-金曜日、悪魔の真の姿、UFO公園での出来事、骰子の目は五(1)-

 相模原の山中に分校などない。



 金曜の朝、ひどく頭が痛む。

 昨晩シムルグが飛び回ったせいなのか、駐輪場ちゅうりんじょうでびしょ濡れになったせいなのかわからない。


「マコト! 早く起きなさい遅れるわよ」


 階下かいかの母の怒号もずきずき痛む頭にかき消された。

 だから精一杯ぼくは大きな声で叫んだ。


「母さん体温計!」


「38.2℃、莫迦ばかねあんなびしょ濡れになって帰ってくるからよ」


 とにかく起きていられない。

 さすがに人間38℃を超えると寝ているしかできない。

 父さんが枝打ちに山に入っていった。

 ぼくはといえば部屋着の上にジャージを着せられ母の軽自動車で、こじんまりとした診療所しんりょうじょに連れて行かれた。

 他の患者は老人ばかりでだいぶ待たされそうだったが高熱を出しているということで、さっさと診てくれた。

 どうやら元々風邪気味だったのに昨日びしょ濡れになったまま校舎を歩き回ったのが原因だったらしい。

 取りあえず薬を出されて熱が下がるまで寝ているように言われた。


「あの……中間テスト近いんですけど」


「そんなもの普段から勉強してりゃどうとでもなるだろうが、自分の体と効率の悪いテスト勉強、どっちが大切なの?」


 ごもっともですお医者様。


 帰宅したマコトはベッドでずきずき痛む頭を抱えながら、ユウナからのメッセージが入っているのを確認した。

 慌ててかけ直す。


『どうしたの? マコト、テスト直前なのに休むなんて』


『今、休み時間?』


『そうだけど、いったいどうしたの』


『昨日びしょ濡れになって、熱出して寝てます』


『え!? 大丈夫なの?』


『大丈夫じゃない、一番いいのを頼む』


『ぷ、マコトやっぱり面白いね。次四時間目だから、お弁当食べながら昨日のこと話すわ』


 ユウナの物言いには何か含みがあるようだった。

 取りあえず、学校が昼休みになるまで待たなくてはならない。

 マコトは母の作ったリンゴのすりおろしを口にした。

 それは熱のせいで苦かった。うとうととベッドに横になるとマコトは枕元の読み止しの本を見遣った。

 チャーマーズの【意識する心―脳と精神の根本理論を求めて】だ。

 残念ながら現状全く読む気になれない。

 傍らの本に目を向けるとマコトは布団に潜りこんだ。

 さっさと読み終わりたいのに。

 意識は段々遠のいてゆき暖かい闇の中でさえマコトは火照ほてりと寒気を同時に感じていた。

 明日、学校行けるかな? 莫迦ばかしいと思いつつもマコトはそんなことをなんとなく考えては海老のように布団の中で丸くなっていた。


 やがて眠りの神ヒュプノスは羽ばたく。


 マコトは白い霧に包まれたみちを歩いていた。

 すると遠くに六月だというのに立ち枯れた背の高い木々が見えてきた。

 奇怪なうねりの枝やうろのある木々が延々と続いている。

 どうやらこの枯れ木の森に迷い込んだようだ。


「眠れないと必死に訴えかけていたね」


「!? 誰だ?」


 武井マコトは仰天して目の前の人物に向き直った。


 いつもの影法師。

 今日は山高帽に外套がいとうの黒づくめで哀れなほど痩せこけておりまるで周囲に溶け込むかのような枯れ枝のようだった。

 棒人間と形容されたのも仕方ない。

 そしてぎょろりとしたまるだけがてらてらと光っている。


「失礼、自己紹介がまだだったね、武井マコト君。随分長い付き合いのようでもあるのだが、さて、わたしは否定するところの神」


「――メフィストフェレス……!」


「ご名答、さすが博識はくしきだね。でもそれを持て余してもいる」


 ばつが悪くなってマコトは少し離れた。


「悪魔風情が何の用だ?」


「田中ユウナをわたしにくれまいか」


「ユウナの自己同一性じこどういつせいは彼女の物だし、その権限はぼくにはないよ。せいぜい卜部うらべって男にくんだな」


「彼には別働部隊べつどうぶたいが向かっているよ」


「鳥の王か」


「左様、かれはよくやってくれている、褒美ほうびを渡したいところだ」


「なるほどシムルグを裏で悪魔が操っていたわけか、道理で動きがスマートだと思っていた」


 看過されたのが可笑しいのかメフィストフェレスはケタケタとわらい、あまりにのけぞるので山高帽が落ちてしまった、その頭には一本の髪の毛も生えてなかった。

