二月、おしまいの話

 その白銀の吐息が何のため息なのか、私には分からない。


 図書館の冷たい空気が、体を芯から冷たくさせる。エアコンの効きが悪いのはいつも通り。この場所で三度目の冬を迎て、その寒さは正に身に染みるほどわかっている。全く慣れてはいないけれど。

 ただ極寒の中でも頭は火を噴きそうなくらいに回っている。シャープペンシルの音は止まることを知らない。真っ新だったルーズリーフが英作文に埋め尽くされていく。満足感はない。ただの焦燥に駆られた軌跡。

 そこではたとシャーペンを動かしていた手が止まる。あれ、この英単語のスペルは何だったか。Sかな。あ、そうだ……Cだ。 


 C。一つの英単語を私は凝視していた。今は最も忌いまわしきアルファベット。というのもセンター試験を受けての、志望校の判定がこれだったのだ。どこの予備校の判定システムでもそれは変わらなかった。

 Cならそんなに悪くないと思う人もいるかもしれない。確かに合格確率約五十パーセントの数字は低いとはいえない。二次試験もそれなりに出来れば合格できるだろう。だから出願はそこにした。

 でも正直、もっと取れると思っていた。実際、模擬試験ではもっと取れていたし。けれど本番の重圧と新傾向への対策に四苦八苦し、どうも上手くいかなかったという印象。これではセンター利用で出願した滑り止めの私立はどうなるか分からない。少なくとも一番良さめの所は落ちてるだろうな。


 失敗したという焦りからなんとか腕を動かすが、どうもいまいち身が入らない。勉強時間はちゃんと確保してる。その中で集中だってしている。なのに心だけが宙に舞って、そこらへんでふわふわしている。取り戻そうとしても、私の手からすり抜けていく。

 この感情に名前があったなら、どうにかなったに違いない。燃え尽き症候群とか気の緩みとか。いくらでも対策法はネットに転がっているし、だいたいありがちな問題には自分が直面したことがあるだろうから、今までの経験でどうにかなる。


 けれどこんな状態は初めてだ。

 はあ。もう一度息を吐く。どの悩みから来るそれかは分からないが、悩みから来るものなのははっきりしている。大事な時期なのに、心の持ちようでここまで苦しむとは。受験戦争とは難儀なものだ。


 一旦休憩。傍らに置いてあったお茶の残りをぐびっと飲み干す。休む時間すら受験までほとんど残されていないのは分かっているが、このままだと狂ってしまいそうだ。それを自覚しているから、最近は体の休憩ではなく、心の休憩をすることが多くなった。

 ぼーっと図書室のスライド扉を眺める。特に意味はない。ただ勉強以外のことで、徒に心を揺らしたくないだけだ。その扉が静かに開く。中に一人の女性が入ってくる。無意識にその対象を呼んでいた。


「宇治川先生」


 なにやら段ボール箱を抱えている。それがあるせいで、先生には私が見えていないようだ。名前を呼ばれてきょろきょろと辺りを見回している。


「ああ、岸辺さん。こんにちは」

「こ、こんにちは~」


 軽く頭を下げる。微妙に心地が悪い。勉強サボって、なに宇治川先生に話かけているんだ、私は。そんな罪悪感をもろともせず、先生は私が勉強している隣の机にドンと段ボール箱を置く。思ったより重そうだ。

 挨拶はしたものの、会話のネタに困ってしまう。実はこうして先生と話すのは久しぶりだ。去年の九月で図書委員会の活動が終了して、単純に先生との接点が減ったのもある。それに代わり受験が徐々に近づていき、その勉強に生活の大半の時間を割くようになったことで、先生と喋れる程、暇がなくなったこともある。先生も学校職員としてそれをちゃんと理解しているから、遠慮して私に話しかけたりもしない。


 そういうことで先生と話すのは久しぶり。前に喋ったのは……いつだっけ? 忘れてしまった。ついでに先生に対する接し方まで忘れてしまったようだ。あれだけ気軽に喋れているように見せかけていたのに、今は憧れの人を前にすっかり緊張してしまっている。

