番外編3 告白の時、後輩Aと想い人

「あんたか。うちの涼を泣かした後輩ってのは」


 大層なご挨拶だ。不快感をまるで隠さない刺々しい言葉が耳と心に突き刺さる。しかしどこかで聞いたことのある声だ。名前が出てこない。

 後ろを振り向く。そこでやっと誰かピンと来た。名前は相変わらず分からないが、どういう素性の人かは分かった。その人がここにいるということは……、嫌な予感がする。


「えーと……、岸辺先輩の友人の……」

「筒井雛乃。それと友人じゃなくて、親友ね」

「あ、檜木爽太ひのきそうたです。はあ、親友」


 一応年上なので軽い会釈をする。頭を下げながら、友人と親友じゃ具体的に何が違うんだろうと不思議に思っていた。


「それで誰っすか、そいつ」


 とりあえず泣かせたのが自分という確証もないので、そんな言葉を返してみる。僅かな可能性だが、人違いというのもありえる。

 少なくとも僕は岸辺先輩の涙を見ていない。なら泣いていない。シュレディンガーの猫だ、……とはいかないよなあ。

 筒井さんが険しい目で僕を一瞥する。一度はしらばっくれたのに、急に罪悪感が湧いてきて、思わず訊き返す。


「……先輩、泣いてたんですか」

「そう言うってことは、泣かせたの認めるんだ」

「まあ、そうなってもおかしくないことはしましたから」


 ふぅん、とコケティッシュな雰囲気を漂わせる女子は目の前の椅子を引き、どんと音を立てて座る。そこはさっきまで岸辺先輩が座っていた席だ。にしても見た目とは裏腹に感じ悪ぅ。


「泣いてたよ」


 そうか。僕はそれだけのことをしてしまったのだな。僕からしてみれば、「普通に」告白しただけだ。しかし相手からしてみれば、その行為が「普通」だと思う確証などどこにもない。

 先輩を見ていると、なんとなくそうなるかもしれないと思ってはいた。断られる可能性は往々にしてあるとしても、更に今までの関係性すら壊れてしまう可能性も。

 想定にはあったんだ。ただいざ泣きそうにしている顔を見たら、どうしていいか分からなかった。今回のことで悔やむことなどいくらでもあるが、これはその最たるものだと思う。情けなさすぎる。


「ごめんって謝りながらね」


 加えられた一言に、衝撃が走る。はあ。岸辺先輩はやっぱりいい人だなあ。よく分からないため息が漏れる。

 青臭い後輩が身の程も弁わきまえずに、私という存在に告白してきやがったと友達に吹聴しながら、悪態をついても良かったのに。それこそ目の前にいる筒井さんにそうすればいい。

 でも彼女はそうしなかった。そこが心惹かれる所であり、僕自身が重く受け止めなければならない所だ。彼女の優しさに甘えすぎている。


「あともしかしたら図書室にいる檜木爽太って子が落ち込んでるかもしれないから、代わりにお見舞いをしてくれって頼まれた」


 そこまで来ると絶句していた。よく気が回る先輩だ。自分も全く大丈夫なんかではなかろうに。逆にその優しさが傷口によく沁みた。


「……それはわざわざすみません。助かります」

「感謝の言葉なら涼に直接言いなさい。正直あたしは吹奏楽部の準備で忙しかったし、涼を泣かせた君を率先して助けようなんて思わない。全部涼に頼まれたからやってるだけ」

「謝罪の言葉なんで、筒井さんが受け取ってください」


 ふん、と鼻を鳴らしている。心のどこかでは納得してないのだろう。慰められるべきは岸辺先輩であり、本当なら傍に居てあげたいのは彼女の方に違いない。

 そういえば前に吹奏楽部の友達がいると言っていたな。あれはこの人のことだったのか。所属が吹奏楽部と言われると、彼女に関してぼんやりと思い出してくるものがある。自分はたまに吹奏楽部の手伝いに行くこともあるが、そこで部長と呼ばれていたのが、この筒井さんだったはずだ。


 今は僕を避難しているから怖い雰囲気を漂わせているが、吹奏楽部での練習の時に、やけに可愛い部長がいるなあと思って、ちゃんと覚えていた。

 体格、挙動、声音、全てが可愛かった。でも男が夢想する可愛いを、真の姿に持つ女性など存在しないことを知っている。女子の間で飛び交う可愛いが、男にはまるで理解不能なように。だから嘘っぽくて、個人的になんとなく苦手だと感じていた。