 そして落ちた帽子を拾って目深に被り直すと悪魔は言った。


「明日学校に行きたいのだろう? 連れてってやろうではないか」


 病的に長い指をぱちんと鳴らすと、急に場面は学校に変った。

 学校には哲学ゾンビたちが沢山いて、いやそれどころかむしろ自分以外は全て哲学ゾンビで、何も感じない見えない味わえない、匂わない、聞こえない? 世界を認識しているのは自己同一性に基づき、武井マコトだけだった。

 なぜその可能性は捨てきれないのだろう? 自分だけが世界を認識しているとしたら、それは誰の手によるもので何故自分だけが選ばれたのだろう? 熱に浮かされた悩める武井マコトはメフィストフェレスの哄笑こうしょうを聞きたくないから毛布を頭から被ってそれを回避するように布団に潜るのだがいつの間にかメフィストフェレスはマコトの頭の外に出ていて大音響で狂ったように笑い始めた。

 ものを考えようとすると頭の中のメフィストフェレスが眠れ眠れと訴えかけてくるのだった。



 スマホが鳴った。ユウナからの着信だ。

 どうやらメフィストフェレスは夢だったらしいし、むしろ夢であってほしかった。


『マコト寝てた?』


『いや、起きてたよ。心配しないで』


 そういって嘘をいた。


『よかった、少しは熱下がってテストに間に合えばいいんだけど』


『そうなるようにぼくも願ってるよ、弁当は食べ終わったのかい?』


『ええ、ごちそうさま』


 さて聞きにくい話題をくにはどうすればいい? ユウナは昨日とは打って変わって昨日の出来事を話すと言った。

 何か心境の変化があったのだろう。だが易々やすやす訊いていい話ではない。

 たとえば自然に話の流れの中でなんとなく訊く? 単刀直入に訊く? それよりも彼女から話し出すのを待つ?


『どうしたの? ぼんやりして?』


『ああ、ごめんごめん、考え事しててさ』


『どうせ昨日タケシとわたしがどうなったか気になってるんでしょ』


『はい……』


『別に体は無事よ』


 ふうとマコトは胸をなでおろした。良かった! さすがにあのタケシもそこまで分別がないわけではなかった。


『あーよかったあ、あのバカタケシが酷い事したんじゃないかと思ってヒヤヒヤしてた』


『ディープキスはされましたけど』


『ええ!! 強引に!?』


『強引です』


『あの莫迦、登校できるようになったら裏拳うらけん気味にグーパンチくらわしたる!』


 まったくなんということだ! 自分の彼女とはいえ本人の同意なくディープキスだと!? 女性に対する冒涜ぼうとく軽蔑けいべつはなはだしい。


『それで結局あのあとバイクで学校を出てUFO公園に連れてかれたのよ』


 UFO公園とは市街地の一角にある公園で、UFOに似た遊具があることでそう呼ばれてる、後は滑り台と、ジャングルジムがあるだけのしみったれた市街地の公園だった。

 以前は砂場があったのだが野良猫のフンの問題で撤去されていた。


『UFO公園に? でもあそこアキヒコの家の近くだとは思うけど』


『そこで鳥の王に逢ったわ』


『なんだって!?』


 マコトの部屋の時計が13時を指した。


『いけねっ、5時間目始まるよ』


『うん、また放課後か、家に帰った後連絡するね』


『おう、じゃあなぼくは少し休むことにする』


 先ほど寝ていた間に母が運び込んだ粥飯かゆがサイドボードにあった。すっかりぬるくなったそれをマコトは口に運んだが、やはり酷く苦く感じた。

 食欲はなかったが食べないと快復かいふくしないことは判っていたのでなんとか嚥下えんげした。

 そしてまたマコトは横になった。いつの間にか氷枕も交換されていた、我が母ながら気が利く。

 ペットボトルのミネラルウォーターで医師の処方した抗生物質こうせいぶっしつ解熱剤げねつざいを服み下すと、また武井マコトは深い眠りに滑り込んでいった――



武井メモ

メフィストフェレス:ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスは誘惑の悪魔とされ、神との賭けでファウストの魂を悪徳へ導こうとする。今作のメフィストも同様である。

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