 会話に困っているのを悟ったか、先生は気丈に話し始める。


「いやあ、大変ですねえ。受験勉強ですか」

「は、はい。そうです」


 それ以上は口にしない先生。センター試験の結果がどうとか、本命に受かりそうかとか、滑り止めの大学は受かったのかとか、受験生に訊きたいことなどいくらでもありそうなのに。訊かないのは弁えているからなのか、興味がないからなのか。

 いや……興味がない訳ではなさそうだな。その証拠にこの場から立ち去ろうとしないどころか、私の目をまじまじと見つめている。色々知りたいけど、私の心情を慮り無理には聞けないという感じか。


「……そういえばちょっと前にセンター試験がありましたけど」

「はい」


 返事の声が図書室でよく通る。いつも穏やかな先生が珍しい。やっぱり気になっていたんだ。

 このことを伝えようと思ったのは、別に一次試験の結果に不満はあるものの、絶望するほどの結果ではないから。むしろここでつんとしている方が嫌な想像を先生が巡らせていまうのではないかと危惧したため。

 それと先生に話を聞いてもらえれば、少しは気が紛れるかもしれないと思ってのことだ。そのくらいに先生を信頼してる。


「あんまり芳しくなかったんですよねー」

「そうですか」


 流れる気まずい空気。うっそ、割と明るく言ったつもりだったのだが。訊きづらそうに先生が口を開く。


「……ちなみに目標よりどのくらい足りなかったんですか」

「うーん、二十点くらいですかね。判定がCで、Bにはいきたかったので」

「Cですか。そんなに悪くないですけど、目標を下回っちゃうと嫌でもテンションが下がりますよねぇ」

「ほんとにそれです。先生も分かりますか」

「分かりますよぉ。今日はこの本読み切るぞと目標立てて、読み切れなかったりすると放置しちゃいますもん」

「その例えはどうなんですか」


 ふふ、と笑いが漏れる。可愛い例えと言い方に思わず和んだ。先生もあっけらかんとした言い方をあえてしているようだ。


「ま、気にしすぎもよくないですよ。受験はみんなどこかしらにダメな所があって、それにどう折り合いをつけるかの勝負です。特にセンター試験が終わったこの時期はね。致命傷じゃなかっただけ良しとしましょう」

「なんか大人って感じの意見ですね」

「大人の意見……」


 困った笑顔で私の顔を見返してくる。「大人の意見」という言葉が感想なのか、皮肉なのか受け取りあぐねているらしい。

 正直私はどっちの気持ちも込めている。受験戦争は「折り合いの勝負」で、かすり傷だから巻き返せるというのはいざ受験を前にする者はあまり考えつかない。入試は分かりやすく点数の勝負になると思っているからだ。

 だから狭まった視野を広げてくれる「大人の意見」だと思うが、同時にそう簡単に切り替えられないのもまた受験生だ。関係ないからそんなことが言えるんだ、という隔絶を込めた「大人の意見」。どっちも先生の意見に抱いた本心であり、馬鹿正直に信じている訳でもない。


 ちらりと先生を見る。私のコメントについてなのか、話の接ぎ穂についてなのかは知る由もないが、顎に手をやり、考えを巡らしているようだ。

 さすがに嫌味な言い方だったかな。先生のそんな健気な姿を見ると。悪いなという気分にさせられる。受験で気が立っているいるのかもしれない。だとしたらせっかく宇治川先生流の励ましをしてくれたのに、それを無下にしているようで気持ちが悪い。

 なら代わりに次の話は私から振ることとしよう。


「それよりその段ボール箱はなんですか」

「ああ、これ? 寄贈品です」

「寄贈? 具体的に何の」

「……小説です」


 先生が段ボール箱を引き寄せ、厳重に封されていた箱を開く。その手際は緩慢に見えた。

 中を覗き込む。確かに中身は小説だった。ハードカバーに文庫本、文芸誌も少々。しかしジャンルよりも特徴的な共通点を見つけた。著者のところには全部、「室谷清士郎」の文字が。ひょっとしたら文芸誌の方もそうなのかも。

 室谷清士郎といえば、今日本で最も勢いのある小説家だ。実力、実績、人気ともに文句なし。新刊を出せば、確実にどこかしらで話題になる作家。かく言う私もお気に入りの小説家の一人だ。


