一月、たまにはこういうのもよくない?

 既に飲み終えたコーヒーのグラスが目の前に置かれたまま。一時間も前に飲み始めたそれは当然というべきか、雫が滴り落ちている。

 いつも通りだ。親友である筒井雛乃つついひなのとカフェにて、生産性がない放課後。落ち着く。しかし雛乃の何気ない一言がその安寧を少し崩した。


「涼ちゃん、ストロー噛んでるね。欲求不満?」


 グラスに刺さったストローをちらりと見やる。確かにそこには噛み跡があった。更には口紅の薄い桜色も残っていた。完全に無意識でやってしまっていたことだが、マナーはあまりよろしくないかもね。気をつけよう。

 これはあくまで内心での反省。口に出すのは違う言葉。ストローの潰つぶれた先っぽをつまみ、もとの形に戻しながら答える。


「あー、なんかそういう法則? みたいなのあるよね」

「で? 欲求不満なの? まさか彼氏募集中?」


 くく、と悪い笑いが抑えられないという風に雛乃は水を向けてくる。大きくもない丸テーブルに体まで乗り出している。

 どう答えるか分かってていじってるよ、これ。まあ、この質問に関してだけはジョークにジョークで返すなんていう軽率な真似はできない。自ずと返す言葉は一つになる。


「んなわけあるかぁ」


 これだけは確信を持って言える。理由は主に一つ。私の興味は男性には向いていないからだ。ちなみその矢印は宇治川先生という女性の学校図書館司書の先生に向いている、はず。


「雛乃はどうなの? 彼氏大募集中?」

「ないない」


 意趣返しのつもりで聞いてみたが、隙のない笑顔で軽くあしらわれる。本当に何もないんだろうな。以前も思ったが、モテそうなのにこういう所は意外。

 結局その話はそれでおしまい。全く別の話で盛り上がる。だからこの放課後にあった小さなエピソードはまるで忘れてしまっていた。


 再びその話題を出されたら「そんなこともあったな」と思うくらいだろう。


 しかし今だからこそ喫茶店の様子が鮮明に思い浮かぶ。


 この無駄なやり取りはこの″事件″への暗示にしか思えないのだ。


 *


「返却作業の手伝い、ですか?」

「はい、岸辺さんにお願いしたいのですが」

「そのくらいならお安いご用ですよ」


 ある日の放課後、今日は図書当番ではないが、たまたま図書室に来ていた。そこで本を読んでいたら、宇治川先生に手を合わせて頼まれた次第。正直返却作業なんて日常茶飯事だし、当番が休みといえどわざわざ頼むことでもないと思うのだが。ここは先生の人柄の良さが出たか。


「良かったです。ならそこの本を持って、書庫に来てもらえますか」

「え」


 書庫に入るなら話は別だ。詳しく言うなら冬の書庫に入るなら話は別だ。あそこ、寒いんだよなあ。少し前に整理整頓のため、冬の書庫に初めて入ったが、初めてのまま終わらせたい気分になったものだ。

 しかしもう了承しちゃったから。女だから二言があってもいいのかもしれないが、先生の前でその選択肢はない。渋々、書庫返却用の本が積まれた所まで行く。


「よっと」


 持ち上げるかけ声を出すが、ほんの数冊なので軽いものだ。


「じゃあ行きますか」


 書庫に入る扉まで行き、先生が首にぶら下げたICカードで開架する。

 書庫に入った瞬間、ただならぬ冷気に体を震わせる。そうそう、これだよ。夏は図書の保存状態を良好なまま維持するために、冷房で常時涼しい空間にしている。なんなら学校で一番涼しいくらいに。

 逆に冬はそういう配慮がいらないし、人がそうそう出入りする場所ではないため、寒くても暖房を点けたりしない。しかも窓がなく、書庫自体が暗いため、それはもう極寒の地なのだ。


「ああ……、さぶい」

「手短に終わらせましょう」


 この状況を前に平気な先生スゴいと思いかけたが、口が回らないのか声も聞こえづらかったし、既に体も微妙に震えてしまっている。

 ……ダメだ、こりゃ。早めに終わらせないと先生が凍死してしまう。


 会話もそこそこにして、手を動かし始める。本を持っているため萌え袖にもできず、ポケットに手を突っ込んだりもできないのが辛いところだ。

 さて頼まれた仕事というと図書の分類番号を見て、適合している棚に戻すという単純なお仕事。そのため事前の説明もほとんどない。ただ単純なだけに書庫をどれだけ把握しているかの差がもろに出る。私も何回かやって書庫の位置関係は覚えたつもりだが、やっぱり先生の機敏さには敵わない。とりあえず足手まといにだけはならないようにしよう。

