第14話
雨が降っている。昨晩あたりから風も強くなってきて、それにもかかわらず客が訪れてきている。
『―― ねえったら!』
横から大声で呼びかけられて、ザカートは我に返る。
『もう、この忙しいのに何をぼーっとしてるのよ?』
何度も呼んだのよ、と責められてザカートは謝る。彼女はさほど気にしていない様子であのね、と続けた。
『あたしのお気に入りの衣装知らない? ほら、あの赤いレースの……』
『衣装かけにありませんか?』
『ないから困ってるのよ』
やや焦った様子で言う彼女に代わって衣装を探しながら、ザカートはふと窓の外を見上げた。ここしばらく暑くなったり寒くなったりを繰り返していて、日照りが続いたかと思えば今日のようにひどい雨風の日があったりもする。とにかく気候が不安定なのだ。
…… 天使の、天界で何かあったんだろうか。そういえばこの間のモクレンはなんだか様子が変だった。
次に会ったら優しくしてやろう、と思いつつザカートは朝方になるといつも通り廊下で仮眠を取った。窓から差し込む日光に、ザカートは数度まばたきをして顔を上げた。
『…… モクレン』
壁をすり抜けてきた姿を見て、ザカートは思わず立ち上がる。モクレンはザカートと目を合わせると久しぶりと言って微笑んだ。
『少し、外で話さない?』
モクレンはそう言うと、窓の外を指し示した。外はさっきの荒れた天気が嘘のように晴れ渡っている。
『…… ああ』
もう荒れないといいのだがと思いつつ返事をして外に出ると、冷たい風がザカートをなぶった。
『この前はごめんなさい』
歩きながら謝罪をされて、ザカートは眉を上げた。顔を見て話さないなど、モクレンらしくもない。
『…… いや、俺もつい、言い過ぎた』
ザカートが話すのを聞いているのかいないのか、モクレンは彼に背を向けたままだ。
『あのね……』
何かを言おうか言うまいか悩んでいる様子のモクレンの横を通り過ぎると、ザカートは一本の樹木にぽんと手を置く。
『ここに来て』
モクレンは促されるまま樹木と姿を重ねて腰を下ろした。するとザカートはその木にもたれるように―― モクレンの肩に身を預けるようにして、その場に座り込んだ。ふたりはしばらくそうしていた。
ずいぶん長い間そうしていたが、ふいにモクレンがあのね、と再び口を開く。と、同時に店の方からザカートを呼ぶ声が聞こえてきた。
『…… 時間みたいね。―― 私も、そろそろ天界に戻らないと』
モクレンはさっと立ち上がった後、ためらいがちにザカートを呼んだ。
『さっき言いかけたこと、今度会った時に言うから』
待っててね、と言われて、ザカートは微笑んだ。
『じゃあね、また』
『ああ、また今度』
背後でザカートが店に戻っていき、モクレンが上空へ舞い上がると、誰かが同じように下から上ってきた。
『モクレン』
『スイセン様』
『今、戻るところ?』
『ええ、スイセン様も?』
尋ねるとスイセンは頷いた。そして、しばらくモクレンの横顔を見つめたのち、思い切ったように言った。
『例の話、本気なの?』
『ええ、もちろん』
はっきりと肯定したモクレンに、スイセンは言いにくそうに口を開く。
『…… 他のみんなからもさんざん言われていると思うけれど、君がレファーラのために犠牲に必要なんてどこにもないんだよ。まだできて八千年と少しの新しい世界だし、…… こう言ったら悪いけど、世界なんて他にたくさんあるんだから、セヴもヴィラも、シオンの言う通り捨てるのが一番良いんだ。そもそもヴィラがこれだけ荒れたのは今のセヴの王に力がないのが原因なんだから……』
『あれだけ争いばかり起きていたら誰だって気が病みます』
落ち着いた態度のまま、しかし噛みつくようにモクレンは言った。
『あんなにたくさんの死人が出て、セヴにたくさんの魂が押し寄せて―― あれではどんな力のあるものでも完璧な対応なんてできません。ララのせいなんかじゃないわ』
『君のせいでもないんだよ』
スイセンは諭すように言った。
『君が、神にもらったその命をかける必要も、価値も、あの世界には――』
『私の愛するものの価値は私が決めます、スイセン様』
モクレンの声は力強く、決意に満ちて、けれどどこか悲しげだった。
『…… あの、例の人間のこと?』
スイセンが聞くと、モクレンは『それだけじゃないですけど』と微笑を浮かべた。
『好きなんです、レファーラが』
たとえるなら、冬の澄み切った空のような晴れ晴れとした表情に、スイセンは短くため息を吐く。