「えっ、なんでこんなに室谷さんの本が」


 先生は綺麗に並んだ本たちの羅列を直視することなく、ふぅうと大きく息を吐いている。その後、私に説明してくれる。


「……彼が文学賞を受賞したということで、本校に表敬訪問に来たんです。この本はついでの寄贈です」

「表敬訪問? それって何の関係が……」

「室谷清士郎は本校OGです」


 私の中の時間が止まる。脳がフル回転して出した答えはただの絶叫だった。図書館にいることを思い出し、咄嗟に自制はしたが、利用者に迷惑をかけたかもしれない。


「えー! そうだったんですか! じゃ、じゃあさっきまで」

「いらしゃってましたよ、つい三十分前まで」

「会いたかったなあ……。私、ファンなんですよ」


 もし会えていたら、受験勉強中のいい気晴らしに、いやおそらく大人気作家の威光みたいなものにあやかることができたかもしれない。そのくらい私にとっては神みたいな特別な存在。もちろん宇治川先生とは違う方向で。多神教なのだ。


「事前に教えても良かったですが、多分会えなかったと思いますよ。ファンなら分かると思いますが、彼は」

「あ、出身地公表してませんでしたね、そういえば」


 先生の言葉を遮って答える。彼は謎多き作家で表彰式など表舞台に立つこともごく稀であり、プロフィールは本名以外一切を隠している。当然出生地や出身地も明かしていない。

 つまり本校を訪問したのはあくまでお忍び。そこで生徒がやって来ては色々と問題があるだろう。


「それでこの本が室谷さんからの寄贈の品……」


 箱詰めされた本の背表紙をもう一度見る。これが室谷清士郎の手で本校に贈られたものだと考えると、急にこの本たちが光を放つが如く、神々しく見えてきた。

 その並ぼーっと眺めていると、ふと不思議に思うことが。思わず質問していた。


「あれ、でも室谷さんの本って学校図書館にたくさんありますよね」

「既に何回も寄贈されているので。人気があって結構本が貸出中になってしまうので、いくらあっても困るものではないですが。さすがにしつこいですよねえ」

「言い方……」


 先生にしては妙に悪態ついた言い方だ。何度も寄贈されると図書館司書としては、色々面倒くさいことがあるのかもしれないが、予算を使うことなく人気のある本が手に入るのはむしろ有難いのではなかろうか。関係ない人の言い分ではあるけれども。


「これは失礼。でもそう言わずにはいられないんですよねえ」


 箱の中から一冊本を取り出して、まじまじと見つめている。彼の処女作だ。途中愛おしいという風に先生の目尻が下がった。そこでふと思い当たることがあった。


「そういえば先生って元はここの生徒でしたよね」

「ええ、そうですが」

「ひょっとして室谷さんと繋がりがあったり」


 まさか、という気分。ただ先生の年齢とか室谷さんの活動時期とかを考慮すると、ワンチャンあるかもと思った。確率の見積もりとしては宝くじで億が当たる程度。


「一応クラスと部活が同じでした」


 こともなげにそう言い放つ。またしても衝撃。今度は言葉にならなかった。絶句しながら目をぱちくり。さぞかし滑稽な姿だろう。

 初めて知った事実なのだが。私が室谷さんのファンであることは隠さず言ってきたつもりだ。気に入っていると実際口にしたこともある。その時にどうして言わなかったのだろう。

 いや、先ほどからの様子を見ていると、案外彼女も隠すつもりはなかったのかもしれない。訊かれなかったから、答えなかっただけか。自慢とかするようなタイプでもないしな、先生は。


「……うわ、衝撃的事実」

「言うほどでしょう。芸能人とかスポーツ選手、政治家ならまだしも。きっと彼もそう言いますよ」

「私にとっては衝撃なんですぅ」


 口を尖らせる。確かに先生も室谷さんも浮世離れした感じがあるから、そう謙遜しそうだが。となると次の質問。


「仲良かったんですか」

「……それなりには」


 なんだか含みのある言い方だ。同じ部活の仲間。多くの時間を一緒に過ごしたに違いない。更に言えば、陰口とも受け取られてしまう愚痴を言える仲だ。それなりということはなさそうだ。

