いとしきわが哀しみたちよ

水越ユタカ

第1話

 ―― 同じ夢を、何度も見る。

 自分から見える視線は低く、どうも小さい頃の夢のようだった。立ち位置のせいなのか大人たちの顔はよく見えない。夢の中の自分は、周りにひどく甘やかされていた。大人と遊んでいると時折、もういないはずの母が来て膝に乗せてくれる。最初に見た時にひどく幸せだったから、何度も思い出しているうちに思い出している時のことを夢に見るようになっただけなのかもしれない。それでも、彼女は母に会いたくて、あの優しい夢が見たくて、ひたすらに願いながら今日も目蓋を閉じる。



 少女の髪の色は、月の光の色をしている。

 銀でも金でもなく、むろん白でもない。彼女の髪は光の加減であるときは蜂蜜のように甘く、またあるときは空から舞い落ちる雪のように儚く、そしてまたあるときは輝く宝石のような美しさで見る者を魅了する。

 先月、父が死んだ。

 不慮の事故だった。将来のことで意見が食い違って、喧嘩をしたばかりだった。

「キキ! ―― ねえ、キキったら、いないの?」

 義理の姉クラリスの声がして、キキは急いで屋敷の中に戻った。

「キキったら…… ああ、いたいた」

「お呼びでしょうか、お義姉さま」

「また庭にいたの?」

「…… ええ、まあ……」

 頷くと、クラリスは呆れたようにため息を吐く。

「お父さまが亡くなられたのは私もすごく悲しいわ。でも、あなたがいつまでもそんなふうではお空のうえのお父さまだって安心できないでしょう」

 なにも返さずに黙っているキキに、義姉は続ける。

「今後のことだったら、大丈夫よ。お母さまが良いようにしてくれるわ。お母さまの言うとおりにしていれば、なにも心配することはないわよ」

 彼女の慰めるような口調にあいまいに微笑みながら、キキは口を開く。

「それでお義姉さま、ご用は……」

 たずねられて、義姉は「ああ、そうだったわ」と腕にかけたドレスを持ち上げた。

「今度の舞踏会、これを着ていこうと思っているのだけど、袖のところがほつれてしまっているのよ。キキ、あなただったらこのくらい簡単に繕えるでしょう?」

「ええ、もちろん。すぐに直しますわ」

 クラリスはありがとう、と短く礼を言って自室に戻っていった。彼女が入ったのは数年前まではキキの部屋だったところだ。

 何年か前、父親が再婚した。母親は幼い頃に亡くなっていて、父本人が仕事であまり家にいないことと、彼の子どもがキキ一人で後継ぎがないことから、周りにさんざんせっつかれての結婚だった。

 父の再婚相手はとある旧家の出らしい女だった。姉となったクラリスの服やらなんやらの荷物が多いからと、自分の部屋を譲った。あからさまに虐げられているとか、そういうわけではない。むしろ、義母はキキにとても優しくて、嫁ぎ先を世話してくれるとまで言ってくれる。

「じゃあ、行ってくるわね」

 舞踏会当日、これ以上ないほど着飾った二人は、そう言ってキキをふりかえった。

「キキ、本当ならあなたも連れて行ってあげたいのだけど……」

「わかっております、お義母さま」

 申し訳なさそうな顔の義母に言うと、彼女は「いい子ね」とキキの肩を叩いた。

「ああ、そうそう、このあいだの縁談だけれど――」

「申し訳ありません、お義母さま。せっかく持ってきていただいたお話なのに」

 義母に向かって申し訳なさそうな顔をしてみせれば彼女は「いいのよ」と微笑んだ。

「嫌なものは仕方ないわ。―― さ、本当にそろそろ行かないと」

 留守をよろしくね、と言い置いて、義母は義姉と出かけていった。

 キキの髪色がめずらしいからと、よからぬことを考える者に目をつけられてはいけないからと、ここ数年はほとんど外に出ていない。というのも、実際にこの髪の色を理由に、小さい頃誘拐されたことがあるからだ。そのときのショックなのか、幼かったからなのか、誘拐された時のことを含めて、それ以前の記憶がまったくない。