 眼前にいるのは正しくその人だった。急に思索の穴に落ち、黙りこくった僕に、目をぱちくりとさせている。あざと……。


 確か明日が吹奏楽部の演奏だったはずだ。ならその前日は練習やら準備で大わらわに違いない。そこで部長がいないのは、大きな混乱を招くのではないだろうか。

 僕はそれをもちろん悪いと思いながらも、自分の話を聞いてくれる筒井さんにただただ感謝していた。


「それでどうして告白なんてしたの?」

「なんすか、それ。新しい拷問ですか」


 どうして告白したかなんて、好きだからに決まってるじゃないか。他に思い付く理由があるなら、教えてほしいくらいだ。それとも本人の口から言わせたいのか。それとも好きになった理由を一から十まで全て喋れというのか。初めてちゃんと喋った赤の他人に。


「あたしはいたって真面目に訊いてる。泣いてて錯乱してる涼の話だけを聞いて、ホイホイ信じる訳にはいかないでしょ」


 それも道理か。仲が良いという理由だけで盲目的に親友を支持せず、内心では公平でいてくれるのはむしろ有難い。ならば僕もそれなりに誠意を見せなければ。


「そりゃあ岸辺先輩が好きだからっすよ」

「浅いな」


 はっ、と馬鹿にしたような笑い声。それと共に吐き捨てるような短い一言。自分で訊いておいてこの態度では、さすがに少しイラッと来た。


「好きに浅いも深いもありますか?」

「あるよ」

「じゃあ例えばどんな要素がそれを測るんすか?」

「少なくとも別に好きでもない初対面の人に、あっさり他人への恋心を明かしちゃう君は浅いでしょ。恋心は隠してナンボだから」


 ぐうの音も出なかった。いや、むしろ正論で殴られたうめき声が出てしまったかもしれない。一応僕にも恋心を明かす呵責みたいなものはあった。でも誠意を見せることが大事だと思って、言ってしまった。確かに浅いのかもな。


「あとなんで今日告白したの?」

「えっ、それは……」


 うわあ、恥ずかしい。重点はどうして今日なのか、という部分だろう。つまり告白したのが文化祭の一日目なのはどうしてだということ。更にその裏には別の日じゃ駄目だったのか、という僕を非難するようなメッセージが籠っている気がする。

 これはいわば僕に告白を決意させたキーになる部分だ。だからこそ欲望が詰まり、白日の下にさらけ出すにはあまりに恥辱的だ。

 けれど筒井先輩の目は僕が隠し事をするのを許さなかった。全てはその目が語っていた。


「明日一緒に文化祭を回れたらいいなあ、とか思ったので」

「ピュアだねぇ」

「だから言いたくないんすよ」


 僕は大袈裟にやさぐれた態度をとってみる。筒井さんはくく、と笑いが抑えられないようだ。それに、と僕は言葉を付け足す。


「ライブでカッコいい所を見せれば、惚れたり、雰囲気に流されたりするのかなって」

「やっぱピュアは撤回。君、意外と計算高いね。優しそうな見た目してんのに」

「このくらい自分を好きになってもらいたいなら普通じゃないっすか?」


 筒井さんは沈黙する。答えるに値しないと考えたのか、図星だったのかはその表情から読み取れない。


「……勝算はどのくらいだったの?」

「勝算?」

「いや、それだけ考えて行動してるんだから、自分なりにどのくらいの確率でいけそうか事前に考えてるんじゃないかって」


 腕を組む。勝算か。別にはっきりとは考えてなかったが、漠然とした概算は頭の片隅に転がっていた。少し考えて、慎重にその数字を口にする。


「さんじゅ……、いや二十パーセントくらいですかね」

「そうか、勝算は三十パーセントか。思ったより高くないのね」


 自分は二十パーセントって言ったんだけどな。言いかけが本心と受け取られたらしい。まあ、そんなに自己評価が高くないと分かってくれるなら、どっちでもいい。

 筒井さんをちらりと眺める。首を捻っている。細められた瞳は静かに僕を突き刺していた。


「不思議だなあ……」

「なにが」

「勝率三十パーセント。恋は盲目とか言うけど、この数字を聞くと、そういう割には君はよく現実が見えてるように感じる」


 そう、だろうか。別に僕自身は現実が見えているなんてこれっぽっちも思っていない。現実が見えていたら、もっといいやり方があったはずなんだ。上手い告白が出来たかもしれないし、そんなことをしなくても、一歩先の関係性を築けていたかもしれない。

