「欲巣にDREAMBOX」あるいは成熟の理念と冷たい雨〜鳥の王シムルグとファウスト博士による変奏としての世界とその神秘

雀ヶ森 惠

1.怪物の工匠

-日曜晩、否定するとのころの神、骰子を振る-

 相模原の山中に分校などない。


「私は少女であるところの私に囚われているのです」


 読みにくい字幕の中そう言って、もう若くも年を取ってもいない女は被っているシーツを引き寄せた。強いコントラストが画面全体を覆っている。

 モノクロームの画面でも判る朱を塗った唇から漏れるのは、一種の苦悩に満ちた懺悔であった。


「故に私は少女のフリを続けなくてはなりません」


 女はがたがたと震えだした。そうしてやっとのことで二の句を継いだ。


「私は去勢きょせい されました、女にされたんです――両親によって」


 勿論彼女は去勢された男のわけではなかったし、両親に去勢されたというのもこの場合、世界にはどうしても必要な『ほんとうかもしれないうそ』の一つとして存在しているようだった。

 ところが、とにかく女はおびえきって疲弊しており、シーツの影から覗く落ちくぼんだ眼は光を失いフィルムの中からだというのに死霊よろしく、邪なものを投げかけているのであった。



 タケシは決まってそのあたりになると映画を放棄するように眠りに落ちていった。


破壊の破壊タハフトウルタハフト 』(1996 ユーゴスラビア)は彼には難解すぎたがこの映画を借りた以上、返す期限まで観終わることは義務だと感じていた。別に特別な期限があるわけではない、レンタルビデオ屋から借りたわけでもない。

 この映画は友人の心酔する作品で、半ば強引にDVD-Rに焼かれたこの『破壊の破壊』を渡されたのがきっかけだった。爾来、彼は『破壊の破壊』の感想をしつこく聞いてくるので、観なくてはいけないという義務感にかられてはゲーム機に入れて再生するのだが、この冒頭の奇妙な告白で必ずと言っていいほど睡魔に襲われてしまうのであった。

 であるから友人が諳んじている『破壊の破壊』のもっと後半のせりふ。例えば、


「あらゆる物語が存在するというとき真の意味で物語なんて存在しない」


だとか、


「お前がかつて所有していたものも、今所有していると思っているものも何一つ所有してはいない」等々……



 ただ映画を見て眠りにつけるものは幸いである。

 映画というだけで執着し、最後のせりふが終わるまで、映画館の座席を、パソコンの前を立つことができず呆然としながら表情の抜け落ちた顔でスタッフロールを目に映してる者どもに比すれば遥かに幸いなのだ。

 ともかくタケシは前者の人種であったから心地よい眠りの翼が彼を覆った。


 いくばくかの時間が過ぎ去った。

 とうに夜半を越え、雨雲が切れタケシの家の山葵田わさびだ には、満点の星々が輝いていた。

 このままタケシは朝まで眠る所存であった。六月の晩、梅雨の晴れ間に穏やかな眠り。だがそれは急な着信でかき消された。

 タケシはしぶしぶ目を覚ましスマホを握る。非通知設定。誰だ? 無視したが電話は鳴り続けた。 

 一分……二分……しびれを切らしてタケシは電話に出た。すると、


「お前は卜部うらべ タケシだな?」


 日付は変わって日曜の晩、掠れたボイスチェンジャーを通した電話口からタケシを名指しする声が漏れた、おそらく公衆電話からかけてきている。


「だ、誰だよてめえ? 悪戯もいい加減にしろ、何時だと思ってるんだタコ! だいたいオレの携番知ってる時点で怪しいし、絶対オレの関係者だろ、そうじゃなきゃボイチェン使う意味が無いからな。お前マコトか?」


