第7話
炎に導かれるようにして歩いていくが、以前のように意図しない部屋に出たりしない。それはいいことのはずなのに、なぜだか素直に喜べないのはなぜこんなことが起こっているのか、そしてどこへ向かっているのかがわからないからだ。
火が灯っていく方向に従って歩いていくと火はひとつの部屋の前で止まった。扉は開いていた。キキは少し迷ったあと、ためらいがちに部屋に入った。ずいぶんと広い部屋だった。部屋の両端にある本棚のせいでわかりにくいが、さっきの広間と大して変わらない広さのようだった。奥には執務机が置いてある。ひょっとするとここはララの…… 母の部屋なのかもしれない。母に会った記憶がないのは、やっぱり分裂したからなんだろうか。あっちの方にはきっとあるんだろう。というか、時折見ていた夢は、ここでの夢なのだろうか? 今思い出せば、ここの景色にひどく似ているような気がしてくる。
キキが不思議な気持ちで部屋を見回していると、開け放たれた扉がこつこつと叩かれる。振り返ると、あの腰から下に馬の胴体がくっついた男が立っていてキキはあやうく腰を抜かしかける。
「入っても? 陛下」
「あっ、ど、どうぞっ」
彼―― ケイロンと言ったか―― に尋ねられ、キキは反射で答えた。許可された彼はゆっくりと入ってきて、壁際の地べたに腰を下ろした。離れたところで、かつ執務机とその上に積まれた資料やら本ののおかげで死角に入ってくれたのでキキはほっとする。
「…… あの、えっと」
「ケイロンと」
「…… ケイロンさん」
少し迷ってからさん付けで呼ぶと彼はにこりと微笑んだ。
「この前は、倒れてしまってごめんなさい。私あの、ここに来たばかりで…… いろんなことがありすぎて…… こんなの言い訳にもならないと思うけど、もう貴方がたの姿を見て倒れたりなんてしませんから」
そうは言いつつも、キキはケイロンを直視できない。そんな様子に、ケイロンは複雑そうな笑みを浮かべた。
「己の直観に従うのは大切です。まして王ともなる方であれば、自身や国に害なすものをきちんと見分けなければならない。―― そちらのティーポットにお茶があります。よろしければご自由にどうぞ。私はここから動きませんので」
ケイロンはそう言うと、肩にかかったマントにも似た上衣を胸元でかき寄せその場で目を閉じた。言った通り動く様子がないので、キキは執務机の前にある長机から勧められるままティーポットを取り上げた。ポットはあたたかく、蓋を開けるとまだ湯気が立っていた。甘い花のような、いい香りがする。キキの表情の変化を感じ取ったのか、
「お気に召したのなら、リンクスに伝えて茶葉を渡しておきましょう」
とケイロンは言った。その声が、だんだんと遠のいていく。周りの景色もぼやけて、何もかもが判然としなくなる。キキの体が傾いだ。それをケイロンは、待ちかねたように受け止める。
「やれやれ。せっかく忠告してさしあげたというのに、今度の陛下はずいぶんと不用心な方のようだ。―― まあ、器としての容量に関しては、さすがと言わざるを得ないが」
ケイロンはさてと言ってぐったりとしたキキの目元に手をあてた。
「多少強引にでも、思い出してもらわなければ」
「…… ッ……」
内側から何かを引きずり出されるような感覚に、キキは今にも飛んでいきそうな意識の中身じろぎした。彼が今何をしようとしているのか、自分の身に今何が起ころうとしているのかはまったくわからないが、逃げるべきであることだけはわかった。しかし体が言うことをきかない。力が入らず、こぶしを握りしめることすらかなわないと息を吐きかけたその時だった。
扉が開いた。
「ケイロン! お前、陛下に何してる!」
足音。飛び交う声。
これを、私は知っている。
ずっと昔、どこかで。―― どこかで。
自分と同じ、月の光の色をした髪が風でふわりと揺れた。
『―― ララ!』
誰かが呼ぶとその人物は待ちかねていた様子でぱっとふりかえった。キキの胸がどきんと跳ねる。
似ている。他でもないキキ自身に。
『モクレン、あなたまた天界を抜け出したの?』
キキによく似た、ララと呼ばれた人物があきれたように問いかけるがモクレンと呼ばれた方はむっとしながら口を開く。
『抜け出してなんかないわ。下界に降りて人間界の様子を見るのは天使にとって大事なお役目だし、ここは人間界への通り道だから、なんの問題もないのよ』
『お仕事なら、私と話してる暇なんかないんじゃなくて、天使様?』
『私は神から樹木と草花を司る役目をたまわっているのだもの。綺麗な花を咲かせてる庭には入ってじっくり眺める必要があるし、その庭の主にはもっとじっくり話を聞かなくてはね』
