〈第2章〉 夢の出逢い(1)
1.出逢いの園
早速男は、ナイトクラブ・エテルナに予約を入れた。
男は胸をときめかせ、心も躍りながら銀座の夜の街に向かった。ネオン煌めく表通りの裏手にある雑居ビルの地下一階、奥まった通路の角で、その店は慎ましやかに開いていた。
店の入り口は、ホームページの写真で見た印象よりも、ややこじんまりとしている。小振りな水色の看板には、あの『クラブ・エテルナ』の文字が、確かに躍っていた。
「間違いないな? この店だ・・・・・・」
高鳴る胸の鼓動を必死に抑えながら、自身に問い掛け確かめていると。男の体は、すうーっと店の中に吸い込まれていた。
出迎えた黒服のボーイに予約の確認を取ると、早々に客席まで案内された。
店内の様子は意外にシンプルで、男が想像した煌びやな飾りつけとは違っていた。紅色のレザーのソファーに、透明なガラスのテーブルが並び、控えめなシャンデリアが天井を飾る。
昨年の暮れに閉店した老舗の高級店を、新装開店したという口コミ情報がある。二十世紀末のバブル経済期に栄えた繁盛店を控え目に造り変え、リーズナブルな価格設定にしているようだ。これも不景気な時代の要求に即応した結果なのだろう。
客席数はそれ程多くはないが、空席は見当たらず、なかなか盛況の様子である。
澱んだ空気を撹拌するように、華麗なるピアノの調べが、上品で穏やかに流れて来た。懐かしいリチャード・クレイダーマンの名曲、♪渚のアデリーヌ♪♪。
そのキラめくピアノの音色に誘われて、夢を探しに来た男の胸は、益々高鳴るのだった。
ナイトクラブなどという類は、田舎暮らしの男の人生では無縁の世界であった。
気も逸り席に着くや否や、餌を啄ばむ雛鳥のように、
ところが、肝心のお目当ては、急に店を休んで居ないという。
男は、目の前が真っ暗になった。いきなり失恋でもしたかのようだ。その落胆ぶりときたら、それはそれは計り知れない。
男の心の中は、極限状態に達してしまった。
普段は、アルコール類などあまり口にしない質の男が、この時ばかりはブランデーからウオッカまで、強い酒を浴びるように
それはまさに、
挙げ句の果てに、酔いの勢いに身を任せ、他のホステスの肩を何度も抱いた。
しかし、どんなに可愛い
それどころか、夢の天女に会いたい熱い想いは、真夏の入道雲のようにモクモクと膨らんだ。それは大宇宙誕生の瞬間と言われるビッグバンの如く、男の中には極高温に燃え
「あの写真の
男は静かに瞳を閉じると、また独り言を呟いていた。
そのとき男の閉じた瞼の奥では、白い天女がひらりひらりと舞っていた。
男は、まだ見ぬ夢の天女に恋してしまった。
それから三日後のこと――――
逸る恋心を制御できなくなった男は、クラブ・エテルナにまた予約を入れた。
有楽町駅から店に向かう道中、焼けたアスファルトの熱気が残る黄昏の数寄屋橋交差点に差し掛かると、男のこめかみからは汗が滴り落ちていた。暑さのせいもあるだろうが、それ以上に激しい胸の高鳴りは、体中の体温を上げていた。
男が信号待ちをしていると、いつのまにか、汗だけではない熱い液体が頬を伝わるのを感じた。まだ見ぬ夢の天女に、男の熱い想いは、絶頂に達した証しである。
頬を伝う冷めた液体を、手の甲で乱暴に拭い去り、男は店の入り口に立った。
水色を基調にした控えめな看板を確認していると、そこに出迎えたのは小太りな一人の男だった。
「いらっしゃいませ! お待ちしておりました。・・・・・・今日は、居りますよ!」
小太りな男は、やや無表情の顔に低く篭った声だが、どこか心のこもった優しい響きが、じんわりと男の心に沁み込んだ。
その優しい声の主は、普段ならば店の奥で控えている筈の店長だった。
先日の男が、酷く気を落としていたのが分かったのだろう。見るにみかねた店長が気を遣ってくれたに違いない。
店長の一言は、男にとって、まるで守り神の御言葉に聴こえた。
ようやく出逢いが叶うのだ。男は、天にも昇る気分であった。そして雲の上でも歩くように、ゆったりとした足どりで客席へ向かった。
しかしながら、神様は易々と夢の出逢いを許しては下さらないようだ。
