七月、やがて新世界へ
期末テストも終わり、待ちに待った夏休みに突入した。私の夏休みは家か図書室か本屋でだいたい完結する。たまに友人と遊びにも行くが、なにせ暑いから頻度はそう多くはない。バイトもやってないし。
ちなみに今日は本屋の日である。家から自転車で十分の所にCDショップとかカフェなども複合した大型本屋がある。もう何回も行っているが、毎回必ず一時間はいれるような場所だ。今日も特に用はないのに、暇潰し感覚でそこへ来た次第である。
中に入るとキンキンに冷房が効いている。学校図書館とはここが大きな違いである。本当なら毎日宇治川先生に会いたい。そのために学校図書館に足を運びたい所だが、私の足を重くするのは単純に暑いからだ。
ここなら何の憂いもなく、本を物色することができる。さてと。まずは漫画コーナーから見ていこう。
小説ではないのか? と思うかもしれないが、今日だけの例外だ。親友である雛乃から漫画を紹介されていので、ふとそれを買おうと思い立ったのだ。あの子、本媒体で漫画はすごく読んでいるのよね。最近は私が紹介した小説も少し読んでいるみたいだけれど。
まず紹介された一作品があった。黒や赤などの色が使われた禍々しい、よくネット広告で見るような表紙だ。なんというか……見境みさかいないね。本当に漫画を愛しているのだと、この作品だけでも伝わってくる。
しかし私はグロテスク系があまり得意ではないので、その場から離れる。いくつか紹介されたし、それらを全て見てから何を買うか決めることにしよう。
だいたい三十分ほど漫画コーナーを見て回っただろうか。オススメされた漫画内の三冊を手にし、レジ待ちの列に並ぼうとする。そこでふと立ち止まる。
ん? なにか見覚えのある顔が。しかし遠くてその人だという確信は持てない。徐々に近づいていって、はっきりとその顔を確認する。やっぱりだ。口からは先立って、驚きの声が出ていた。
「せ、先生!?」
「あら、岸辺さんじゃないですか。こんにちは」
毎日会いたいという気持ちが結実したのか。偶然出くわしたのは学校図書館司書の宇治川先生だった。
先生はノースリーブのカットソーに若草色のロングスカート。髪はいつもの黒髪ストレートではなく、たぶんちょっとパーマがかかっている。休日はお洒落しゃれに、という魂胆なのだろうか。
思わず先生の姿に見惚れてしまったのとこんな所で会った驚きから、しどろもどろになりながら当たり障りないことを訊く。
「えっ、え? なんでここに」
「なんでって、この本屋は私の実家の近くなので。昔から気分転換したい時はここを訪れるようにしてます」
へぇ、といいことを知った。私の家ともそう遠くないという感じだろうか。
そう思いかけたが、咄嗟に本を隠す。それは条件反射だった、本の嗜好がバレたくないという。しかも今日買うのは漫画だ。俗っぽいとも思われたくない。なんとかして隠さねば。
「今日は漫画ですか」
「あ、ハイ」
私の努力虚しく、速攻でバレてしまった。先生の長所である目敏さが今日は恨めしい。
バレてしまった以上、隠すのはやめる。買うつもりなのは普通の少女漫画だ。見られて恥ずかしいというものではない、はず。それより話を広げよう。ここで別れるにはあまりに惜しい。
「先生は何を……、というか今日仕事は?」
「たまたまお休みです」
「あれ、でも平日……。教師って夏休みも仕事がありますよね?」
「普通はそうですね。私は司書なのでそうは言っても、夏休みはかなり暇なんですが」
「司書の先生もちょっとした夏休みということですか」
「そういうことです」
たまに教師と学校図書館司書の境目が分からなくなるが、休日に関していえば少し違うのか。教師が夏休みに仕事と言われたら、何となく内容に想像がつくが、司書が夏休みに仕事と言われても、想像しづらいということはそういうことなのだろう。
こうして図書館以外で会うのは、どうも不思議な感覚だ。先生にも当然プライベートがあるはずなのに、学校でしか会わないせいか、勝手に先生がそこにしか存在しないというでは、という錯覚に陥っていた。
何はともあれ今日は本屋の日で良かったあ。もし図書室の日だったら、先生にも会えず、暑い通学路を抜け、暑い図書室で本を読むことになりそうだったから。
