すと、あの小さな存在がいない。いるのはザカートだけだ。さっき彼の前でみっともないほど泣いてしまったので、目を合わせるのが少し恥ずかしい。
「―― 姫は?」
リンクスも同じことを思ったのか、窓際に立っていたザカートに尋ねた。
「キキなら部屋だ。かくれんぼで走り回りすぎて疲れて寝てる」
彼は窓際で腕を組んだまま言った。二人のために茶を注いでくれそうな気配はない。小さなあれには、きっと望まれればしてやるんだろう。今だって気のすむまで遊びに付き合ってやって、力尽きた彼女をベッドまで運んでやるのは多分、彼にとって珍しいことではないはずだ。
さっきだって、肩を抱いてくれはしたが、特別な慰めの言葉などはなかった。それこそ、父を亡くした当初、義母や義姉が自分に向かって言ったような。
「…… それ、嫌なんだけど」
ぼそりと口にしたつもりの言葉は思いのほか部屋の中で強く響いて滞留していた。二人がそろって突然発言したキキに視線を送っているのがうつむいた視界の端に映る。
「あっちをキキって呼ぶの、すごく嫌なんだけど。なんだか自分を否定されているような気分になる」
下を向いた状態のままぼそぼそと文句のように口に出せば、リンクスが「それは」と少し慌てた様子で駆け寄ってくる。
「大変失礼を……」
「だからなんだ? こっちはずっと彼女の方をキキと呼んでるんだ。後から来たのはそっちだろ」
「勝手に呼んだのはそっちでしょ? 私は連れてこられたの、こんなところ来たくて来たんじゃない!」
「よく言う。帰る家もないくせに」
「ザック!」
ソファひとつを挟んで言い合うキキとザカートにリンクスが介入するが、キキはかまわず言い返した。
「帰っていいなら帰るわよ! 帰してよ、もといた家に!」
キキの言葉を聞いてザカートは、はっと鼻で笑った。
「自分を虐げる継母とその娘がいる家にか? 正気か」
「二人にだって事情がある。あなたになんかわからない事情が」
「そうだろうな。自分よりも弱い立場の存在を痛めつける理由なんかわかりたくもない」
ザカートの目は冷ややかだ。自分を受け入れてくれないこの城と同じだとキキは思った。
「どれだけ姿かたちが変わっていようと、異界人の方がずっとましだ。見た目ばっかり綺麗で、中身の詰まっていない人間の――」
ぱん、と乾いた音が部屋じゅうに響き渡った。ソファの向こう側へ身を乗り出し、衝動的に起こした行動ののち、キキは興奮の色が混じった息を吐き出した。しばらくお互いぼう然として、先に意識を取り戻したのはザカートだった。自身が頬を叩かれたことに気づくときっ、と鋭く睨まれてキキは我に返った。
「陛下」
呼びかけてくるリンクスから顔をそむけ、キキは部屋の入り口に足を向けた。ここへ来てから―― いや、ここに来たこと自体受け入れることでいっぱいいっぱいなのに、自分がもうひとりいたり、死の天使に連れていかれそうになったり、それ以外にもいろんなことがありすぎて、倒れてしまいたいくらいなのに。
扉に手をかける直前、目の前でノブが動いた。また何かの怪奇現象かと身構えた瞬間、開いた扉の向こうから人影が見えて安心したのもつかの間、視線を上に動かしたキキは目を見開く。
「姫様、お眠りになりましたよ。先ほどずいぶんはしゃいでいらしたのでお疲れになってしまって…… あっ」
キキより頭ふたつかみっつぶんはゆうに大きい上背が、キキに気づくなりぱっと顔色を変えた。―― ように見えた。見えたというのはつまり、彼の顔では表情の変化がわからないからで、なぜわからないかというと――。
「キキ陛下でいらっしゃいますか? わたくし、アステリオと申しまして、ララ王には生前とてもよくしていただいて――」
人間の体の下にくっついた、茶色い牛の顔がぐっと自分に寄る。
「い―― いや、あの」
なんとなく、嫌な顔などはしてはいけない気がする。かろうじて耳に入れることができた彼の話を聞くにリンクスやザカートと同じここの住人なのだろうし。…… でも、ということはこの人―― ヒトかどうかは置いておいて―― もあの小さな物体に対してザカートのように優しく接するのかと思うと、なんだかくらくらしてくる。
「アステリオ。貴方、また机の上に本が出しっ放しでしたよ」
キキはまたしてもぎょっとした。牛頭男に続いて現れたのは、上半身は人間の男、そこから下は馬の胴体がくっついた生き物だった。それがゆっくりとこちらを向いてうやうやしく頭を下げた瞬間、今度こそキキはその場に倒れた。
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