第5話
雨が降り始めていた。
ザカートは雨の音を耳にしながらベッドに横たわるキキの頬に手を伸ばした。本来なら、異界への異動でずいぶん疲れているはずだ。まだ『キキ』と彼女を合わせるべきではなかった。リンクスらと話した当初の予定でも、彼女に『キキ』を合わせるのはもう少し先になるはずだった。
キキの髪が、燭台の明かりで不思議な色にきらめいた。金でも銀でもない、言葉ではどうとも表現しがたい色だ。綺麗だと思う。キキは小さなうめきとともに身じろぎして、ザカートは思わず手を離した。
「陛下の様子はどう?」
リンクスが声をひそめながら部屋に入ってくる。ザカートはベッドから離れながら「変わりない」と答えた。そう、と言うリンクスのにやついた視線が妙に癇に障ったのでにらみつけてやるが効果はなさそうだった。
「…… 統合の話、したんだろう」
話題を変えたくて切り出すと、彼は「うん、まあね」と頷いた。
「でも、あまり受け止められていないみたいだった。口では平気そうだったけどね」
「だろうな」
当たり前だ。平気でないことは、一日のうちに二度も寝込んだことでもわかる。知らない場所に連れてこられ、自分の片割れの存在を知らされ、見たこともない生き物を見せられて、平気でいられるわけがない。
「君が初めてここに来た時のことを思い出した」
燭台に油を足しながら言うリンクスの前で、ザカートは思い切り不快そうな顔をした。
「…… なんにしても、彼女がまず『キキ』を受け入れないと、という話をさっきアステリオ様やケイロン様とした」
「うん……」
そうだな、と頷いてザカートが立ち上がると、リンクスはあれ、と首を傾げた。
「いてあげないの?」
「もうどうせ朝まで起きないだろ」
「朝までいてあげたらいいのに」
リンクスの言葉に、ザカートはどこか歯がゆそうな顔をしてみせた。
「…… 目が覚めた時、俺がいても嬉しくないだろ。あんたがいてやった方がいい」
そのまま部屋を出ようとするザカートにリンクスは
「健気だね」
と口にした。
「―― 俺のせいだからな」
尋常ではないほどの激しい雨の音がしてキキはそっと目蓋を開いた。今日二度目に見る景色を、キキはぼんやりした頭でゆっくりと見回す。そばには誰もいない。キキはがばりと体を起こした。また倒れたのか。
(誰がここまで運んでくれたんだろう)
ザカートか、リンクスか……。リンクスだといいが―― 牛の頭を持った彼とか、馬の体の彼だったら……。いや、嫌だとか気持ち悪いとかそういうことではなくて…… いやしかし目の前で姿を見るなり倒れるなんてこと、あまりに失礼だったので謝りたい。でも、謝るにはまた彼らを見なければいけないわけで……。
ひときわ雨の音が大きくなって、キキはベッドから降り、カーテンの隙間から窓の外を見た。すごい雨だ。もしも、もといた場所でこんな雨があったらみな無事では済まないだろう。特にキキの住んでいた屋敷は近くに河があるので洪水にでもなったら家も人もみんな水に流されてしまうに違いない。
そこでキキは、義母たちのことを思い出した。嫌な予感がする。もしも、この雨が、本当に向こうでも降っていたら? 二人は今もあの屋敷で暮らしているはずだ。もしも氾濫した河の水が街に押し寄せてきたら?
キキは慌てて部屋を出ようとして、ひとりでこの城を歩いて起こった現象のことを思い出した。そうだ、どうやら自分はこの城に嫌われているらしいのだった。…… あの小さいのなら、こんなふうに拒絶されることもないのだろうが。
どうするか悩んで、ベッドのそばにある机の上に書付とともにベルが置いてあるのに気づく。走り書きのそれは、何か用があればこのベルを鳴らせ、と書いてあるように見える。リンクスが書いたのだろうか、最後に名前が書いてある気がするが読めない。
キキはためらいがちに、そして控えめにベルを鳴らした。鳴らし方が甘かったのか、チンとかすかな音しか鳴らず、キキが再び鳴らそうとした時、部屋のドアが開いた。
「お目覚めですか、陛下。ご加減は――」
「ねえ、この雨なに?」
部屋に入ってすぐキキの加減を問うてきたリンクスにキキは食い気味に尋ねた。
「…… ただの雨です。少し多いですけど、城に入ってくることはありませんよ」
「ただの雨とは思えない」
リンクスの説明を信じられないといった様子でキキは首を振る。
「この雨、私がいたところでも降ってるんじゃないの?」
「それは……」
口ごもるリンクスに、キキは確信する。
「すごく嫌な予感がする……。せめて、屋敷の様子だけでも知る方法はないの? 本当なら、お義母さまたちのところに行けるのが一番良いけど……」
リンクスが目を逸らす。キキは思わず「方法があるの?」と声を上げた。
「あるなら教えて、私――」
「その必要はない」
ふいに声がしてキキは顔を上げる。険しい表情をしたザカートが、部屋に入ってくるところだった。
「この程度の雨なら何年かに一度あるし、王が自ら下界に降りるようなことじゃない。大人しくここへいろ」