「先生のお目当ては小説ですか?」
「いえ、奇遇なことに今日は私も漫画です」
「えっ、意外ですね」
手にした数冊の漫画を私に見せるように、ひらひらと振る。手元に本がある喜びからか、その笑顔は輝かしかった。
私も別の理由で嬉しくなった。先生はなんというか小説しか嗜まないイメージがあったのだ。俗っぽい漫画を読むところが私と同じで、口許が少し綻ぶ。
「正直文字媒体なら何でもいいんですよね」
先生はこと無げに言い放つ。ずっと前からそうだという風に。それは本好きの極地という感じがした。なんだ、私とは全然違うじゃん。
「その考え方は私にないなあ。その調子だとここの本屋の書籍、ほとんど読んじゃったんじゃないですか?」
「かもしれませんねぇ」
「えっ、凄い。本当に?」
「ふふふ、流石に冗談ですよ」
全く冗談に聞こえないのですが。それこそ先生の凄さの端緒なのかもしれない。
私は同世代と比べたら、単純な読書量で多い方だろうが、先生はその比ではない。生涯をかけても、全く及ばない気がする。
「まあ量だけ多くても仕方ありませんよ」
涼しげにそう言い放つと私の後ろに並ぶ。この一言も彼女が口にすると、全く違う響きに感じる。くそう、かっこいいな。
しかしこれを買ったら、先生は帰ってしまうのだろうか。それはなんだかもったいない気がした。私はまだここにいるつもりだし。そこで一つ提案してみる。
「ところで先生。私、小説も色々見たいんですけど、良ければオススメしてくれませんか?」
「なるほど。私でいいなら」
「ありがとうございます!」
*
とりあえずレジを済ませ、文芸コーナーへと歩みを進める。隣には宇治川先生。これは……、ひょっとしてデートというやつだろうか。
ちらりと隣に目をやる。勝手に顔が火照ってくる私に対し、先生はあくまで涼しい顔。まあ、そっか。先生はあくまで一人の生徒のお願いをプライベートで聞いてるだけなのだから。
客観的事実に少し悲しくなるが、今は噛み締められる喜びをしっかり噛み締めておこう。
「あ、新刊コーナーだあ」
私が水を向ける。いくつかの新刊が平積みになっている。そこを一通り眺めると、ある本を目にする。
「あっ、室谷清士郎の新刊が出てますね」
「そうですね」
「てかめっちゃ積まれてないですか」
この本だけがただの平積みになっていない。アーティスティックに、素直に言うと人目につくように積まれている。出版はよく斜陽産業だと言われるが、これを見るとまだまだ捨てたもんじゃないと思う。
「芥川賞を受賞した作家であり、人気作家ですからね。名実ともに現代文壇最高レベルの作家でしょう。それに……」
「それに?」
「彼はここらへんが出身なんです」
「えっ、そうなんですか?」
それは初耳だ。室谷さんの小説は何冊も買っていたが、知らない情報が出てくる。というかそんなの、どっかに載ってたかな? 言い切るということは自信があるんだろうし。
「そうですよ」
すると先生は室谷さんの本を一冊取り、小さく笑う。それが私の目にはどこか乾いたものに見えた。
「買うんですか?」
「いいえ、買いません。おそらく」
本を元の位置へと戻す。本からぽす、という空虚な音がする。
予想していた返答とは違った。その疑問をそのまま口に出す。
「意外です。有名作品はとりあえず読むのかと思ってました」
「そうでもないですよ。読むのは興味がある本だけです。興味の幅がそれなりに広いのは認めますが」
フォローしているかのような言い分だが、言い換えると室谷さんの新作は彼女の興味をそそらなかったということだ。それはそれで不思議かもしれない。実力はちゃんと評価していたのに。
ふっ、と一つ息を吐いている。そして今度は私を目を見、訊いてくる。
「岸辺さんは買うんですか?」
「うーん。どうしましょう。ハードカバーかあ……」
頭をぽりぽりと掻く。室谷さんの小説でしょ? 絶対面白いに違いない。保証書が付いてるようなものだからね。しかしまだハードカバーしか出ていないのがネック。学生の私にはちょっと値段がお高く感じる。はあ、やっぱりバイト始めようかなあ。