 そこでピンと来るものがある。勉強で脳が疲れていてもおかしくないはずなのに、不思議と冴えてきっていた。次に浮かんだものはある意味、下世話な好奇心と言える質問だった。

 けれどこれを言っていいものか。先生は訊かれたくないだろうし、私だってあまり聞きたくない質問だ。真実は明らかになるかもしれないが、それ以上のことは望めない。質問を口にしかかったが、そんな思いから特に意味のない呻き声だけが漏れる。


「あー、えー」

「すみません。嘘吐きました」


 急に深々と頭を下げる先生。そのあまりの勢いに私の方がびっくりしてしまった。訊きたくないが、訊き返さないといけない流れだろうなあ。


「嘘、というのは」

「それなりにじゃないですね。かなり仲が良かったと思います。かなり、ね」


 自分の言葉が本当だと確認するように、強調を繰り返している。先生は自分の言葉に気を取られているようだが、私は見逃せなかった。彼女の頬が少しばかり朱色に染まっていたのを。

 そっか、やっぱり。表情は時に、口より雄弁に語るものである。


「私に尊敬できる人物がいないと言ったのを覚えていますか」

「覚えてます。ちゃんと、覚えてます」


 忘れもしない。残暑は既に消え去り、肌寒さが心地よかった十月の放課後。いつもの図書室にて。先生のあの悲しそうな目は。もう二年以上も前か。


「本当はいたんですよ。私と彼は文芸部員だったんですけどね。その人は文芸部誌、あくまで趣味でみんなが創作する中で、本気で命を削って作品に専心する人でした」

「それが室谷さん、と」

「ええ、その通りです。その部誌はこの図書館に保管されているので、受験が終わったら読むといいですよ。名字が違いますが、すぐに彼の作品と分かると思います。私も含め他の部員のものは正直、創作もどきですが、彼の作品だけははっきり創作物と言える代物なので」


 そんなに。思わず絶句していた。先生がここまで絶賛するのも珍しい。というより絶賛される対象は先生にとっては元から一人なのだ。

 でも私はちゃんと覚えている。先生の今も、過去形となってしまった言葉尻も。


「でもそれって昔の話ですよね」

「そうです」

「どうしてもう尊敬しなくなっちゃったんです?」


 来た、という風に先生は一度目を閉じる。そしてゆっくりと開かれた。


「……怖いと思っちゃって、これ以上彼に魅了されていくことが。そして私みたいな凡人が彼を変えてしまうことが」


 「変えてしまう」ね。既になんとなく危険な共感が芽生えてきた。私は更にもう一歩踏み込む。ここをはっきりさせておかないと、全く同じだとは言い難い。


「それは室谷さんの才能でのこと?」

「それもあります。私の存在が彼の鋭敏な感覚を鈍らせるではないかと、彼が苦悩する姿を見るたびに思ったものです。彼は関係ないと言ってくれるのですが」


 惚気だ。複雑な気分になる。先生の昔話というのは先生自身あまり多くを語らない分、気になりはする。それが恋にまつわることになると話は別だが。叶わないと分かりきっているけど、ほんの僅かな可能性すら無残に蹂躙されていくようで、あまり聞く気にはなれない。


「まあ、変えてしまう恐怖というのは、彼の全てにおいてだと思います。性格とか価値観、もちろん才能の発散についても。私が関わってもそんな劇的に変わる訳じゃないのは分かっていましたけど、少しでも彼が揺らいでいると、気が気でなかったですね。彼の天才性を損ねているのではないかと」


 懺悔がましい言い方だ。いつもの図書室が告解室のよう。彼女にとってのゆるしの秘跡をこの言葉で締めくくる。 


「結局のところ、誰かを好きになる覚悟に欠けていたんだと思います」


 それが彼女の恋の終わり、だった訳か。流石にそこまで言わない優しさはある。てか怖くてこれ以上は言えないよ。覚悟がないのは私だって同じだから。先生と、同じ。


「この話を聞くと彼が不器用だと思いません? 私がこの学校で司書をやっているのを知っていて、事あるごとに寄贈をしてくる。私と会うために。今なら繋がる方法なんていくらでもあるのに、口実がないと結局私に会えないんです」

