第1話 後悔
空が淡い茜色に染まる。
俺、
四分程経ってから彼女、もとい
艶やかな長い黒髪に、整った目鼻立ち。豊かな胸部。うん、今日も可愛い。
俺を見るなり露骨に嫌そうな顔をした事に関しては……そうだな。今更何かを言うつもりはない。
「あなた、本当に執拗いわね」
まるでゴキブリホイホイにかかった哀れなゴキブリを見るような…、燃え盛る火に飛び込んでいく蛾を見るような、そんな目で瀧宮は俺を見つめてくる。
…怖い怖い。せっかくのご尊顔が台無しだ。
「もう四年だよ。いい加減慣れてくれ」
「…人間、どんな事でも二週間も継続すれば慣れるものなのだけれど、あなたに関する事にはどうも慣れないわ。
私が人間じゃないのかしら。……それとも、あなたがあまりに…あまりに、キモ…いいえ、なんでもないわ」
もうほとんど言っちゃってませんか? それ。
だけど…なんだかんだ言いながらも、登下校を共にしてくれるのは瀧宮の同情心? から来るものなのだろうか。
ただ単に、付きまとってくる俺を拒み続けるのに疲れただけな気もするけど…まぁなんであれ一緒に帰れるなら、何と思われていようと俺は構わない。
足早に廊下を歩いて行く瀧宮の背中を追いかけ、隣に並ぶ。
廊下に等間隔で設置されている窓から差し込む夕陽が、五秒に一度ぐらいのペースで瀧宮の髪に反射して、謎の神々しさすら感じさせる。
臆するな、俺。勇気を出せ。
今しかないだろ。いけ。
「なぁ瀧宮、明日駅前のカラオケ行こ。時間は昼の一時に駅! 奢るからさ、頼む!」
「いやよ。一人で歌ってれば? 音痴ぼっち」
今日も失敗。
……分かってたけど悲しい物は悲しい。
「…そうか。来なくてもいいから一つだけ訂正してくれ。俺は音痴かも知れないがボッチじゃねえよ。ほら、滝宮が居るじゃん」
「勝手に着いてきてるだけじゃ無いの。中学一年から、果ては高校まで。早く捕まってくれない? クソストーカー」
辛辣辛辣。もう慣れたもんだけど。
「仲良くしたいだけだよ」
「気持ち悪い。…あ、言っちゃった」
今日はいつも以上に当たり強くない? 可愛いからいいけど。
「ほら、親交を深めるって意味でもさ、今日俺の家来ない? 俺の家かなりデカいよ?」
「犬小屋に興味は無いわ」
相変わらずキレッキレだな。
罵倒コンテストがあれば瀧宮は文句無しの一位だろう。
「俺の家がダメなら瀧宮の家…」
「しね」
こうして今日も俺は惨敗した。
校門を抜け、五分ほど歩いたところで十字路に差し掛かった。
ここを右に曲がれば俺の家、左に曲がれば瀧宮の家。
「じゃあ今日もこの辺でお別れだな。来週の月曜、いつもの所で待っとくから」
いつもの所、瀧宮家の前。
我ながら彼氏でもないのに迎えに行くってのはどうかと思うけど、こうやって無理をしなきゃ俺と瀧宮の関わりは殆ど無くなる。
クラスが一緒で、家が近くても、俺と瀧宮の距離は遠い。あまりに遠すぎる。
「…はぁ。もう、好きにして」
「お言葉に甘えて好きさせて貰う。じゃ、またな」
「…………」
「…あ、そうだ。この季節、日中と夜の温度差が結構激しいから、夜は暖かくした方がいいよ。じゃ、今度こそ、ばいばい」
「……きも」
瀧宮は普段通り、俺の方を一度も振り替えらずに家路についた。
俺は瀧宮の背中が見えなくなるまで、その場から動かなかった。
*****
帰宅した俺はすぐに勉強に取り掛かる。
別に勉強は好きじゃないけど、瀧宮に並ぶためには普通の人と同じ努力量じゃ全然足りない。
家にいる時間は殆ど勉強に当てているけど、それでも瀧宮には遠く及ばない。
これが才能の差ってやつなんだろうか。
それでも、出来ることは何でもやらないと。
「まずは…現国からか」
夕食を済ませた直後、父さんから「大事な話がある」と言われて客間に呼び出された。
普段から常におちゃらけている父親が時折見せる神妙な面持ちを見て、俺も身構える。
こんな時はいつも面倒臭い。俺の家は、業界では名が通っている
…話半分にしか聞いてないのは秘密ってことで。
だから、今回もその
「今日は母さんもいるの?」
二人揃って深刻な面持ちで正座をしていた。
いつも父さんが座っているとこに母さんが座り、その横で父さんが腰を据えていた。
二人は俺の質問に答えることは無く、険しい顔で父さんが重い口を開いた。
「まず謝らせてくれ。これからする話は……お前にとって良い物とは言えないかもしれない。本当に……すまない」
二人は畳に頭を着けて暫く顔を上げることは無かった。
「いやいや、もう会社の話とかは覚悟してるから。今更何言われても驚かないって。ほら、顔上げてよ」
俺は二人の肩を持って顔を上げさせた。
「…ならいいんだ。…なぁ、母さん」
「…ええ、そうね」
やたら渋るなぁ…そんなに言い出しにくい事なのか?
「もうさっさと言ってくれよ。早く伝えてくれた方が俺もスッキリするしさ」
それを聞いた二人は何かを諦めた様な表情を浮かべた。
「分かった。そうだよな。じゃ、単刀直入に言うぞ」
「うん。その方がいい」
父さんは一呼吸置いて、俺の目をしっかりと見据えて言う。
「翔。お前には許嫁が居る」
「……………は?」
「だから許嫁が居ると言ったんだ」
「いや、聞こえてるし。それが仮に本当だとしてもなんで今伝えるの? 普通…許嫁うんぬんの話ってちっちゃい頃に伝えとくもんじゃないの? そもそも許嫁がいるのが普通じゃないけどさ」
「翔が混乱するのも無理はないが、ちょっと落ち着け。今からきちんと事情を話す」
俺の返事を待たず父さんは続ける。
「まずは……なぜ今伝えた…か。そうだな……あちらの家のご意向と言えば分かりやすいか」
「あちら?」
「そうだ。具体的には西条家のご意向だ。……西条家ってのは俺の会社の…。まぁ、これはまた後で話す。
その…西条家の考えとしては、御令嬢には少しの間だけでも許嫁に縛られず、自由に生活を送って欲しかったらしい。だから、御令嬢が高校生になるまでは伝えないというのが西条家側の方針だった。勿論、俺達も同意した。……結果…どちらが良かったのかは分からんが」
今のタイミングで言ったのは父さんと母さんなりの配慮、という訳でも無さそうだ。
俺個人としては、幼い頃に伝えてくれていた方が良かったけどな。
まぁ、西条家側の意見も分からなくもない。幼い頃に許嫁が居ることを知れば、他の子供達と同じような生活を送ることは難しいだろう。のびのびと自由に育てたいと言うなら尚更だ。許嫁なんて邪魔でしかない。
あ、そうだ。あと一つ、大事な事を聞き忘れてた。これだけは聞いておかないと。
「何で俺に許嫁がいるの?」
父さんは頭を抱えて苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、苦しそうに言う。
「……それは……俺の会社を守る為だ」
…ま、そんなとこだとは思った。さっきも会社がどうとかって言ってたし。
そこからは色々な話をされた。
お前にとっても大事な事だーとか。これはお前の為でもあるーとか。本当に申し訳ないとか。
だから一言だけ。
「うん。分かった。父さんと母さんの役に立てるなら、なにも文句はないよ」
*****
俺は自室のベッドに横たわり、枕に顔をうずめる。
あの後、父さんと母さんはどこかホッとしたような顔をしていた。俺に強く否定されるとでも思ってたんだろうな。ここまで育ててくれた二人に反抗なんかする訳無いのに。
詰まる所、俺は西条家との橋渡しに使われたって訳だ。そんなに悲観的になる必要も無い……よな。
これで右肩下がりだった父さんの会社も持ち直すだろうし、その会社を継ぐ俺の将来も安泰。
それに……瀧宮を諦めるには丁度良い機会だ。このままじゃ瀧宮に迷惑をかけ続けるだけだった。
瀧宮にとっての俺は、百害あって一利なしのタバコや酒未満。そんな存在が消えた所で、喜ぶ事はあれど、憂える事は無い。
それは変わりようのない事実。なにより、これまでの瀧宮の態度がそれを残酷なまでに物語っている。
俺は瀧宮に微塵の興味も持たれていない。
そんなこと、ずっと分かっていた。
今の俺にとってその事実は、ある意味救いでもあるのかもしれない。
もし…いや、これは万分の一もない話だけど、俺と瀧宮が恋仲だったとしたら、俺は瀧宮を諦める事なんて絶対に出来なかった。
…なんにせよ長かった片想いもこれで終わり。
まさかこんな形で終わるを迎える事になるとは思ってもみなかった。
明日からは、朝早く起きて瀧宮の家の前で待つ必要も無い。もう罵声を浴びせられることも無い。来ない事が分かっている遊びに誘う必要も無い。勉強も…しなくていいのかな。
俺にとっても瀧宮にとってもいい事づくめだ。
瀧宮は俺というしがらみから解放されて、俺は母さんと父さんの役に立てる。
瀧宮のため。俺のため。両親のため。西条家のため。
…こんなのただの言い訳でしかない事は俺が一番分かってる。
瀧宮を諦める為に、言い訳をつらつらと並べて、自分を納得させようとしてるだけ。
でも、これ以上父さんと母さんに迷惑をかけたくないのも嘘じゃない。勿論、西条家の方にも。何より、瀧宮にも。
だから、もう瀧宮には必要以上に関わらない。付き纏うのもやめる。
後悔はない。
なんの後悔もない。
乱れた呼吸を整える。
焼けたように熱くなっている目を何度も何度も擦る。
喉が締まって苦しい。
「……って……え…かった」
後悔なんて、ない。
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