〈第3章〉 契約の恋人(1)

1.契約の恋人誕生


 トワは、暫らく沈黙していたが、やがてその重い口を少しずつ開いた。


「わたしの母は身体障害者だったの・・・・・・。わたしは児童施設で育ったわ。幼い頃から家庭には恵まれなかったの。たとえどんな母でも、一緒に暮らしたかったのに! でも、それは許されなかったわ・・・・・・」

 トワは、心の奥底に仕舞い込んでいた辛い想いを吐き出した。


「そっ、そんなぁ?・・・・・・」

 男は言葉が詰まった。


「ヤングケアラーとかの問題もあって、自宅生活は無理だって・・・・・・。それに、障害者施設では、一緒に暮らせないって・・・・・・。そこで子供のわたしは、別の養護施設に預けられたの。とっても寂しかった・・・・・・」

 トワは口篭もり一息入れた。そのとき瞳は赤味を帯びていた。

 男は、掛ける言葉も見つからず、ただ黙って頷くだけだった。


 トワは気を取り直すと、また話をつづけた。

「わたしの夢はね。障害者とその子供たちが一緒に暮らせる、家庭的な施設を造りたいの。母がお世話になった施設を再建したりして・・・・・・。そのためには莫大な資金が必要! だから身を粉にしてでも、必死に働かなくては・・・・・・。今の仕事もその一つ」


 話し終えたトワは、堪えていた涙を止めることができなくなった。そして、バッグから薔薇の模様のハンカチを取り出して、目頭を押さえた。


 男は、辛抱に辛抱を重ねているトワを、益々愛おしく思った。言葉を掛けるよりも先に、優しく肩を抱き寄せた。そして、トワが手にしていた薔薇のハンカチを取り、そっと涙を拭いてやった。


「うーん、うん、うん。・・・・・・そう、そうなのか。夢のために、頑張ってるんだね! よーく分かったよ。トワさん」

 男は、何度何度も頷いたあと口を開いた。


「ありがとう! 分かってもらえて・・・・・・」

 熱い涙のせいかも知れない、トワの声はトーンも低く、れていた。



 トワが語る身の上話を聞くうちに、男の脳裏には、ある一つのアイディアが浮かんでいた。やがてその思考は、F1サーキットのように目まぐるしく、男の頭の中を駆け巡った。


「じゃー、君の夢のために、こんな俺だが、少しでも、役に立てたらいいなぁ・・・・・・」

「ありがとう!」


「そうだ! 俺に、トワの!」

 男は、熱い想いを吐き出した。


「えっ? わたしの時間を?・・・・・・」

 余りにも突飛な申し出に、トワは小首を傾げた。


 トワの事情を聞くうちに、次の思いが、男の頭の中に大きく広がった。

(( トワが仕事をこのまま続けることは、心にも体にも厳しすぎる。トワは働き詰めで、休みもろくに無い。この世で一番大事な人が、病気にでもなったら何よりも辛く悲しいことだ。美人薄命などともよく言われる。トワにはいつまでも綺麗で、いつまでも元気でいて欲しい。そのためにも、仕事を忘れてゆっくりできる時間を、時々作ってやりたい。そして、トワの魂の記憶が甦った暁には、人生の伴侶となって現世の最期を一緒に迎えたい。 ))

「ホントに、トワは忙し過ぎだ。このままでは、なかなか君に会えない。店に通っても、会える時間は僅かだし、通い続けるにも、ふところの余裕もない。せめて、せめて週に一度。二人だけの時間が欲しい」