 そんなことを頭の片隅で思い始めた所で、作業中の先生に出会う。


「あ、先生」

「…………」


 あれ、反応がない。と思ったら急にその場でうずくまる。


「せ、先生?」

「ああ、ああ……。岸辺さん……」


 ぶるぶると震えている。何がって? 体もそうだが、声も何もかも。スマホのバイブレーションみたいだ。あちゃー、間に合わなかったか。


「大丈夫ですか?」

「だい、じょぶ……です」

「いや、大丈夫じゃないでしょ」


 ただでさえか細い声なのに、ことに増して声量が小さい。原因ははっきりしている。この寒さのせいで呂律が上手く回っていないのだ。その姿は滑稽といえば滑稽だが、放置できるようなレベルでもない。すぐさま次なる提案をしていた。


「どうします? 一旦作業を中止して、続きはまたの機会にしましょうか?」

「いいえ、今日やります。……やり遂げます」


 なんだろう、この意思の強さは。更に声からどことなく悲愴感が漏れ出ている。一世一代いっせいちだいの大仕事という雰囲気を漂わせるが、あくまでも図書館作業。私の言う言葉に分がある。こればっかりは先生が頑固なだけだ。しかし先生の前だと断れないのがこの私。


「はあーあ、なら仕方ありませんね。もう少し頑張りますか」


 そのまま先生と共に作業したい気もあったが、高速化するため先程と同じく分散して作業を続ける。ただしさっきと違う点が一つ。先生がこの冷気の中、倒れないかひやひやするあまり、目に入る所で黙々と本を片付けていた。

 そうしてる内に寒さを徐々に強く感じ始めた。さすがに先生みたくうずくまりはしないが、指が少しかじかんでいるようだ。明らかに動きが悪い。そのせいで簡単な作業にも手間取ってしまう。

 気づけば口の端から白い息が漏れていた。一度口に意識をやると、一気にガタガタと歯の根が合わなくなる。


 人の体が寒さで震える理由。何も意識してそうなる訳ではない。冷えきった体を温めようとして、無意識的に起こるものらしい。つまり本能。こういった反応をシバリングと言うらしい。本で読んだ。

 誰にでもなったことがあるような身近な反応でそれだけで危機感を持つことは少ないだろうが、ある意味体の救難信号だ。つまり放置しているとこうなる。


「ああ、もう駄目……!」


 さっきの先生のようにその場にうずくまる。そうしても何も変わらない。全然体の震えが止まってくれない。

 どこだ! 自分の体であったかい部分! 指や足の先端はもはやダメ。外気との区別がつかないくらいに冷たい。顔もピリピリとした鈍にぶい痛みが走っている。忙せわしなく体を触っていると、「ここ」という部分を見つける。


 腋だ! ここがもの凄くあったかい。血管が集まっており、一般的に体温を測るのに最適な場所とされている、そのぬくもりは伊達ではない。

 はあ、と恍惚も似た吐息を吐く。白い吐息がもくもくと広がり、やがて跡形もなく四散した。真っ白の領域があまりにも広く、なんだか楽しくなってしまった。ここまでの大きさは日常ではありえない。はあー、はあーと何度も息を吐いてみる。


「……何、してるんですか?」


 びくっ、と体が震える。今度は驚きからだ。宇治川先生に幼稚な所を見られた恥ずかしさで一気に顔が火照ってくる。

 ゆっくり声の方へ顔を向ける。恐る恐るなのは、なんとなく口調で機嫌が悪いように聞こえたから。当たり前だ。急いで作業を終わらせないといけないのに、遊んでいるように勘違いされることをしていたのだから。しかしいざ振り向くと呆気に取られてしまった。


 先生が顔面蒼白で立っていた。おそらくそれもこの寒さのせいなのだろうが、青白く人間味の感じられない肌、艶のあるサラサラの黒髪を見ると、まるで雪おん……、失敬、幽れ……、これも失礼だな。とにかく人ならざるものに見えてしまった。