「わたしは鳥の王、お前が言っているマコトが武井マコトだとすればそれは違う」


「ほう、鳥の王は武井の事も知っているみたいだな」


「シムルグは全能なのだ――そうだなお前は田中ユウナと付き合っているな?」


「だーかーらー、お前はオレに近しい誰かで鳥の王とやらと名乗っているだけだろ!? バカバカしい、もう切るからな」


「田中ユウナはもうすぐ死ぬ」


「――どういうことだ!?」


「六月の雨の日、階段から落ちて死ぬ」


「は? おめぇいい加減にしろよ!? 誰だか知らねえけどぶっ殺すぞ!」


「これは運命によって決定づけられている、田中ユウナが死ななければ世界は破滅する、今更変更は不可能だ。だが救いの山と信仰=智慧ちえの呪縛を解き、自己同一性の覚者となればその運命は回避できる」


 ぷつり、と電話は雑音交じりに唐突に切れた。


誰なんだあいつは!?


 タケシに心当たりはなかった。そもユウナと付き合い始めたのはマコトの紹介というか友達からだったし、そういう意味では武井も無関係とはいえなかった。

 彼女――ユウナのことは前からいいとは思っていたのだが、こんなチャンスが訪れるのも何かの縁だろうと内心ほくそ笑んだ。ユウナは小柄で円い目をした控えめな少女だった、いつもお嬢様のような髪型をしており、イケボの声優にとても詳しかったしタケシの観るような深夜アニメも観ていてくれた。

 交際が始まるとタケシはたちまちユウナにのめり込み、彼女もそれを悪くは思ってないようだった。一つ残念なのは彼女は街側の集落に住んでいることで、学校以外では会いに行くのが難儀なんぎだった。

 しかしながら彼女を知るうちに、さっさと関係を持ちたいとまで甘い考えをタケシは抱くようになってきていた。階段から落ちて死ぬ? そんなことさせるわけがないだろう、全力で守って見せる。何が鳥の王だ、ふざけやがって。




 眠れない、眠れない、眠れない。

 夜半を過ぎて時計は午前を指している。再び降り出した雨。山の天気はめまぐるしく変わった。こうして六月の雨の日つめたい夜の晩は明けて行く。

 マコトは微睡が訪れるのを待つ。今夜もそうだ、眠れない。

 いつだって母は『バイク通学なんて』と言うが十六過ぎたし、許可だってあの人がしぶしぶ出した。

 毎日車で学校まで送迎できないし(あの人のクルマに乗りたくないし)パートにも差し障りがある。要はエゴと理性の折衷案なのだ、あの人はいつだってそうだった。

 そうして今日の記憶が脳から湧き上がってくる。テスト前だからと珍しく、苦手科目を自主的に勉強しようとしてたら、母に呼び出されたのだ。

 それもつまらない用事で(それが何かもとっくに忘れてしまった)戦場で出会った二人の男。眠れない、眠れない。


 明け方近くになってマコトはようやく浅い眠りに就く。


 今や明晰夢めいせきむ の支配者と化したマコトは、眠りの引き起こす現象をはっきりと認識していた。

 いつもの学校、昼休み、やせぎすで黒づくめの人形の様な人影が、けたけた嘲笑あざわらう様を屋上へ続く階段で確かに見た。

 屋上は施錠されており入れないのだが、踊場はマコトが一儲けするための格好の場所になっていた。そしてそいつはマコトを指さしこう言った。


「知識、知性、智慧。いつまで経っても無駄遣い、欲しがってる連中が歯ぎしりしながら届かぬところで嫉妬にかられて見ているのだ」と。


 勿論そんなのはぼくが手に入れてるはずはない。

 哀れなことだ。そしてまた、けたけたと笑って黒っぽい粉のようになって消えていった。

 消えたのか最初からいなかったのか、マコトには解からなかった。単なる夢なのかも現実なのかも幻覚なのかも。

 再び布団の中で目覚めるとそれが悪夢の類であっても、覚醒してしまったことにひどく失望した。


 眠れない、眠れない、眠れない。こうして六月の雨の朝は明けてゆく、眠れない。



武井メモ

相模原:神奈川の北西部。

山葵田:ワサビは水耕栽培されている。

明晰夢:夢とはっきりわかってみている夢。

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