第3話
「ザックおかえりー!」
半ば叫ぶかのようにザカートの背中―― というよりは足に飛びついてきたそれを見た瞬間、キキは自分の心臓が大きく拍動するのを感じた。
白でもない、銀でも、まして黄色でもない。そんな髪色の人間は自分以外に知らない。
自分よりはるかに低い位置にある目がキキを見る。じっとこちらの様子をうかがうように、あるいは睨んでいるようにすら見えた。
「それ……」
ザカートの腰下ほどしか背丈のない「それ」から後ずさりしながら、キキは言った。言ったつもりだったが、自身から出たはずの声はかすれていて、ほとんどささやきのようでもあった。その小さな物体は、ザカートの足に遊ぼう遊ぼうと言ってまとわりついている。
「キキ」
ザカートがさっきまでの姿とは想像もつかないようなそれを見下ろして発した台詞に、キキの心臓は再び大きく鳴った。
「キキ、アステリオは?」
「あのね、いまかくれんぼしてるの。キキが鬼でね」
「じゃあ一緒に探しに行こう」
ザカートは小さな手を引いて去っていってしまう。去り際、何事か耳打ちされたリンクスは頷いてキキをふりかえった。
「お部屋にご案内します…… 陛下?」
大丈夫ですか、とリンクスが呼びかけてきて、キキはようやく我に返った。彼に案内された部屋にあるソファに腰を下ろしてぼんやりしているとリンクスがお茶を注いだカップをキキの前に置いた。
「…… あれは何なの」
ひとりごとのように口にしたキキの前で、リンクスがどう返すべきか迷っているような顔で斜め前のスツールに座った。それを横目で視界に収めながら、キキは「私は」と口を開いた。
「ちょうどあれくらいの年の頃までの記憶がない。子どもの頃の記憶なんてみんなそんなものだって言われたけど、それ以降の記憶みたいに薄れてるとかそういう感じじゃなくて、本当にすっぽり抜けてる」
「…………」
「そのことと、『あれ』と…… 何か関係があると思っていいの?」
リンクスは黙って聞いていたが、しばらくすると切り出した。
「まず、貴方は五つの時までここにいました。ララ王は後継者として貴方をお育てになるつもりでしたが…… 貴方の五歳の誕生日に事件が起きた」
彼の口調は淡々として―― というよりは、そうあるよう努めているようだった。
「誘拐です。何者かが城へ忍び込んで、貴方をさらった。貴方のその、大きすぎる魔力が原因です。…… 幸い何事もなく貴方は城に戻ることができましたが、ララ王は貴方を魔力ごと心と体とに分けました。今後また、同じことがあっても大丈夫なように、魔力を分ける意味もありましたが…… 異界は実態を伴わない世界です。傷つけられたのが魂だけなら、いざという時に修復が効きやすいですから」
リンクスの、さっきまでとは違う緊張しているような話し方が、事態の重さを切実に物語っていた。キキは無意識にソファの生地に爪を立てた。
「…… 体は要らないから、追い出したってこと」
「…… そんなことは」
キキが言うと、リンクスははっとしたように顔を上げた。キキは立ち上がる。
「ひとりにさせて」
扉に手をかけると、背後でリンクスが慌てて声を出す。
「待ってください、一人で――」
キキはかまわず部屋を出た。ひやりとした空気が体を包む。…… 城に入る時にも思ったが、どうも拒絶されているような気がする。
過ごした時間があまりにも少ないから? この体は母に捨てられた、要らない部分だから? だから、城主である彼女のいたこの城にさえ、受け入れられないのだろうか?