『まあ、よく口が回ること』
ララがあきれを通り越してなかば感心するように言うと、モクレンは得意げに空中でくるりと回った。
『それくらいじゃないと私たちみたいな下級天使は上級天使の方々に勝てないもの。言われっぱなしは主義に反するし、黙って説教を聞くだなんて絶対に無理だもの』
『やっぱり抜け出してきたんじゃない』
『だって――』
肩をすくめて言えばモクレンは子どものように言葉を重ねようとしたのでララは片手を上げてモクレンをいさめた。
『せめて座ったら? お茶していくでしょう?』
誘いを受けて、モクレンはもちろんよ、と微笑む。
『それでどうなの、人間界の様子は?』
勧められた椅子に座りながらモクレンが問えば、ララが噴き出した。
『あなたがそれを私に聞く?』
『もちろん、平和かどうかなんて話じゃないわよ』
わかってるでしょ、と当然のように言うモクレンにララは茶を出しながら言った。
『降りてはいるわよ。―― ケイロンに小言を言われるけどね――。人間のふりをして、人間と出会うことだってある。でもね』
ため息まじりにララは言って、自分の分の茶をカップに注ぐとゆっくりと椅子に座った。
『人間と私たちじゃ、何もかもが違うんだもの。価値観も、常識も、時の流れさえも――。それって、すごく悲しいことよ。あなたと私だって、そう。今流れている時間ですら、私とあなたでは同じじゃないんだもの』
『ああ、ララ……』
モクレンはたまらず、宙を浮いてテーブルを飛び越えるとそのまま親友を抱きしめた。
『私、もし生まれ変わったら絶対にあなたのそばにいられる存在になるわ。あなたと同じ時を刻む存在に』
『モクレンたら、気持ちは嬉しいけれど、寿命のない天使がどうやって生まれ変わるって言うの? あなたたち天使って私たちや人間みたいに命が尽きたりしないじゃない』
『それでもなるの』
モクレンはやはり子どものように主張して言い切った。
『何千年、何万年、もしかするともっとずっと長い時間がかかるかもしれないけれど、でもきっと私たち巡り合うわよ』
『神のお導きがあるから?』
『いいえ!』
モクレンは水中の魚のようにその場でくるりとまわるとその勢いのまま踊るように窓の外に出た。
『私がそう決めたから!』
意識はゆるりと浮上した。前の時と違って、部屋には複数の人の気配がする。薄く目を開いてみると、近くにいたリンクスが気づいて
「お目覚めですか?」
と問いかけてくる。同時に慌ただしく誰かが駆け寄ってきたかと思うとキキの顔を覗き込む。
「気分はどうだ」
「平気」
なんともないと答えるとザカートはあからさまにほっとした顔になる。その向こうではケイロンが腕を組んでじっとこちらの様子をうかがっている。どうしてかはわからないが、さっきまでの近づきにくい感覚がない。恐怖心がやわらいだというよりはむしろ、消えてなくなったという方が近い。それどころか、ずっと以前から慣れ親しんだ相手のようにすら感じる。
不思議な感覚で彼を見つめながら半身を起こすと、リンクスが「陛下」と声をかけてくる。
「ケイロンに対して処罰をなさいますか?」
「処罰――」
その言葉にも馴染みはないはずなのに不思議と驚きはない。隣でリンクスが「いかがいたしますか」ともう一度問うてくる。ケイロンに目をやると彼は憮然としたまま動かない。キキは立ち上がって彼の目の前まで歩いていって口を開いた。
「いいよ。別に。ケイロンの性格はよくわかってるつもりだから、ケイロンの好きにしたらいい」
その言葉にキキ以外の三人がそろって息を呑んだ。
「でも『キキ』を壊したら許さない」
「…… 肝に銘じます」
ケイロンはうやうやしく頭を下げた。それに対して目もくれずに背中を向けようとするキキの腕を、ザカートが急いでつかむ。
「…… モクレンなのか」
問いかけた瞬間、キキの顔色が変わった。まるで何かの催眠から目が覚めたかのようにはっと顔を上げてザカートを見る。
「あれ…… 今、何の話……」
呆けたように口にしたとたんにザカートの表情が悲しそうなものに変わるのがわかる。
「―― 服を着替えた方がいい。汗をかいただろう」
ザカートは表情の変化を隠すように顔を逸らすと、そのまま部屋を出ていった。続けてケイロンも何も言わずに退室した。その背中に取りついて何もかもを問いただそうという気にはならない。
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