「……すみません」


 ここで注意があったら、ちょっとくらい言い訳をしていたかもしれないが、さすがに先生のこの様子を見て、そんなことをする気にはなれなかった。


「いえ、ここは寒いですから暖まろうとするのは仕方ありません」

「でも」

「現に私も先ほどはうずくまって、暖をとってましたし」


 なんだかこの状況には覚えがある。実際に経験した訳ではないが、そう雪山。雪山で遭難した二人組だ。そこで眠ってしまうことは死を意味するので、なんとか寝ないように二人で励まし合うのだ。「おい! 寝るな! 死にてえのか!」という風に。時には熱く肩を揺らしながら。

 だがこの場でそんなことをするのは茶番じみている。どっちも他人を鼓舞できるような熱血さは持ち合わせてないし、ロケーションも叙情さの欠片もない書庫だ。さっき提案したみたいに一度ここから出てしまえば何の問題もない。


「岸辺さん?」

「ぅえ?」

「反応が鈍かったので。本当に大丈夫ですか?」


 いつの間にか心配される側に回っている。確かに心配されてもいいくらい冷えきってるんだけど。先生の目の前でそれを全面には出せないかなあ。


「大丈夫です、……たぶん」

「あくまで自信はないんですね」


 先生が口許に手をやり、自然に笑いかける。良かった。ちょっと元気出たのかな。先生が手のひらを差し出してくる。あまりよく考えずにその手をぎゅっと握る。


「あ、私は自分が持ってきた本は片付け終わったので、岸辺さんの本を何冊か受け取ろうと思ったのですが……」

「す、すみません!」


 その言葉と共にパッと右手を離す。そのまま頭の後ろに持っていき、曖昧な笑みを浮かべる。まるでそれがジョークの一部だという風に。

 先生の手はこの並々ならぬ冷気漂う空間でとてもぬくかった。だからなのか右手だけ手汗がだらだらと吹き出てきた。

 照れ隠しのつもりで左脇に抱えていた本をいくつかすぐに差し出す。「ありがとうございます」と言いながら先生は受け取り、作業へと戻っていく。もちろん私も。


 ……ああ、やっちゃったなあ。なんであの手を取ってしまったのだろう。そもそも差し出された手を取るような状況じゃないし、普通意味が分からなかったら訊き返したりしませんかね、私! 

 ていうか先生だって急に手なんか出しても、何目的か分かりませんって! いや握手されるとは先生も思わなかったろうけど。これも全部この寒さのせいだ!


 本来なら行き場のない怒りを当たり屋のように手当たり次第ぶつけていく。この矛先がどこに向いているのか、どこに向けたいのかも私にすらさっぱりだが。

 気づいたら手元に本がなくなっていた。その間全く寒さなど感じず、むしろとてつもないスピードで片付けていたようだ。片手間だったのに。いや片手間だったから、無駄がなく早かったのかもしれない。

 先生もほとんど同時に終わったらしく、最後の一冊を本棚に戻している所に遭遇する。


「あら、岸辺さん。早かったですね」

「……そりゃあ先生が何冊か受け持ってくれましたから」

「それでも早いと思います」


 言われてみれば先生とほぼ同時に終わったのだから、最後の方はかなり早かったのかもしれない。けれどその褒め言葉を素直に受け取る気持ちにはなれなかった。


「早く出ましょう。もう寒いのはこりごりですし」

「はい」


 なんというか先生はごく自然だった。表情も言動もいつもと変わらない。そりゃあ当たり前か。いつも通り書庫の整理をして、生徒が手を握ってくる出来事はあっても、何も感じなければハプニングの内にも入らない。

 いつも通りが崩れたのは私だけなんだ。ちょっとした触れ合いにドキドキするの私だけなんだ。先生に好意があるのも私だけなんだから、そうなるのも当然。でも、なんだか……悲しいなあ。