知らない廊下を進み続けて、キキはふと足を止めた。部屋を出てひたすらに歩いていたせいで来た道がわからない。ここまでまっすぐ歩いていたとはいえ広い城だ。部屋に戻れなくなっていたら一大事だと思いふりかえるとキキは
「え……?」
と困惑の声を漏らした。ふりかえった先には眺めのいい渡り廊下のようなものが続いている。キキが今立っている棟と反対側の棟をつなぐようにかかっているその廊下はそこだけ天井がなく、周囲の景色を一望できるようになっている。が、おかしいのはそこじゃない。渡り廊下の向こう―― つまりキキが歩いてきたと思われる方向には重厚な扉があって、しっかりと閉じられている。キキはこんな場所を歩いてきた記憶も、たったさっき出てきた部屋以外の扉を開け閉めした記憶もない。考え事をしているうちに、無意識に扉を開けて、渡り廊下を歩いてここまで来たんだろうか? いやしかし、ここへ来てからというもの太陽の日差しは強く、外に出たら気がつくはずで……。
「はあ?」
首を傾げながら渡り廊下の先へ続く扉を開くと、そこは湯殿だった。さすがにおかしい。急いで湯殿から外に出る。
「ええ?」
今度は庭か。異界ではごくありふれた間取りなのだろうかと思って天井を仰ぐと、明らかに外観よりもずっと大きく抜かれた天井の上に空が広がっていた。キキが立っていたのは、見たことのない樹木や草花があちこちに咲いている場所のど真ん中だった。ありえない、ともと来た道を戻ろうとして、そこにあった光景にキキは目を見開いた。
木々の間を、木漏れ日に目を細めながら歩く男性。その隣を、女性が男性の腕をとって歩いている。
―― 父と母だ。
「…… っ……」
どうして? とかそういうことを考えるより先に、キキは手を伸ばしていた。が、ふたりは笑い合いながら木々の陰へ消えていった。急いで後を追いかけるが、ふたりの姿はもうどこにもない。
「おとうさ…… お父さん! どこなの、ねえ!」
目蓋が熱を持ってくるのを感じながら、キキは辺りを見回した。
「出てきてよ、ねえ、お父さん! ねえってば!」
木の陰、草むら、庭じゅう探し回るが、父の姿は見当たらない。
―― 父から聞く母の話は、褒め言葉ばかりだった。いつも彼女の美しさばかりを褒めたたえて、周囲が彼を、何か魔の物に取りつかれたのではと噂するのも当然だった。それが噂でなく真実なら、さっきのリンクスの話でひとつ合点が言ったことがある。
父は、母のことは褒めても同じ髪色のキキを褒めたことは一度もなかった。
「私のことも褒めてよ! かわいいって言ってよ、綺麗だって言ってよ! 私が―― キキが一番だって言ってよ! なんであんな人うちに連れてきたの、ねえっ……」
それは多分、自分が本来持つすべての魔力を分けられたわけじゃないからだ。父の母に対する言葉が魔に侵されたことによるものであるなら、あの小さなモノと半分に分けられる前だったなら。
「お父さんッ……!」
もっとたくさん、褒めてくれたかもしれないのだ。
「なんだ。騒がしいな」
目の前の景色が、ふわりと揺れ動いた。ひらめいた、と表現する方が合っているのかもしれない。カーテンが風でひらりと動くみたいに。長いドレスや、マントの裾みたいに。
かと思えば、中から人が出てきた。
男か女か、よくわからない。地面に足がついていない。年端のいかない少年のようにも見えるし、長年生きて知識を携えた老女のようにも見える。
「ようやく戻ってきたというのに何か気に入らないことでもあるのか、片割れどの?」
美しい。姿かたちがとか、そういう安っぽい話じゃなくて、もっとこう、何か人を魅了して、すっかり虜にしてしまうような美しさがある。異界の住人というものは、みなこんなふうに外から来た人間を魅了してしまうんだろうか。あまりの美しさに、膝が震える。その様子に、目の前の人物がふっと笑みをこぼした。それもまた美しくて、キキは目が離せない。
「たった数百年のうちにすっかり人間のようになったな。それとも下界で過ごすとみんなそうなるのか―― まあいい」
彼は宙に浮いたままキキを見下ろし、左手を差し伸べた。
「共に来るか? 神は喜ばれよう。使命も願いもすべて忘れて、神の下でもう一度眠りにつくといい」
頭の奥で彼の声が響いて、じんわりと沁みこむように溶けていく。頭がぼんやりとしてきて、何も考えられなくなる。差し伸べられた手に、キキが自身の手を伸ばしたその時、後ろから強い力で引っ張られた。
「死にたいのか、馬鹿っ!」
どすんと後ろに尻もちをついて、ようやく我に返る。が、それでも今何が起きたのか、また起きようとしていたのか理解できないでいると、目の前で浮いたままの彼が変わらず微笑んでいた。
「残念だな、もう少しだったのに」
「わが主をからかうのはおやめください、シオン様」
その名を聞いて、キキはぞっとした。それは、誰でも知っている死を司る天使の名前だ。生の天使と一緒に誰でも親から習うものだし、目を合わせると死の国へ連れていかれるのだと物語にもなっている。
「死は救いさ。ザカート。お前が一番よく理解しているはずだが」
「…… 待つと決めました。約束を果たすまではその手を取ることも、彼女に取らせることも叶いません」
天使の微笑みに対し、ザカートは目を合わせない。きっぱりと断られて、死の天使シオンはぱっとマントをひるがえした。たったさっき目の前に現れた時のように、ゆらりと景色の中に消えていく。
キキはぼんやりと宙を見つめていた。
「…… うさん…… お父さん、死んじゃった……」
ぽつりと呟くと、ザカートが「ああ」と頷きながらキキの肩を抱いた。
「そうだな」
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