第2話
男の声が聞こえる。自分の体が、風を受けてゆっくりと落ちていくのを感じる。まあまあの痛みと、水の冷たさを感じると同時に、背中を二本の腕に支えられた。
(―― え?)
腕の持ち主を見上げるより先に、頭上から声がする。
「ほら、念のために待機しててよかっただろ、ザック」
「あんな監視みたいな真似、俺は好きじゃない。リンクス、あんたと違って」
左右から聞こえる声に対して問いただす間もなく、背中から吸い込まれるような感覚に襲われる。キキは苦しさに思わず口から息を漏らした。鼻から水が入る。もうだめ、と思った次の瞬間には激しく咳き込んでいた。
何度か咳き込み口の中のものを吐き出してからようやく、自身が水から解放されたことを知る。膝をついて呼吸を整える最中、頭上から手を差し出される。呼吸を落ち着けてから手を借りて立ち上がると、目の前の男たちがそろって膝をつく。
「よくぞおいでくださいました。民一同、貴方様のご帰還を心よりお待ち申し上げておりました」
「は……?」
どちらかといえば温和な顔立ちの方が言うが、意味がわからず戸惑うキキに彼はかまわず立ち上がりながら続ける。
「下界でもお健やかにお過ごしだったようで何よりです、陛下」
まったく聞き慣れない、おそらく自分には一生呼びかけられることはないと思っていた敬称に怯むと、目の前でもうひとりの男がはっと鼻を鳴らした。
「お健やか、ね。まあ、体が無事だったのはこっちにとっては幸いだが」
皮肉っぽい言い方をする彼に、温和そうな方が「ザカート」とたしなめるように言った。ザカートと呼ばれた彼はもう一度ふんと鼻を鳴らしながら自身の上着を脱いでキキの濡れた肩にかけた。どういうわけか、彼も水の中にいたはずなのにこの上着は濡れていない。
「あ、ありが――」
礼を言う間もなく、彼はキキに背を向けていつのまにやらそばにいた、馬に似た動物の方へ向かっていった。隣でもうひとりがくすくすと笑っている。
「リンクス」
ザカートが馬の手綱を引きながらゆるんだ顔の男を不愉快そうににらみつけて呼んだ。リンクスと呼ばれた男は首を傾げた。
「え? 君が乗せたらいいじゃない」
「あんたのが上手い」
二頭目の馬の方へ手を伸ばすザカートを呆れたように見つめるリンクスに、キキは「あの」と声をかける。
「いったいどこに……」
「貴方の城へ」
間髪入れずにキキの顔をまっすぐ見つめて答えたリンクスは、それからにこりと微笑んだ。
「まずは服を着替えて、髪も整えた方がいいですね。さすがに濡れたままだと――」
突風が吹いた。とっさに腕を顔の前に出す。勢いのある風だったが、どこか優しく、包み込むような温かさのあるようにも感じた。風が止み、再び目を開けた時、キキは己が目を疑った。
髪や服が皮膚に張り付く感触がなくなった。軽やかにひらめくスカートの裾が、まるで新品のように綺麗だ。
「歓迎ムードだな、陛下」
信じられない現象に戸惑っているキキの目の前でザカートが皮肉っぽく言った。
「…… その、陛下っていうのは……」
問いかけようとしたそのとき、背後から地響きのような音が聞こえてきた。
「陛下、乗って!」
「いや、あの――」
「口は閉じてろ」
舌を噛む、と忠告されて反射で口を閉じる。二人の手を借りて馬に乗ると、後ろからリンクスが乗ってくる。そのときに後ろをふりかえって目に入ったものに、キキは目を見開く。
見たことのない生き物の大群が、緑一色の草原の向こうからこちらへと押し寄せている。
「な……」
あれなに!