 先生の手、あったかかった。手が冷たい人は心が温かいなんて嘘だ。太陽だってそうじゃん。燦々さんさんと輝くそれはそこにあるだけで、体も心もポカポカさせる。

 もっと温まりたい。理由はそれだけでいい。その裏の気持ちなんて今は考えないことにしよう。


 始めは指を重ねるように、徐々に触れる場所を広げていく。やがて親指以外の四本指をむぎゅっと握る。先ほどは一瞬で感じられなかった瑞々しい柔らかさが伝わってくる。

 よくスキンケアされている。いや、ひょっとして天然の可能性もあるのか。そんなこと書庫に入る前には知らなかった。


「ん? ……なんですか?」


 理由を訊かれると困ってしまう。先生が私の本心まで貫いてしまいそうで。でも私、その覚悟の上だろ。とりあえず仮初の理由を口にする。


「えーと、さっき先生の手が温かったので」

「はあ、そうですか」


 やはり心は動かないか。その証拠に振り返ってはくれるが、表情が動いていない。いいよ、別に。だったらもっと触ってやるだけだから。今度は手の甲、手のひらも包み込むように握る。なんなら揉む感じで。もちろん右手だけではなく、左手も加えて、両手でね。


「あのう、離してもらっていいですか」


 さすがにやりすぎたか、感情を抑おさえた口調でそう言われる。お、怒ってる?


「子供みたいでこっちが恥ずかしくなってきます」


 先生は空いた手で顔を隠す。その隙間から口角がちらりと見える。くすぐったそうに緩んでいた。

 あ、なるほど。先生はさっきからのアプローチに全く恥ずかしがってないと思っていた。でもそれは寒さで全部包み隠されていただけなんだ。寒さで口数が少なくなったのもそうだし、顔だって赤くなったりしない。

 それならやりすぎたかなあ。名残惜しいには惜しいが、手はするりと離す。


「そうですか、恥ずかしかったんですね~」


 ニヤニヤが止まらない。隠した表情を覗き込むように、上目遣いをする。こういう所は雛乃にだんだん似てきた気がする。

 その時、雛乃との何気ない会話が記憶の底から浮上してくる。私が欲求不満だとか云々うんぬん。かもね。全ての端緒は欲求不満から。そうじゃなかったら、差し出された手に何の疑問も持たず、握り返す訳がない。

 でもその欲求不満が産み出したものは、零時までの魔法みたいだ。気づけば先生の感触が我が物のようにこの手に。求めていたのは暖かな人肌に違いない。もう欲求は満ちていた。


「そ、そんなことはいいんです」


 吹っ切ったように手を離し、顔を露わにする。でも先生? 顔が赤いですよ? 寒いんじゃありませんでしたっけ。あなたは気づいていないようですけど。


「それに岸辺さんの手も十分温かいんですね」

「あ、ありがとうございます」


 はっ、と喜びの息が漏れる。この程度で舞い上がってしまうのが私である。いつの間にか先生をいじる側からいじられる側に回ってしまった。先生を見れない。同時に気障なことを言ったと思ったのか、先生も私から視線を外す。

 意図せずして、背中合わせになる。だから分かるのは私にまつわることだけ。少なくとも言えるのは、顔は凍傷のように真っ赤になっていた。肝心な所で役立たずなのがこの寒ささんだ。けど今日は宇治川先生の手を握る口実を作ってくれた功績に免じて許してあげよう。

 私がおかしいんじゃない。先生だっておかしくない。おかしいのはこの冷気なんだ。なら全部そのせいだよ。


 今一度先生の手を握り直す。その柔らかい手から微かな振動を感じる。いきなりの出来事で驚いているのだ。三回目なのだが、慣れないらしい。初な感じで可愛い。

 本当にそうかは知る由よしもない。それを壊す資格もない。その事実は変わることなく、二人の間にある。


 まあ、こんなこと今回限りなので、しっかり堪能させて欲しい。結果書庫を出るまで、この非日常は続いた。不思議なのは先生がそれを許してくれていたことだ。こういう教師と生徒、その神聖なる一線をあやふやにしうる行為は嫌いそうだと思っていた。

 というか実際嫌いなんだろう。書庫に出る瞬間、どちらからともなく、手が離れ離れになる。魔法は解けたのだ。それはいいのだが、先生はそこで言葉を発する。取って付けたようなぎこちなさを私は見逃さなかった。


「岸辺さんが手を握ってくれたおかげで寒さが紛れました」


 先生にも自己矛盾による呵責があったのだ。分かりますよ、私だってそうだもの。でも今、その言葉は蛇足でしょう。私は律儀に沈黙を保っていた。


 たまにはこういうのも悪くない。あの瞬間はどこかそんな許容を元に繋がっていたように思う。この小さく、柔らかく、温かい手を仲立ちとして。

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