「ミステリアスな室谷さんが本当はピュアなの、結構意外です」

「でしょう?」


 彼女はくすぐったそうに笑っていた。またもや惚気だね。けど実に幸せそうな表情だ。

 尊敬できる人はいないと言ってみたり、室谷さんに悪態ついたりするけど、先生は今でも想い続けているのだ、室谷さんと同じように。好きになる覚悟はなかったけど、嫌いになる覚悟もなかったのだ。

 甘美な思い出だ。桃源郷みたいな情景が思い浮かぶ。それと同時に授業で習った教訓めいたものを思い出す。桃源郷は誰も知らないから、美しいままなのだ。


「なんで私にこんな大切な話を」

「大切なんかじゃありません。既に終わっている、つまらない過去です。理由はまあ、気になるだろうと思って」

「そう見えちゃいました?」

「今見えたというより、経験則から岸部さんは私のことを深く知りたいんじゃないかと。違いました?」


 先生は私のことをよく分かっていらっしゃるようで。この三年間で私は先生の色んなことを知ったが、同時に先生も私のことを知っていったんだ。


「もう岸部さんも卒業間近で、隠し事はしたくないですしね」

「確かに、そうですねぇ……」


 先生の言葉にしみじみと感じ入る。その心意気は非常に嬉しい。いずれ終わりが来るのは、分かりきったことだから。

 相手の秘密を知らずして、全てを知ったように勝手に思い込む程、滑稽で空しいことはない。ならば今日このように先生が過去を語ってくれたのは、結果として良かったのかもしれない。たとえそれが卒業への餞別の意があったとしても。


 窓から陽が差し込む。暖かな日差しだ。冷え切っていた図書館も心なしか熱を取り戻したように感じる。センター試験の際、あんなに積もりに積もった雪も降らなくなって久しい。更にはこの陽光で溶けていき、地面を露出させるのだろう。

 そういえば昨日どこかの地域で春一番が吹いたとニュースでやっていたな。春はゆっくりと、だが確実にやって来ている。足元には既にふきのとうの野原が広がっているのかもしれない。ひょっとしたら春を迎えていないのは、私の進路だけかも。

 同時に先生との生活の終わりを否が応にも意識させられる。あと一か月。季節は巡り巡って、別れの季節へ終着するのだ。


「それに、もしかしたら分かってくるかもしれないと思って」


 言葉を付け足し、先生は虚空を見上げる。ぎゅっと目を閉じている。なんだか辛そうだ。

 分かる、か。確かに痛い程分かる。これは私の話でもある。だから先生に共感して、寄り添ったりは絶対にしてあげない。先生の昔話を理解し、踏襲することはバッドエンドへの入り口だ。律儀に追随はしない。

 だいたい青臭い過去を明かすなんて、「こうはなるな」という自戒か他人への教訓を込めてしかありえないでしょ。


「どうしてそう思ったかは分からないですが……」


 先生はぽつりと独り言のようにそんな言葉を発する。上向いていた顔がカクンと下がり、やがて伏せる。そのため表情は窺い知れなかった。私は何も答えなかった。

 図書室に元の静けさが戻ってくる。それから言葉を再び交わすことはなく、少し経った後先生はその場を去っていった。きっと勉強の邪魔になってはいけないと、気を利かせてくれたに違いない。

 それを見届け、私も勉強に戻る。さっきの英作文の続きから。問題も変わっていない。感じる難易度も。二次試験に対する不安だって完全に消えたわけじゃない。しかし頭はとてもすっきりしていた。


 どうしてだろう。先生が励ましてくれたからかな。いや、きっと終わりが明確になったからだ。

 受験が終わり、その合否に関わらず、私はこの学び舎を後にする。先生と会うのも当たり前ではなくなる。卒業後に会う機会がたとえあっても、それは当たり前ではない。日常でたまに現れる非日常だ。

 せめてそうなってしまう前に、なにかしら。想いは伝えよう。先生の後悔を繰り返さないためにも。


 覚悟が、心の中で出来上がった。

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