 男の熱い思いは、熱弁へと昇華した。


「ううん。そうねぇ?」

 トワは小さく頷いた。


「・・・・・・そうだ、週の一日だけ!『俺の専属』になってくれ!」


「えっ、専属ですって?」

 トワの大きな瞳は、零れそうなほどに、瞬きを繰りかえした。


「そうそう、君のお勤めの一日分を、売って欲しい! ただ、誤解しないで・・・・・・。君を買うと言っても、んじゃない。トワの大切な時間を、少し分けて欲しいのさ」


 唐突で思いも寄らない男の提案に、トワは、暫くの間、俯いたまま口を閉ざしてしまった。

 男も黙って寄り添うと、神妙な面持ちで、彼女の返事を静かに待った。


「そうねぇ、専属契約ってことよね? ・・・・・・ううん、できるかしら? ただし、わたしの収入が、減らないことが、条件だわ」

 トワも神妙な面持ちで、男の目を見つめながら、ゆっくりと答えた。


「もちろんだよ! 君の一日の収入分を、俺は買うのさ・・・・・・」

 トワの右手を、男は両手でしっかりと握りしめた。


「その時間で、デートするのね?」

「そう、その日は、俺の恋人になっておくれ! そして時々、絵のモデルも・・・・・・。仕事を忘れて、二人だけのステキな時間にしよう!」


「分かったわ。ただ、もう一つ、条件があるの」

 トワの笑顔が、急に引き締まった。


「何だい、条件とは?」

「それは、お互いの自由を、束縛しないこと。そして、契約日だけの、お付き合いで」


「契約日かぁ?」

「そう! 週に一度、あくまでも契約の曜日だけ。だって、今のわたしには・・・・・・」


「そうだね。君の大きな夢のため・・・・・・。わかった!」

「ありがとう!!」

 少し強張っていたトワの顔が、笑顔になって大きく弾けた。


「早速だけど、都合は、何曜日なら?」

「そうねぇ? エステサロンの書入れ時、金土日以外で・・・・・・、週の始めの方かな?」


「それじゃー、火曜日ではどうだい? 自分も都合がいいんだ」

「それはいいわね。火曜日ね!」


「じゃー、良かった!!」

「それって、『Ruby Tuesday』になるわよ」


「うん! ストーンズの名曲にあったなあ? ♪Ruby Tuesday♪♪ いい響きだ!」

「嬉しい! トワも、楽しんじゃうからね!」

 トワの笑顔は、満面の笑みへと膨らんだ。


「もちろんさ、二人だけの火曜日は、恋人同士の時間だよ!」

「それなら、『 火曜日の恋人たち』の誕生ね?」


「うんうんうん。それっ!『白い恋人たち』みたいな響き・・・・・・だね? ちと古いかぁ?・・・・・・」

 男は、脳天を掻き掻き照れ笑いだった。

 

「そっ、それぇー。うーん? オヤジギャグっぽい?」

 トワの笑顔がはにかんだ。


「よーし! これで契約成立だあぁ。よろしく! トワさん」

「ハイ!」


 このあと二人は、契約の印ということで、固めのさかずきを交わすことにした。

 紅いワイングラスを合わせ、をしたのであった。


 

 男は、トワの火曜日の収入分を肩代わりすることで、専属契約を交わしたのだ。

 それは『恋人契約』の成立である。


 毎週火曜日の午後は、『二人だけの秘密クラブ』の時間。

 何よりも大切な、宝石のようにキラキラと輝く一日となる。まさに『Ruby Tuesday』なのだ。


 男は、交際の専属契約料として、トワの時間を買う。言い方を変えると、彼女の夢を実現させるために、資金援助をしながら交際することになる。

 つまり、これこそがなのである。


 ただし、この契約では、男女の肉体関係が目的ではないのだ。俗に言われる愛人契約などとは、全く違う。その意味合いも、実際の付き合い方も。

 そして、結婚は前提にできないので、言うなれば「友だち以上恋人以下」の仲となる。


      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 トワは、男のことを『ショウ』と呼んだ。

 本名は矢吹翔一やぶきしょういち。まだまだ無名の画家だった。

 両親も亡くし、四十を過ぎても縁談なども断り続け、栃木の田舎町で独り寂しく暮らしていた。


 男は、全国的にも希少な芸術系公立高校に20年近く勤務した。普通高校の芸術科目の教師は、非常勤講師としての採用が多いが、この芸術高校では本採用であった。

 そんな恵まれた美術教師の仕事もこの春辞めて、親の遺産を食い潰しながら暮らしていた。


 何故、安定した生活が保障されていた教育公務員の仕事まで棒に振ったのか。

 男は残りの人生を、画家の道に懸けたかった。それは悲願であったのだ。


 5年前に亡くした父親も、芸術の道を目指していた。名もない書道家だった。町の助役を務めていた父は、政治の世界に時間を取られ、その仕事の傍らで書道を趣味として嗜むしかなかった。

 しかし、本当の父の夢は、書の世界で名を残したかったのである。そんな父の背中を見て育った男は、父の思いを知って、その成せなかった夢の分まで、同じ芸術という孤高の世界に身を投じたのであった。


 トワとの交際が始まると間もなく、男は彼女をモデルに肖像画を描き始めた。

 それは魂で描く、まさに天女の絵であった。そのためにも、毎週のように彼女と会う必要があった。

 でもそれは表むきの口実で、建て前と言うのか、とにかく男は、愛しいトワに逢いたかった。


 男は、逢いたくて、あいたくて、会いたくて待ちきれない。

 毎日のように携帯メールを彼女に送った。メール文の最後には、いつも決まって、ある一言を添えていた。


   『また@愛多意』


 愛=逢い。多=た。意=い。何度でもたくなる、熱い思い()を込めた、愛しいトワへ捧げるメッセージ。

 男が創ったであった。


 火曜日の恋人たちは、甘くてほろ苦い大人の味がする二人だけの世界を、一歩一歩確かめるように歩み始めた。

 

 

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