 義母はその一連の事件を知っていて、亡き父に代わってキキの嫁ぎ先を探してくれているのだろう。

 部屋の時計が鳴って、キキははっと我に返った。部屋の中はとっくに日が落ちて、すっかり暗くなっていた。いつのまにかソファで眠ってしまっていたようだった。いったい今は何時ごろなのだろうかと腰を浮かせた、ちょうどそのときだった。玄関の方から、足音が聞こえてくる。義母のとも、義姉のものとも違う。

「―― だれ……?」

 足音はキキがいる居間の前で止まった。その人物が手に持ったランタンをかかげると、彼の顔が薄ぼんやりと見えてくる。

「私です、キキ嬢。手紙で書かせていただいた通り、貴女の髪のように美しい満月の夜にジェラルドが貴女をお迎えにまいりました」

 まったく覚えのない話だ。キキは眉をひそめた。ジェラルドという名前は、どこかで聞いたような気がするがどこで聞いたのかは思い出せない。キキが黙っていると、ジェラルドと名乗った男がそんな、と情けないような声を出した。

「あんまりです。どうしてなにも言ってくださらないのですか? 急に私のことが嫌になったのですか? 手紙の中では、あれほど情熱的な言葉をくださったではないですか」

 本当に意味がわからない。覚えがない。手紙なんて今まで書いたことももらったこともなければ、筆すら握っていないのだ。困惑していると、男が足音とともにこちらへ歩み寄ってきて、キキは思わず身をひるがえした。

「あ、待って!」

 声を上げた男が、どこかに体をぶつける音がする。向こうは明かりを持っているが、こちらとて十六年住み慣れた我が家だ。キキは今が好機とばかりに駆け出した。男が再びどこかへぶつかりながら、追いかけてくる音がする。途中、だれか、と声を上げてみるがだれも駆けつけてくる気配はない。信じたくない仮定が、確信となっていく。

 キキは自室に駆け込んだ。私物が片付くまでだから、と追いやられてもうずいぶん経つ。ほとんど屋根裏と言ってもいいこの部屋は天井が低く、キキが立つのがやっとだった。

「聞いてください、どうか――」

「来ないで!」

 部屋の入り口に額をぶつけながら追いかけてきた男に、キキは牽制するように叫んだ。

「来たら飛び降ります」

 半分パニックのような状態で口に出すと、彼もまた激しく動揺するような顔を見せた。この男についていったらどうなるか、具体的な想像はできないが嫌な予感がする。行くな、と全身が警鐘を鳴らしているように聞こえる。キキは後ろをふりかえった。そこは庭と隣接した大きな湖があって、いつもと同じように月の光を受けて輝く水をたたえている。―― 泳ぎの経験はないが、運さえよければ助かるだろう。男はひどくあわてた様子でもう一度「聞いてください」と口にした。

「私の気持ちを疑っておられるのですか? 確かに、手紙だけで信じていただくのは難しいかもしれませんが…… でも真実です。お母さまの借金はすべて私に任せてもらってかまわないし、今後も貴女たち家族の何不自由ない生活を約束します。その髪色に対して好奇の目を向ける者たちからも絶対に貴女を守ります」

 ―― ああ。

 目の前が真っ暗になるような感覚と同時に、キキは今までのことがすっかり腑に落ちた。そんなはずはないと否定し続けてきた違和感が、真実に色を変えて自分のもとに戻ってきた。

 私は売られたのだ。男のことも思い出した。少し前に、義母が縁談として持ってきた、とある貴族の子息だ。

「その髪を美しいと思ったのも本当です。不気味だとか呪われているとか言う人間がいるだなんてことが信じられないくらい…… とても、とても美しいと思います。貴女を愛しています、キキ嬢」

 心情を吐露する彼に、キキは何も返さなかった。忌避されるのも、特別な好意を向けられるのも、キキにとっては同じことだった。何も言わずに窓際から離れると一瞬、男が安堵したような顔をする。それを尻目にキキは鋏を手に取って、背中まで伸びた自分の髪に刃を入れた。男が唖然としている間に、もう片方の肩に流れている髪にも鋏を入れる。

「差し上げます」

 キキは窓の方へ向かって踵を返した。そうして、我に返った男が止める声を背に受けながら、キキは窓の外に落ちていった。

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