〈第3章〉 契約の恋人(2)
2.火曜日の恋人たち
絵にも描けない秋晴れの下。男は、上野公園のベンチで、トワをモデルにデッサンを始めた。
不忍池の
男は、一時間ほどひたすら走らせた筆を休めた。一休みしようと言い残し、自ら自販機まで走った。
一番近い自販機までは100m程あったが、男はものの一分もかからず戻って来た。その手には、濃い水色と薄茶色のコーヒー缶が二つあった。
「どっちにするぅ?」
トワの眼前に二本の缶を差し出した。
アルプスのような尖った山脈を描いた濃い水色の缶と、パイプをくわえた老人の横顔イラストの薄茶色い缶だった。
「どちらでもいいわ! 好きな方を取って」
「分かった。じゃー、これを・・・・・・」
男は迷わず濃い水色の缶を差し出した。
「ありがとう!」
トワは、にっこりと微笑み受け取ると、タブを外して乾杯の音頭をとった。
「お疲れさま! 乾杯」
「乾杯! トワもお疲れさん・・・・・・」
「缶コーヒーって、意外と美味しいわね。いつもこれ?」
トワは目を丸くしながら訊いた。
「うん! 味と言うより、俺は、このデザインが、いいんだ」
「デザイン? ああ、この絵のことね!」
トワは、缶に描かれた山脈の絵を指差した。
「その通り! その絵が、好きなんだ・・・・・・」
「えぇ? どこが?」
「絵のタッチがいい。尊敬する画家の絵に似てるんだ。・・・・・・それと、こっちの缶は、彼の自画像に似てるから」
男は、薄茶色の缶を自身の眼前にかざしながら答えた。
「さすがは絵描きさんね・・・・・・。その画家って?」
「トワも、知ってるかな? ポール・セザンヌ」
「あっ、知ってるう! 名前だけなら、聞いたことあるわ。・・・・・・どんな人?」
トワは、掌を胸元で合せながら嬉しそうに答えた。
「十九世紀のフランスの画家なんだ。『近代絵画の父』って、呼ばれてる」
「まあ、素敵! 絵画の父』
「そうなんだ! 凄い人だ」
「それって・・・・・・音楽の父、バッハみたいね?」
「おっ、上手い喩えだね! トワさん」
「うふふっ!」
トワは満足そうに微笑んだ。
「セザンヌは、印象派の一人だが、それまでの印象派とは違い・・・・・・」
「どんな違い?」
「もう、心で感じたままを、抽象的に描く、革新的な描写の、先駆者なんだ!」
「何だか難しそうだけど、凄い人なのねぇ?」
「そう、凄い人。難しい理屈付けなど、要らない・・・・・・」
「りくつぅ?」
「風景でも人物でも、感じとったものを・・・・・・。心で、描くんだ!」
「ええっ、心でぇ? ステキー!」
「そうさ! セザンヌの絵は、素敵さ!」
「ところで抽象画って言ったら、ピカソよね?」
トワは、男の肩に軽く手を添えた。
「うん、そのピカソだって影響を受けた。伝説の画家なんだ」
「伝説の?」
トワは、頬に手を当てながら首を傾げた。
「実は、生前は、あまり認められなくて、亡くなってから、彼の評価が上がったんだ。時代が彼に追いついたって、とこかな?」
「うーん。ほんと凄い人なのね。・・・・・・でもちょっと、可哀想な?」
笑顔だったトワが、少し眉をひそめた。
「それからセザンヌは、愛する妻をモデルに、描き続けたんだ。・・・・・・死ぬまでずーっとね」
「ええーっ? それ、とっても素敵なお話!」
トワの瞳の奥に、きらりと光るものが窺えた。
「俺も、そんなセザンヌを、目指すんだ。・・・・・・いつか彼の作品を、観に行こうか?」
「まあ、ホントに! 楽しみだわぁ!」
トワの大きな瞳が、うっすらと潤んできた。
「・・・・・・でもね、俺が描きたい絵は、ダビンチかな?」
「えっ? 今度は、ダビンチィ??」
「そうさ! 二十一世紀のモナリザを描くんだ」
「モナリザですってぇ?」
「そう、モナリザだよ。・・・・・・だって、こんなに、素敵な、モデルを、見つけたからね」
男は照れ隠しに、トワの右手を優しく包みながら、ゆっくりと答えた。
「まあぁ?」
トワはちょっぴり照れ笑い。
「うーん、トワの絵を・・・・・・。魂で、描くんだ」
男はこのあと、愛しいトワに一つの夢を語った。それは男の願い事でもあった。
「あと何年かかるか分からない。五年かかるか、十年かかるか。・・・・・・何年かかっても、必ずビッグになって・・・・・・。きっと、君を迎えに来る。そして、そのときが来たら、一緒に行って欲しい所がある。そこで絵画展を見てほしい。・・・・・・約束してくれ!」
「突然、約束って言われても。何のこと?・・・・・・」
唐突な話に、トワは首を傾げて困惑気味だ。
「・・・・・・まるでクイズみたいね? 行って欲しい所? 絵画展? 何か、ヒントでも、ちょうだいな?」
男は、公園の奥に広がる深緑の森に目を向けると。
「それは、あの奥の美術館でやっている、日本一の画家の作品展だよ」
男は大きな森を指差した。
「ああっ、森の奥にある大きな美術館ね?」
トワは、眩しげな目をして森を見上げた。
「その通り! その作品群の中に、最高傑作の絵が、飾られている。それは天女を描いた作品。まさに二十一世紀のモナリザだ。・・・・・・それを一緒に見て欲しい!」
「もしかして・・・・・・、今の、わたしたちの?」
トワは、男の隣にゆっくりと腰を下ろすと、その大きな瞳を細めた。
「そうだよ、今描いている、君の絵だ」
「この絵で、日本一になるのね?」
「そうさ! トワがモデルだから、きっと、傑作ができるよ!」
男は、トワのか細い肩をしっかりと抱き寄せた。
「まあ、ステキね! 絶対よ!!」
トワは、祈るように胸元で両手を組むと、まるで少女のように喜んだ。
「もちろんさ! 必ず成功してみせるから・・・・・・」
男は遠い青空を見上げた。
「はい!」
トワの顔から笑みが零れた。
この後二人はデッサンの続きに戻った。会話も忘れて男はひたすら筆を走らせた。
男にとって、愛しいトワの美しい姿を描くひと時は、地上のパラダイスから、天空のユートピアへと高まった。
その至福の時間は途絶えることなく、夕焼けの赤いベールに包まれるまで続くのだった。
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