お目当てのホステスは、ちょうど今、先約の接客を始めたばかりで、直ぐには対面できないという。
でも、このときの男の心には、まだまだ十分余裕があった。
(今日は、間違いなく会えるんだ。後は、待つだけ・・・・・・。)
男は、自分にそう言い聞かせていた。
男は、テーブルだけをチャージして、他のホステスなどは付けずに待った。
待っている間、それほど広くはない店内を、男は改めてぐるりと見渡した。夢に出てきた艶やかな紅色のソファーに、暗紫色のガラステーブルが、確かに並んでいる。
(やはりあれは正夢だったのだ。夢の天女は間違いない・・・・・・。)
男はにんまりと一人でにやけていた。
気が付くと、店内をゆったりと包んでいる甘い音色のBGMは、聴き覚えのある音楽だった。70年代フュージョン音楽の隠れた名曲の一つ、Wilbert Longmireが奏でる、♪Pleasure Island♪♪。
ハイトーンのギターと、エコー掛かったエレクトリックピアノとのユニゾンがつくり出す、爽快な音宇宙がとても心地良い。その浮遊感は夢の別世界へとトリップさせてくれる。
このとき男は、大海原の難破船が永い長い漂流の末、ようやく辿り着いた『楽園の島』で、木漏れ日の中に横たわるような気分であった。
そろそろ待つこと30分――――
張りつめた糸が弾性限界を超えるように、男の心の均衡は破れた。心の中で始まった攻防戦は終結を迎えたのである。
結果は、早く会いたいと逸る心の革命軍が、待とうと思う忍耐心の防衛軍に、勝利してしまった。
「まだですか?」
男は堪らず、黒服のボーイを呼びつけた。
「申し訳御座いません。お客様。もう暫らく、お待ちください」
若いボーイは、マニュアル的な営業口調の対応だった。
「いつまで待たせんだ! 指名してるんだが?」
男は声を荒げてしまった。敗北した忍耐心は、とうとう言葉の制御もできなくなっってしまったようだ。
「本当に、申し訳御座いません。お客様。ご指名のホステスは、ただ今、先約の方に接客中でして、もう少々・・・・・・」
ボーイは深々と頭を下げるや否や、慌ててマネージャーのところへ走った。
「失礼致します。お客様! よろしければ、お待ちの間、こちらのニューフェイスが、お相手致します。・・・・・・もちろん、当店からの無料サービスです」
マネージャーは、代わりのホステスを連れて、薦めてきた。
男が座るテーブルの向かいに、赤いミニのワンピースを身に着けた魅惑的で大きな瞳に、色白で豊満な胸を抱えたホステスが現れた。十代を思わせる幼さが残る小柄な女性だった。
「初めまして、新人のアミでーす。よろしくお願いしまーす! わたしとー、すこしー、ご一緒してください」
昨日入店したばかりだという若い新前ホステスが、まるで子猫が甘えるように席を隣にしてきた。
「ありがとう! でも・・・・・・」
男は、若いホステスに視線を合わせることもなく小さく答えた。
「お替りのお飲み物は、何にー、なさいますか?」
若いホステスは、眩しいほどにピチピチの丸い肩を寄せ、脳天から発するようなハイトーンの声で、甘い誘いをかけてきた。
「いや、結構! まだ、これ、飲んでるから・・・・・・」
男の頑なな心は、どんな魅惑的な誘いにも動じなかった。
「それではー、おつまみでもー、何か?」
「いや、食事は済んでるので・・・・・・」
「それなら、フルーツか何かー、食べますぅ?」
「うんー、それも結構!」
「んじゃー、お話ししましょ・・・・・・」
「うんー、まぁ、その・・・・・・」
男は、言葉も出ないのか、俯いてしまった。
「まあ? このアミではー、ダメですか?」
若いホステスは、小首を傾げながら、男の肩にそっと手を当てた。
「うんん・・・・・・。悪いが、一人でいいよ」
男は、新前のホステスが不満なわけではないのだ。男の熱い想いは、もう他の女ではだめだった。
「アミー、とても残念ですわぁ。素敵なーお客様ですのに? ・・・・・・ではー、失礼しまーす」
若いホステスは小首を傾げ、トホトホと席を空けた。
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