 筒井さんは相変わらず首を傾げている。不思議だと思ったことはまだあるらしい。いや、むしろこれが一番の不可思議か。彼女は意を決したように口を開く。


「じゃあ、訊くけど。君は知ってるの?」


 何を、そう言いかけたが、頭の中で閃くものがある。僕は、知っていた。確実に、知っていた。


「いや、まあ、なんとなくこれかなっていうのはありますけど……。司書の宇治川先生が」

「そこまで」


 手で制される。さすがにそれ以上言うつもりはない。夕立の日、先輩の表情を見て、とっくに分かっている。あれは核心だ。


「ちゃんと分かってるじゃん」

「直接訊いてしまったので。答えを教えてはくれませんでしたが」

「やっぱ、あんた馬鹿だ」


 彼女の言葉は厳しいが、笑いを抑えられないといった感じだ。意外と笑い上戸なのかもしれない。

 大失敗した過去だ。てか岸辺先輩のことになると、失敗続きだな、僕。あの時は特にデリカシーが足りてなかったように思う。初対面でデリケートな話題であるジェンダーの話をしてしまうなんて。本人だって思うところがあるだろうに。

 いや、それ以上に初対面の女子に恋愛の話を振ることがそもそもご法度か。その時点で僕は間違えていた。


「まあ、だから告白は失敗してもおかしくないと思ってたんですけどね」


 言っていて肩を落とす。意外と僕は告白の可否をペシミスティックに捉えていたんだな。もっと自分を、岸辺先輩を、信じているかと思っていた。

 そう落ち込む傍らで筒井さんはペロリと唇を舐めている。


「だったらどうして告白なんかしたの?」

「その質問は変でしょ」

「そう?」


 追い打ちにも聞こえる質問に反射的に答えてしまった。だからこそ浮き出る純粋な気持ち。


「失敗すると分かってたら告白したら駄目なんですか。自分のことを好きじゃなかったら告白したら駄目なんですか。そんなことないでしょ」


 歯が浮くようなセリフを、現在進行形で言っていると自覚してしまう。痛烈に恥ずかしい気持ちになる。耳なんかもう真っ赤だろう。けど止めるつもりはなかった。


「自分が気持ちを伝えたいから告白するんでしょ」

「ふ、ふぅん」


 言い切った。机をトンと軽く叩く。少しだけ息切れしていた。

 うっわあ、すげぇ微妙な顔してるよ。真顔に見えて、実際自分も真顔を貼り付けているつもりなのだろうが、口許が笑ってしまっている。「こいつ痛い」と思うのは自由だけど、それなら上手く隠してください。僕の方が居たたまれない。


「笑わないでくださいよ」

「え? 笑ってないよ。そう見えたならごめんだけど」


 ポカンとした顔を見せてくる。それを眺めていると、とてもふざけているようには感じなかった。常にニコニコしてそう顔は、デフォルトか。


「それなら……いいっすけど」

「そうかあ。自分の気持ちを伝えたいからかあ」

「やっぱ馬鹿にしてます?」


 繰り返すなんて人が悪い。しかもやけにポエミーめいた台詞、後に黒歴史確定の記憶を、だ。


「してない。君は偉いよ」


 筒井さんを、今度はちゃんと真っ直ぐ見つめる。彼女は頬杖をついて、何もない窓の外を眺めていた。口の端からため息がわずかに漏れている。僕にはそれが物思いに耽っているよう感じた。