『君が…… いなくなったとわかったら、彼は間もなく死ぬよ。もともと長い命じゃないからね』
『…… そうでしょうね』
『彼は悲しみのあまり、きちんと死ぬことができないかもしれない』
『それはそれで、私の親友と仲良くなれたらおもしろいなと思っているんです』
モクレンは、にっこりと笑った。それが、スイセンの見たモクレンの最後の姿になった。
モクレンがザカートの前に現れなくなってちょうど十日が経った日のことだった。ザカートは例の通り床の上で目が覚めた。昨日は芸妓がみな休んだあと衣装の片付けなどをして、そのまま寝てしまったらしい。完全に日が高くなっていることから、もう昼過ぎで間もなくまた店が開くことがわかる。
『う……』
いきなり立ち上がったせいで、ザカートはぐらりとよろめいた。頭がずきずきと痛んで視界が判然としない。思わず膝をつくと部屋のカーテンがひらりと揺れた。―― かと思ったが、目線を上げた先に誰かがいる。
目が合うと、その人物はにこりと笑みを浮かべた。無邪気な少年の笑みにも、年月を経た老婆の笑みにも見える。どこか、モクレンに似ている。
『…… 天使か?』
尋ねるとその人物はひとつまばたきをして口を開いた。
『モクレンが世話になったな』
『あ……』
『奴は死んだよ。たったさっき―― こっちの時間じゃ…… 十日か。上の奴らにはごちゃごちゃ言われていたが、まあ、悪くない最期だったと……』
『―― 嘘だ』
ぽつりと零された言葉に、人物は一瞬口を閉ざした。が、すぐさま
『嘘ではない』
と口にする。
『未熟なセヴの王の代わりに、人間たちが起こした取るに足らない戦のために命を落とした人間たちの哀しみを背負って』
『嘘を吐くな!』
ザカートは手近にあった花瓶を花がささったまま人物に向かって投げつけた。しかしその人物に花瓶が当たることはなく、そのまますり抜けて花瓶は窓に衝突する。窓ガラスと花瓶が割れ、床に花と水が飛び散る。
『…… 時間だな』
人物は呟いた。
『…… 救いだったんだ。光だった。会えるなら、命くらい削れたってよかった。愛してたんだ』
ザカートはおぼつかない足取りで窓に近寄ると、割れた窓枠に手をかけた。手のひらから血が噴き出すが気にも留めない様子で彼はそのまま外の世界へ飛び出した。
『―― モクレン、』
彼はそのまま、建物の裏手にある池へと真っ逆さまに落ちていった。
気づくと草原の上に立っていた。辺りを見回すが、ここがどこだかわからない。ふりかえった先には幅の広い川があって、どうがんばってもその先には行けないのだというのがはっきりとわかる。
『気がついたか?』
いつのまにか、誰かが近くに立っていた。年端もいかない少年―― いや、いくつも年を重ねた老女だろうか。その人物は、ザカートを見つめ、続ける。
『お前の魂は、生まれ変わることなくここへ留まる。なぜだかわかるか?』
『いいえ……』
ザカートはぼんやりとしたまままばたきをした。
『俺は死んだんですか?』
『魂がひとたび肉体と離れ、あるべきところへ還ることをそう呼ぶのなら』
『…… あなたは、いったい……』
夢のような現実のような、不思議な感覚でいると、そよ風が柔らかくザカートの足元をさらった。
『シオン様』
風が去った後、聞こえてきた声にザカートはふりむいた。
金とも銀とも違う。白でもなく、黄色でも無論ない。どうとも表現しがたい髪色の女が、そこに立っていた。
『私はララ』彼女は言った。『下界でのことは……』
ややためらいがちに尋ねると、シオンと呼ばれた人物が首を振る。
『…… 私が、思い出す手助けをしよう。できればその後のことも。―― おいで。生まれてまだ数百年ばかりの若輩だが、君のために力を尽くすことを約束しよう』
ザカートはぼんやりと彼女を見つめていた。話の流れが見えない以前に、今起きていることが現実なのかそうでないのかわからない。彼女は、彼が生前に呼ばれていた名を口にすると、うたうように口を開いた。
『名前をあげよう。ここで生きていくための名前を』
彼女はザカートの頬に手を伸ばす。
『哀しみに滲む空、その名は夕焼け、赤く燃ゆる君、ル=ヴェルニ=ザ=カート』
突風が吹いた。青年の黒髪を、風が下から吹き上げるようにしてさらった。
『ザカート……』
彼は、ララの言葉を反芻するようにその名を口に出した。
『俺は、ザカート……』
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