「値段とか収納が気になるなら、少し待ってもいいかもしれませんね。彼の人気ならそう遠くない未来に文庫版が出るのは確定的ですし」
「ですね。それに今日は先生のオススメにお金を使うって決めてますから」
「ふふ、それは責任重大」
先生は薄く笑いながら新刊コーナーから移動を始める。とてとてと先生についていく。方向を考える限り、どうやら文庫コーナーに行くらしい。私のお財布事情を考慮してくれたのかな。
「岸辺さんはいつもどういうジャンルの小説を読むんですか?」
「えー、青春小説とか? 主人公が同年代で感情移入しやすいですし。あとホラーも読みますね」
少し考えて答える。乱読派なので、特にこれといったジャンルを本当は持たないのだが。無意識に自分の興味がこのへんのジャンルに向いているだけだ。
そのジャンルに飽きたわけではないが、せっかく先生といるならということで一言付け足す。
「あ、でも新しいジャンルを開拓したいかも」
「なるほど。じゃあまずこれなんてどうでしょうか」
「早いですね。これはミステリー、ですか?」
「あ、あとこれとかも」
私の質問には答えずに、次はSF。なんというか脈絡がなくて、面食らってしまった。しかも両方共、分厚い。少なくとも七百ページはありそうだ。これはまさか……。
「先生、自分が面白いと思った本を無闇に紹介してませんか?」
「……。確かに」
ふふ、と笑いが溢れる。子供みたいだ。教えてほしいという言葉に弱くて、相手を置いてけぼりにするくらい、のめり込んでしまう。
先生はうーん、と悩んだ姿を見せる。人への紹介は勝手が違うみたいで、さっきのようにポンポン本が出て来ない。私のためにちゃんと考えてくれているのかな。
「じゃあこれですかね」
先生は先ほどと同じ棚の段から本を取り出す。しかしあれ、と思ってしまう。
「それもミステリーでは? しかも作者が同じ」
「こっちはミステリーの入門編って感じです。さっきのよりは幾分か読みやすいと思いますよ」
「えー、ホントにぃ?」
「本当ですよ。少し反省しましたし。それに新しいジャンルを開拓したいって言っていたじゃないですか」
確かに言った。そこから考えると先生が入門編を選んだのは希望に沿っている。
先生から本を受け取る。ウラスジを軽く眺める。悪くなさそうだ。まあ、例えここが悪そうでも、先生に紹介された時点で購入決定ではあるが。そんな思いを秘かに固める私の隣で先生は続けて語る。
「ミステリーはいいですよ。奥が深いです。それ自体に魅了されるファンが多いジャンルですから」
「ミステリーかあ。難しそうでつい敬遠しちゃうんですよね」
「それは謎を解こうとするからでは。いっそ騙されたいという気持ちで読むと清々しいですよ」
なるほど。その発想は全くなかった。先生が言う読み方ならこの入門編ミステリーも楽しめそうだ。
「ひょっとして先生はミステリーの造詣が深い?」
すらすらと言葉を紡ぐ先生にそんな感想を抱く。彼女はゆるゆると首を振っている。
「残念。あくまで乱読派なので。シャーロキアンとかファンの知識や考察には全然敵かないませんよ」
そんなものか。世界は広い。憧れの先生にだって辿り着けない領域がいくつもあるのだろう。でも先生といるだけで、私が普通に生きていたら見向きもしなかった領域に少し触れることができる。それが堪らなく嬉しいのだ。
少なくとも家に帰ってからは、先生にオススメされた本を先生にオススメされた読み方で読む。その経験も私にとっては新世界だろう。
*
先生から紹介されたミステリーをレジに通す。とりあえず今日買う小説はこれ一冊だ。ちなみに先生は隣のレジで追加で三冊ほど本を買っていた。いつの間に選んでいたんだ……。
こうなると別れが近づいて来る。一抹の寂しさで思わず訊いてしまっていた。
「先生はもう帰っちゃいますか?」
「いえ、少しカフェに寄ろうかと」
先生は本屋内にあるカフェを指差す。ここで買った本を読めるのはもちろん、未購入でも試し読みとして持ち込むことが可能なカフェだ。私もよく利用している。彼女はそこにしばらくいるらしい。
宇治川先生とコーヒーブレイク、か。いい。とてもいい。なんと甘美な響きなのだろう。私も是非お供したい。
「あの! 私が同席しても?」
「いいですよ」