上げたかった声は、驚愕のあまり出てこない。その生き物は、牛のような馬のような姿かたちで、顔は羊やヤギにも似ていた。足が六本もあるせいなのか、それとも大挙して押し寄せているせいなのか、足音がうるさい。迫りくるような感覚が、恐怖を煽り立てる。
「二手に分かれよう」
リンクスが提案して、ザカートは頷いた。
「俺は向こうから迂回して行く」
「了解」
馬の軌道が変わった。キキたちと、反対方向へ走るザカートの方へ六本足の生き物が分かれていく。途中、多すぎる足のためか転んでいるものもいた。それでも数が多すぎるのと向こうの速さもあって撒くことができない。例えば、今目の前に崖が現れて馬ごと飛び越えることができたなら、一気に撒くことができるのに。
「しっかりつかまってて、陛下」
何度か後ろをふりかえっていると注意され、キキは前を向いた。そして、目の前の光景にキキはまたしてもぎょっとする。
さっきまで何もないただの草原だったはずの場所に崖が現れている。崖は飛び越えるのに躊躇するような幅で落ちたらどうなるかなど、考えたくもない。ぞわりと背筋を震わせるキキの後ろで、リンクスがまた「陛下」と呼びかけた。
「舌を噛まないように、歯を食いしばって。飛び越えることだけ考えていてください。余計なことは考えないで」
リンクスが話している間にも、崖は迫ってくる。キキは恐怖を堪えるようにぎゅっと目を閉じた。ドッ、と馬の脚が地面につく音がしてから目を開けてふりかえる。押し寄せてきていた生き物は、先頭が崖へ落ちていき後ろの方はそれを見て直前で足を止めた。よかった、とキキが無意識に口の中で呟くと、頭上でリンクスもほっとしたように微笑んだ。
「陛下が祈ってくださったおかげです」
「…… あの」
歩みが穏やかになった馬に揺られながら、キキは口を開いた。
「陛下ってなんですか? ここはいったいどこなんですか? 歓迎ムードとか言ってましたけど、そんなふうには全然思えないし、それに……」
先ほどから視線を感じる。多分、最初に湖の中から『ここ』に来た時からだ。辺りはまっさらな草原であるのに、じっとこちらを窺うような視線のようなものを感じる。
「…… 着きました。あれが貴方の城です」
リンクスはキキの問いかけに答えないまま草原を進んで、先にある建物を指さした。城と言われるとそう見えるが、石造りのそれはなんだか要塞のようにも見える。城の前には、ザカートがすでに到着していた。
「―― ここはララの城」
リンクスは馬からキキを降ろしながら言った。
「ララ?」
首を傾げるキキに、リンクスが頷く。
「先日亡くなった貴方の母君、ララ王の城です。そして、今日からはキキ陛下、貴方の城になる」
「先日……」
頭がついていかない。母が亡くなったのはもう十年以上前のはずだ。困惑している様子なのを見て、ザカートが「やっぱりな」と静かにため息を吐いた。
「あの女、この件に関わる人間全員に記憶操作してやがる」
「ザカート!」
苦々しく言ったザカートに、リンクスが鋭く声を上げた。
「陛下に―― 前王に対してしていい物言いじゃないぞ」
「事実だ」
「事実でもだ」
リンクスはキキに向き直って城の中へ促しながら「初めから説明します」と話し出した。
「この世界は≪セヴ=レファーラ≫―― 天界と下界の狭間に存在する空間で、人間には異界と呼ばれている場所です。貴方がお生まれになる前の話です。貴方の父親とララ王は、ここで出会いました。…… もともと人間界に憧れがあった彼女と、異界に偶然迷い込んだ彼と……。恋に落ちるのは一瞬だったそうです」
石造りの階段は長く、冷たく、キキを拒絶しているような気さえした。
「人間の子を身籠ったララ王は、周囲の反対を受けながらこの城で貴方を産みました」
「…… ちょっと待って」
突然のことで混乱しそうになる頭を押さえながら、キキはリンクスの話を止めた。
「私は、生まれてからずっと父のところで育ったはずなんだけど……」
「本当に?」
後ろからザカートが言った。
「絶対にそうだと言い切れるか? 幼少期の記憶で、抜けていることはひとつもないと?」
ザック、とまたリンクスがたしなめた。
「その件に関しては、部屋に着いてからゆっくり話します。今後のことも含めてしっかり……」
リンクスが説明を続ける横で階段を上り終えたキキは、廊下の向こうから聞こえてくる足音にふりむいた。
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