-月曜日、まだいつも通りだった頃、眠れない夜と骰子の目は一(3)-

「ごちそうさま」


「どうしたのマコト、またダイエット?」


「いや単純に食欲がない、カラオケで結構まんできたから」


 ぼくはそう投げ遣りに母に言うとはしを置いて立ち上がった。

 何かあったのね、お見通しの母を尻目に二階の自室へと急いだ。


「まだ、勉強があるから」


 嘘。何か発散するような、病んだイラストでもノートに書いてこのモヤモヤを消し去ろう。

 ただでさえ眠れないのに、夕方の一件でぼくは眠る気なんて無くしていた。

 机に向かってデスクランプを点けると、そこは母の立ち入りを抑制よくせいしているだけあって、マコトの城ともいえる空間になっていた。

 なまじ自分は絵が上手かったので、デューラーやボッシュ、ベクシンスキー等に影響された奇怪な画を描いては、気に入ったものを机の周りに鋲で貼っていたし、インテリアとして販売されているデッサン用頭蓋骨ずがいこつを購入しては、太古の賢者よろしくサイドボードに置いていた。(実際頭部のデッサンにも使用していた)

 その机で一人マコトは英語の掛け線のノートと『高校英語2』という教科書、英和辞書、さらに英語教諭謹製きんせいの文法暗記用プリントを広げた。

 一応はポーズだけでも勉強する姿勢を陳列ちんれつする気だったのだ、このマコトは。


 我ながら狡猾こうかつなやり口だ。


 なぜならノートにもプリントにも教科書にも、夕刻カラオケでユウナに教えてもらいながら、要点を纏めた跡が見て取れた。

 それが全く頭に入っていないにしても、だ。

 そして勉強机の引き出しからA4のコピー用紙を取り出すと、マコトは一心不乱に残虐な何かを描き始めた。

 それは思春期の少年少女によくある『病んだ絵』なんてものではなくて、ドレの地獄絵図とベクシンスキーの邪悪さを兼ね備えた、ありあとあらゆる恐怖、畸形きけい、病み、ほのお雷霆いかづちおそれそういったものが混然こんぜん一体となりある種の秩序ちつじょを生み出すまで反復され、再生産されていた。

 まさにマコトの画才はそういったものであった。

 人間のうちなる地獄の吐露とろ

 そこでは最早人間存在は矮小わいしょうに矮小を重ねられ、ディフォルメされた身体からは絶えず血を流し、ゆがめられた肉体を白日の下へとさらしていた。

 マコトは二時間ほど一心不乱に描き続け、時計が二十二時を告げるのを知ると、その作品を粉砕するという形で別れを告げ、入浴のために階下へ降りて行ってしまった。

 一時間ほどしてマコトは寝間着で戻ってくると、今度は英語のプリントと教科書、ノートに目を通し、辞書を見ながら自作の単語帳をまくって、テスト範囲と受験用の単語を書き出す作業を始めた。

 これに一時間半ほど時間をかけた。時計は零時を告げていた。


――眠れない。


 そうだ、眠れないのだ。

 今、布団に入って目を閉じたところで朝方までマコトは眠れなかった。

『眠れなくても目を閉じて横になってるだけで疲労は回復するから、夜の間は横になっていなさい』

  母は度々そう言っていた。

 たまには言いつけを守って横になっておくか……マコトは梅雨のせいなのか湿気っぽい布団に滑り込んだ。六月半ばとはいえ相模原の山中の夜間はひえびえとする。眠れないと先ず読みしの本を読もうとするのはマコトの悪い癖だ。布団を引き寄せて目を閉じる。


――眠れない。


 目を閉じると漠々ばくばくとした闇がただ広がっていた。

 そこではマコト一人きりで、世界とのつながりは何ら感じることはできなかった。ほんとうの孤独だけがそこには広がっていた。

 父も母もとっくに床に入っており、あの集合的無意識に還元かんげんされていると思うと、歯がゆい気持ちがぞわりと去来した。


――眠れない。


 そうだ眠れない。

 すでに目を閉じて内なる闇に目を向けているのか、目を開けて真っ暗な部屋をながめているのか? それは意味をなさなくなっていた。

 なぜならそれらはマコトにとっては等しかったから。

 不眠を経験したことのない者は幸いである。

 まんじりともせぬまま朝を待ち、不毛に星々が空を巡るのを布団を被って恐れていることは、あまりにも哀しくはないか?

 マコトの目が慣れてきたのか、古い木造建築の一室の天井の木目までが、はっきりと見えるようになっていた。

 今晩も眠れない、マコトは嘆息たんそくした。


 だがその晩に限って様子が少々違っていたのである。

 天井の木目は奇妙な動きを見せると形を変え、ゆがみ、ぐるぐると動き出した。


――これはいい塩梅に眠れてぼくは夢を見ているのに違いない。


 マコトはそう思い込もうしたが、残念なことに手指は動き、身に掛けているタオルをカサカサといじった。

 明らかな動揺どうよう

 だが木目の柄は動き続け、先ほどマコトが描いていた地獄絵図が再現されていった。


――なんだこれは!?


 仰天ぎょうてんして思わずマコトが声を上げようとすると、シーツから黒くて細長い腕がにゅっと出てきたと思うと、マコトの口をふさいだので益々仰天した。口にてがわれているのは、蜘蛛くもの足のようなありえないくらい細長く骨ばった指で、ささくれのように黒い物質がまとわり付いていた。

 その間にも地獄絵図は天井でマコトが完成させたとおりに再現されると、やはりその終焉しゅうえんはマコトがそうしたように、一瞬にして消え落ちて元の天井に戻った。

 誰何すいかしたかったが、口を塞がれてそれもままならなかった。

 これは内的言語が通じる相手ではないのか? マコトは試に話しかけてみることにした。


――おい、先ほど描いて消した絵を見せたりしたりして一体お前は何者だ?


――君とは初めてではないよ武井君、でも今はまだ名乗れない。


――姿を見せたらどうだ?


――今はまだその時ではない、ただ君が眠りを欲したから。


――確かに眠りたいとは言った、しかし訳のわからない存在では困るんだよ、名乗ってくれたまえ?


 するとそいつの手を構成した黒っぽい物質が舞い上がり、渦を巻くとマコトの瞼を覆った。


――グッナイ、マコト君。よい夢を


 そうしてこれは聞こえるようにはっきりと音声にして言った。


「知識、知性、智慧。いつまで経っても無駄遣い欲しがってる連中が歯ぎしりしながら届かぬところで嫉妬にかられて見ているのだ」


 するとマコトは今度こそ本当の眠りへと落ちて行った。

 そして夢の中である詩句しくが浮かんでは消えていた。それはこうである。


翌朝、あなたにとって

夢見た事も夢見られた事も、

全ては目覚めと共に消失するが、

あなたの虎の感触だけは実存じつぞんする。


 不思議な詩句であったが、マコトは目覚めるとこの詩のことは『存在しなかったかのように』忘れていた。

 マコトが奇妙な存在と共に虎を夢見るのは、もう少しだけ後のことである。



武井メモ

集合的無意識:無意識のさらに奥深くにある、民族や国家、人種を超えた、全人類に共通して存在する無意識である。

実存:主観とか客観とかに分けてとらえる前の、存在の状態。ここに今あるということ。

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