「ど、どうしたんすか、急に褒めたりなんかして」

「別に。ただあたしの不甲斐なさが際立つな、と思って」

「は」


 理解できないという風に、特に意味のない記号が口から漏れ出る。その隙間を埋めるように筒井さんはポツポツと話し出す。僕にはそれが悲痛な独り言に聞こえた。


「慰めてあげたお礼であたしの独り言、少し聞こうとは思わないかな」


 拒否権は……ないだろうな。強い語り口ではなかったが、有無を言わさぬ雰囲気が今の筒井さんには感じられた。

 それにほとんど筒井さんが質問して、僕はただそれに答えているだけだったけど、話を聞いてもらったのは確かだ。その恩を少しでも返せるなら、独り言を聞くくらい容易い。


「ま、まあ、ちょっとだけなら」


 筒井さんは肩を震わせる。何をびっくりしているのか。僕が頼みに応えないとでも思ったのだろうか。

 元々覚悟はあったに違いない。肩を揺らしたのは一瞬で、その僅かな空白の後、彼女は告白を始める。それがあまりにも口調が軽くて、聞き逃しそうになった。


「あたしさあ、涼のことが好きなんだ」

「それはどういう」


 好きと言っても、色々種類がある。日本人は、というか人間はケースバイケースでそれをどの好きかに分類する。「普通」ならこの時の好きはこれなはずだ。


「それは親友として?」


 同時に多分ハズレだろうという確信もあった。親愛としての好きなら、わざわざ口に出したりなんかしない。大体、見れば分かるようなものだし。

 それに自分の「普通」が当てにならないことくらい、先の件でよく自覚している。少なくとも筒井さんの「好き」はカミングアウトのような感じがする。


「…………違う。恋愛対象としてだ」


 その頬は赤く染まっている。ああ、本当なんだな。嘘偽りない本当の恋心だ。


「はは、こういうこと聞かされても困るよね」

「えっ、いや……、うーん」

「別に相槌なんて打たなくていいよ。理解しなくてもいい。独り言だから」


 急にドライな反応。そこでな取るべきスタンスがやっと分かった。そうだ。これはあくまで独り言の体てい。彼女は反応することじゃなくて、聞き流すことを望んでいたのだ。

 そうに違いない。そもそも初対面で恋心を明かすのは浅いと言ったのは、筒井さんの方じゃないか。僕に喋るようでは、同じ穴の狢だ。だから独り言。


「この高校に入学した時から好きになっちゃったんだけどね。それが異性に抱くものに近いと分かったのは、そんなに遅くなかったよ。それからずっと好きで、その気持ちは日に日に増していった。けど最近、思うことがあってね」


 最近? ついつい人の話を聞くときは反応したくなってしまうが、ぐっとそれを堪える。相槌なんか今、この場で必要ない。


「あたしの存在自体、彼女の恋路にとっては邪魔なんじゃないかって。これ以上関係性の進展がない。親友止まり。あたしの存在意義とは? って常々思うわけですよ」


 思わず俯く。自分のことを言われているようで、居たたまれない。

 仄かに共感みたいなものを覚えていると、急に指を指される。


「そんな時に、檜木くんだよ。絶対いい後輩止まりなのに、涼の恋路を邪魔しようとする。許すまじだね、これは」


 説教を受けているような気分になる。独り言と前置きしてはいるが、ここまで来ると筒井さんの言葉を無言で押し付けられている感じがして、ちょっと気分が良くない。


「でもそんな檜木くんを応援してる」


 長い独白。そんな一言でそれにピリオドを打つ。もう、話し始めてもいいよな?

 衝撃で目がかっ、と開かれる。言わなければならないことがあった。


「……意外です。てっきり親友に寄り付く虫として嫌われてるかと」

「逆なんだな、これが。あたしは涼が好きだ。だから彼女には『普通に』幸せになってほしい。どこぞの馬の骨なんかに涼はあげたくはないし、あたしごときが彼女を狂わせちゃいけない。宇治川先生だってあたしにしたら、涼の『普通』を壊す馬の骨だよ」


 そんなの僕も大概変わらない気がするけど。なんなら高校の後輩、しかも部活動とかじゃなく、委員会の後輩なんてどこぞの馬の骨代表みたいな奴じゃなかろうか。


「幸せにできるのが僕と?」

「はっきりとは知らない。まだ君の方がましってだけ。普通だからね。けど可能性はあるんじゃないの? 億が一だけど、少なくともあたしよりは」

「ふわっとしてるなあ」


 発言への感想以外出てこなかった。いや、緩い感想を言わないと、筒井さんを傷つけてしまうのが分かっていたから、それ以外を考えようとしなかっただけかもしれない。

 「普通だから」かあ。そう言われるのは人間として全く嬉しくないが、普通だけが岸辺先輩を『普通』せしめる。だから岸辺先輩の『普通な』幸せを望む筒井さんからは期待される。ジレンマだなあ。

 つくづく皮肉なものである。好きで長く傍にいた者が、性別なんかいうたった一つのファクターで結ばれず、彼女にしてみれば、僕のような間男みたいな奴の方が可能性としては十分にある。


「君はもっと自分が軽々しく好きって言える人間なんだって、自覚した方がいいと思うよ」


 言われてしまった。ばつの悪い気持ちになる。これは呪詛だ。軽々しく好きと言えなくなる。言ってることと思いが矛盾してるんだよな。僕の告白の裏側にどれだけの諦めた気持ちがあるのだろう。これからは嫌でもそういうことを想像しなければいけない。