命令するような口調にむっとするが、ここで怒ってはさっきと同じことになる。
「…… どうしてずっと、そんなふうに横暴なの」
あれにはついていてやるくせに。目覚めた時、キキがどれだけ心細かったか知りもしないで。
「どうしてはこっちのせりふだ。なんでわざわざあんな家に帰りたがる」
「救われたから。二人は私の父親が亡くなった時もそばにいてくれたし、その前も父が仕事ばかりで家にいなくて寂しいのをわかってくれたの」
「救われたら何をしても許されるのか? あれはどうみてもいじめだし虐待だ」
「そんなこと……!」
「そんなことない、か?」
ザカートの声のトーンが下がった。
「本当は気づいてるんだろう。だから髪まで切って、あの男から逃げたんじゃないか? 本人に内緒で男をあんなふうにけしかけるなんて、いじめ以外の何物でもない。あれをいじめじゃないなんて思えるんなら、あんたは洗脳されてるんだ」
「ザック」
見かねて、リンクスが間に入ってくる。ザカートは、前の時のようなつっかかるような、喧嘩を売っているような表情では全然なかった。なんだかまるで、悲しいことでもあったような顔をしている。
「行くな」
懇願するような声で、ザカートは言った。
「行かないでくれ」
キキは何も言い返せない。
「…… 先ほどの広間で下界の様子を見られるように準備してあります。陛下さえよろしければまいりましょう」
リンクスにうながされて、キキは広間に向かった。なんだか今日は、城が明るい。昨日は城全体が暗い青や黒を混ぜたような雰囲気だったが、今日はなんだか赤っぽいのだ。色があたたかい雰囲気であるにもかかわらず相変わらず肌にまとわりつく空気はひんやりしているのがキキに違和感を植えつける。
リンクスが広間の扉に手をかけた時、キキは「あ」と声を上げた。中にはさっきの牛の頭の彼や、馬の胴体を持った彼がいるんだろうか。そう思ってリンクスを見上げると優しく微笑まれて、そんなにも不安気な顔をしていたのかと途端に恥ずかしくなる。
「大丈夫。彼女はケイロンと一緒に今は勉強の時間だし、アステリオは広間の準備が終わったら下がるように言ってありますから……」
と、説明していたリンクスが扉に手をかけながら小首を傾げた。
「アステリオ様? どう――」
リンクスが問いかけると同時に扉がうっすらと開く。あのがっしりした腕がのぞいて、牛の頭をした彼の姿を思い浮かべたキキは思わず肩を跳ねさせた。
「まだ終わってないのか? …… リオ?」
キキの前に出てきたザカートが、リンクスと並んで扉の隙間から部屋の中を見るかたちになってキキからは見えにくくなる。少し安心していると、ザカートが「おい、何してるんだ」と声を上げる。キキがおそるおそる扉の前の様子を見れば、部屋の中で膝まづいているのが見える。
「申し訳ございません、陛下」
アステリオは今にも泣きだしそうな声で言った。―― というか、牛って泣くんだろうか?
「陛下のご気分を害さないよう、支度を終えたらすぐに下がるつもりだったのですが、うまく下界の映像を写し出すことができず」
「接続が悪いのか?」
ザカートが尋ねた。その横でリンクスが小声で
「皿の上に水を張って、そこに術を施して下界の様子を見るんです」
と補足した。
「水の天使に何かあったのかもな……。少しも繋がらないのか?」
「さっきから繋がったり途切れたりを繰り返してるんだ」
アステリオの説明を受けてザカートが部屋の中に入っていった。扉が一旦閉じる。すぐにつながると思うんですが、と口にするリンクスをキキは隣から見上げた。
(―― あ、そうか。リンクスまで私のそばからいなくなったらまた城で変なことが起こるかもしれないから……)
多分、自分はこの城に嫌われている。ここに来てからずっと感じている、拒絶するような雰囲気は気のせいではなかった。この城は、その身をもってキキを拒絶してきた。あの小さな存在であれば迷うこともないのだろうが、あいにくそれにも初日に睨まれているので、よく思われていないのは確実だ。
「…… ごめん。繋がらないの、私のせいかも」
ぽつりと口にすると、隣でリンクスが「え?」と首を傾げる。
「このお城に私、好かれてないないみたいだし、私のしたいこと邪魔したいのかも……」
少しの沈黙の後、リンクスは口元を押さえて笑った。
「いや、そんなことはないですよ」
ふいに笑ったその姿が珍しく年相応で、キキは一瞬どきりとする。
「この城はね、ララ王が作ったんですよ。設計とか、建築したという意味ではなくてね。ララ王の前の王が亡くなった時には前の王が作った城だったんですが、崩御ののちそれを術で今の形に」
「…………」
理解が追い付かず、キキは黙る。術で城を作る?
キキの表情がわかりやすかったのか、リンクスは再び笑みを浮かべた。今度は見た目よりも大人びた笑みだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます