第16話 裏側
私が図書室で目を覚ますと、彼が目の前で小さな寝息をたてていた。
その事実に疑問を抱くよりも先に、彼の顔に目が行ってしまった。今までちゃんと見ていなかったけれど凄く整った顔立ちで、つい、じっと観察してしまう。
あまりにも静かで、綺麗な顔も相まって人形じゃないかと疑ったけれど、聞き耳を立てると、くぅーくぅーと赤子みたいな呼吸音が聞こえて、生きている人間であることを再認識した。
特に理由は無かったけれど、一枚、写真を撮ってみる事にした。
弱みを握りたかったってのも少しはあったけれど、単純にこの画を写真に収めてみたかったってのが大きかった。誰も居ない放課後の図書室に、斜陽が差し込んでいるこの状況で、人形が寝ている。
どんな画になるか、興味が沸いた。
一枚シャッターを押すと、その手が止まらなくなった。一枚一枚少しずつ表情が違って、それが面白くて、気がつくと、フォルダにはおびただしい数の彼の寝顔の写真が溜まっていた。
別に恋愛感情とか、そういうのは全く無い。
例えるなら、街角のショーウィンドウ越しに佇む、可愛らしい人形の写真を撮っているだけ。
いくら突き放しても、酷い態度をとっても付き纏ってくる、頭のおかしい変な人。
はっきり言って、鬱陶しくて仕方が無かった。
朝から家の前に居て、お昼休憩にもいつも私の席にいて、帰る時もいつも廊下で待ってて。
何で私に付き纏ってくるのか分からない…なんて無責任な事は言わない。
この人は私の事が好きだから、ずっと着いてきているのだと、そう、分かったつもりになっていた。
私は今まで沢山の人に何度も告白をされてきた。付き合って欲しいとか、答えはいらないとか、好きだとか、愛しているとか。
もう嫌だった。うんざりだった。人を好きになるなんて考えられないし、他人のことを考えられるほど私に余裕は無いから。
この人もそうなんだと思うと、どうしても気持ち悪く感じて、何度も何度も突き放そうとした。
それでも、何にも変わらず、ずっと笑顔で、楽しそうに話をしていたのを覚えている。
でも、そんな彼もちゃんと私から離れていった。
あの日、いつものように酷い言葉をかけて別れた日。彼は私を遊びに誘ってきた。確か、駅前のカラオケに昼の1時だった気がする。
私は断っておきながら、何となく顔を出した。
偶には…と思って行ってみたけれど、彼はいなかった。二時間ぐらいぼーっと待っていたけれど、彼は最後まで来なかった。そりゃあそうだ。断ったんだもの。
彼が変わったのは、その週が明けた月曜の事だった。
朝、玄関を開けると、いつものように彼は居た。
私はその時も酷い言葉を投げかけた。
「なんで居るの?」って。
彼は笑わなかった。普段なら、ニコニコと流すけれど、その日は、私の苗字をただ呼んで、地面にぶつけそうなぐらいの勢いで頭を下げた。
「今まで、本当にすみませんでした」
冗談だと思った。ふざけていると思った。
でも、彼の橙黄色の瞳には涙が浮かんでいた。
彼の口から、ここに来るのが最後だと言われた時も、私はどうせ嘘だと思っていた。
あれだけ突き放してもずっとそばに居たのだから、まさか居なくなるとは思わなかった。
だけど、次の日、彼は居なかった。
遅れてるのかと思って、玄関の前で座って待っていたけれど、いくら待っても彼は来なかった。
私が遅刻していくと、すぐに彼が謝ってきて、私は酷く拒絶した。あそこまで言う必要は無かったのに、私は今までで一番酷い言葉を言い放った。
それから、彼が私に喋りかけてくる事は無かった。
朝も、休憩時間も、帰る時も。
それで良かったはずだった。だけど、あまりにも突然で、一切の動揺も無かったと言えば嘘になる。
いずれすぐに慣れるだろうと思っていた矢先、たまたま彼と同じ部活になった。
私たちが中学の時に入っていたバスケットボール部とは全く違う、とても静かな部活。
彼が部活に居ると知った時、私は、嫌だとは思わなかった。
入部したその日。彼は部の予定表を忘れていった。
帰る道も同じだったから、声をかけて渡そうと思って彼の後ろを追い掛けたけど、男の子の足には勝てなくて、結局追いつけなかった。
それとも、ただ声を掛けるのが怖かっただけなのかもしれない。
私は勇気を振り絞って、彼の家に行って直接プリントを渡すことにした。
私はその時初めて、十字路を右に曲がった。
暫く歩くと、人影が見えた。
咄嗟に電柱の裏に隠れて、様子を伺った。
私は、自身の目を疑った。
とても可愛らしい女性が、私とは似ても似つかないような素敵な笑顔で彼に笑いかけていて、彼も、とても楽しそうに笑っていた。
何故だか、吐きそうなくらい気持ち悪くなった。
人から向けられる好意に感じていた気持ち悪さとは全然違った、気道を締められているような、そんな息苦しさを伴う気持ち悪さ。
もう見ていられなかった。私は鞄を抱えて座り込み、目を伏せた。
かなりの時間が経ってから私は顔を出した。
もう日は傾いていた。暫くすれば静かな夜が来る。
私はプリントを片手に、フラフラとした足取りで彼の家に向かった。
彼の言うとおりの大きな家で、私とは住む世界が違うことを見せつけられた。
インターホンを押すと、五分程してから彼は姿を現した。
普段の姿からは想像出来ないほど、きちんとした格好で、スーツと革靴がよく似合っていた。
私は、色々な物を誤魔化すように悪態をつき、平常を装った。
彼は、私と話す事がまるで苦痛であるかのような顔していて、またあの気持ち悪い感覚に襲われた。
何で笑わないの? あの女の人は誰? なんて聞けたら随分楽だったと思う。
「何かあったの? ただ純粋に思っただけ。他意はない」
なんて白々しいことを聞いたけれど、彼は、「何も無いよ。鬱陶しいのが消えて良かった、程度に思ってくれれば良いよ」…そう、何かを諦めるように呟いていた。
その程度で済んだなら、どれほど良かったんだろう。
くぅくぅと聞こえていた彼の寝息が、突然荒々しくなり乱れ始めた。
凄く苦しそうな顔をしている。何か出来ないかとおもむろに鞄を開いたけれど、どうしようも無い。
「……さい」
「…んなさい」
「ごめんなさい」
聞き間違いだと思ったそれは、聞き間違いじゃかった。
彼は何かに、何かを謝り続けている。
涙まで流しながら助けを乞うように、謝罪を繰り返した。
見ているこちらが苦しくなるような彼の姿は、とても小さくて、弱々しく見えた。
私は彼の額に手を当てて、起こさないように、そっとさすった。
「大丈夫…大丈夫。だから…泣かないで」
少しだけ、彼の険しい表情は緩み、暫くすると、また、くぅくぅと寝息を立て始めた。
私はまた彼の写真を数枚撮り、その内の一枚をお気に入りの欄に保存した。
別に恋愛感情とか、そういうのは全く無い。
例えるなら、街角のショーウィンドウ越しに佇む、可愛らしい人形の写真を撮っているだけ。
私は、きっと、どこかで間違えた。
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