 もっとも筒井さんは軽い気持ちで言っているのだろうが。単純な羨望。そんな感情が読み取れた。


 一つ気になることがあったので訊いてみた。もしかしたら禁句かもしれないが、ここを整理しとかないと、どうしても分からないことがある。


「宇治川先生のことはどう思ってるんすか」

「ずるいなあって思うよ。涼の愛を一心に受けてさ。しかもあたしの気持ちと反する訳じゃん」


 彼女の「『普通に』幸せになってほしい」という願いはつまり普通に男性を好きになって、普通に恋愛して、普通に結婚して……ということだろう。筒井さんは岸辺先輩がその『普通』から外れてほしくないから、恋心に諦めをつけている。

 でも宇治川先生がいる限り、岸辺先輩の恋路と日常を惑わせ続ける。

 同時に岸辺先輩が宇治川先生に思いを寄せていることで、筒井さんにもチャンスが巡ってきている。岸辺先輩の恋愛する対象は同性にも向くということだから。

 潔く諦めるべきなのに、チャンスが目の前に。これはあれだ。鼻先に人参がぶら下げられて、それに向かい無益に突っ走る馬だ。でも人間はそんな単純じゃないから辛いのだ。本能に従えたら楽に違いないのにね。


「けど宇治川先生と仲良くしてる涼は幸せに見えるから、どうも、ね……」


 彼女の目からポロッと涙が零れた。ほんの一粒の涙だった。自分が泣いていることにすぐさま気づくと、さっさと中指で頬に滴る水を拭き取る。




「……好きに泣いてもいいっすよ。これも恩返しです」

「泣いてねぇよぉ」

「じゃあ僕は見てません。図書館に他に人はいません」


 スン、と鼻がすする音が一度だけ聞こえる。静謐さを保つこの部屋でよく響いた。でも僕は聞こうとしていない。だから彼女の心情はどこにも暴かれていない。これもシュレディンガーの猫だ。

 それ以降、涙は出てこなかった。唇を強く結んでいる。強いな、この人は。


「檜木くんはこれからどうするの?」

「どうするというのは?」

「涼のことだよ、もちろん」


 それは訊かれると困るなあ。告白直後じゃどんな言葉を紡いでも、軽薄と受け取られかねない。なら嘘だけは吐かない、正直に答える。


「諦めませんよ。でも告白はやめときます。罪滅ぼしってのもありますし」


 筒井さんの呪詛は曲解することにする。あれは僕へのエールとして捉えてしまおう。本心はそっちだろうし、僕にとっても都合がいい。

 罪滅ぼしはいつ終わるだろうか。もしかしたら岸辺先輩が卒業しても終わらないかもしれない。でもそれでいい。罪滅ぼしのため、彼女の近くにいれるなら。告白しても、邪な恋心は残っているから。


「それに先輩を見て、もっと岸辺先輩のことを知ろうと思いました」

「なんであたしなの」


 ジト目で僕を見つめる。あたしを巻き込まないでくれ、という一歩引いた感情が読み取れる。そうはいかないよ。


「そりゃあ筒井先輩は恋のライバルですから。僕より岸辺先輩のことに詳しいなんてプライドが許しません」


 岸辺先輩を好きでいるなら、その人を本気で知りたい。そんな感情の中で突き付けられた僕と筒井先輩の圧倒的な差。親密度でも知識量でも、もちろん他にも。それが恋愛において一番大切とまでは思わないが、同じ相手が好きなら負けたくないと、ムキになるのは必然ではなかろうか。

 爽やかに笑いかける。対して筒井先輩の顔は曇っていた。この言葉に嘘は含まれていないが、真意はある。それにちゃんと気づいたのだろうか。はあ、と諦めたとも取れるため息を吐いている。


「……分かった。あたし、君のこと苦手だわ」

「それは普通に傷つくなあ」

「場繋ぎのために思ってもいないことを、平然と言えちゃうそんな所もね」


 傷つくのは本当なのだが。まあ、苦手なら好きに苦手であってくれればいい。その反骨精神があればこそ、この励ましが成立する。


「だから諦めることないんですよ。苦手な人に思い人を取られたくないでしょ」


 せいぜいホストっぽくカッコよさげに言ってみたりする。こっちは意図的であるけども、歯が浮くような言葉だな。


「うわあー! そういう所、ホント嫌い!」


 身の毛がよだつとでもいうように肩を擦っている。いや、恥ずかしがっているのか? そのオーバーリアクションに、ははは、と笑いが漏れる。

 最初は裏表がある怖い人かと思ったが、そうでもなかった。見れ隠れするあざとさも実は素か。それを前提として見ると、感情の起伏を素直に出してくれる可愛い先輩だ。だから今は。


 筒井先輩。僕に元気をくれて、ありがとう。

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