先生の許可を取り付けた私は小さく拳を握る。そのまま注文カウンターへと歩いていき、まず先生がオーダーする。
「アイスティーのMを一つ。レモンをつけてください。岸辺さんは?」
「奢ってくれるんですか?」
「流石にこれくらいは年上が」
「じゃあ甘えさせてもらいます。アイスコーヒーの、Mで」
その後店員さんに砂糖やミルクを付けるかと訊かれたが、必要ないと答えた。さながら彼女の前でコーヒーはブラックでいけると強がっている彼氏のようだったが、そんなつもりはさらさらない。コーヒーは少しでも甘いと私が飲めないだけだ。
手頃な席を見つけると、そこに腰かける。腰をかけるや否や、先生は内緒話のように手を添えておもむろに語りかけてくる。
「あの、岸辺さんにお代を払ったことは秘密にしてくれますか?」
「いいですけど、どうしてですか?」
「一般論として一人の生徒に肩入れは良くないと言うので。あくまで学校職員と生徒ですから」
私の中で微妙な気持ちが渦巻く。口をつけたアイスコーヒーが少し苦い。いつもなら全然平気なんだけどな。
やっぱり先生の中で私は生徒としてしか見られていない。一年半くらいの関係だと仕方のない話だが。そして良識のある先生は生徒と一線を越えてはいけないこともよく理解しているのだ。それをつまらないとまでは感じないが、どこか喉が詰まる感覚がある。
一方で大したものではないけど、先生と秘め事を共有できるのが嬉しくもある。こっちに理由はない。ただ「憧れの先生との秘密」っていう響きも良くない? これはこれで全然アリ。
「大丈夫ですよ。誰にも言いません」
「勝手なお願いですが、すみません」
軽く頭を下げる先生を前にあることを思い付く。しおらしくしている今なら受け入れてもらえそうだ。
「……でも言い換えれば高校卒業したら、誰の目も気にせず食事に行けるってことですよね?」
「まあ、そういうことになります」
「その時はまた奢ってください」
満面の笑みでそう返す。私としては今の関係をどうこうするよりも先生と将来の約束した方が有意義と見た。
「それはいいですね。その代わり誘ってくださいよ。私は色々考えた挙げ句、遠慮しちゃいそうなので」
「任せてください」
胸に拳をやる。約束を取り付けた嬉しさの余り、どんと力強く叩いてしまった。咳が出そうになる。
先生はアイスティーに口をつけている。私もつられてコーヒーに。悪くない空間だ。やはり彼女には静かな場所がよく似合う。やがて先生はゆっくり感慨深そうに語り始める。
「しかし時の流れとは早いものですね。もう卒業してからの話ですか」
「あ、気が早すぎましたか」
「全然いいですよ。もたもたしてたら時間に置いていかれちゃいますから」
妙に実感の籠った言葉だ。先生の顔が神妙になったのが分かる。私の顔もそれを見て、少し強張ったような気がする。
「もう進路は決まりましたか」
「大学進学だけ決めています……」
いざ卒業後の進路を訊かれると、胸を張って答えられないのが現状。はっきり言って「大学進学」など逃げの言葉だ。うちの高校は九割以上、大学進学を選ぶような学校なので。
ちらと先生を見る。一応先生として何か諫言でもあるだろうか。少し怖いなあ。
「そうですか」
と答えるとアイスティーを口に含む。ただそれだけだった。興味がないというより自分が踏む込むべきでないと回避した感じだ。
「そう言う先生はこの時には進路決まってたんですか?」
「え、私ですか?」
「そりゃあ私に訊くんですから。訊かれる覚悟がないなら訊いちゃダメです」
どこかの剣豪みたいな言葉を吐く。それは斬られる覚悟か。先生はうーん、と少しの間顎に手をやる。しかしすぐに膝に手を置き直し、口を開く。
「それも道理ですか。しかし私は生憎、高二の時には決まってました」
「えっ、はやっ」
「いや、別に早くはないと思いますけど……」
うっそ、私が遅れているパターン? 確かに高二の夏休みは天王山と言うけれどもそれは勉強面で、進路決めならまだ余裕があると思っていた。焦りでついつい話題を深掘りしてしまっていた。
「先生はどこの大学なんですかっ」
「なんですか。藪から棒に」
「さ、参考にと思いまして」
「世代も違うし、岸辺さんの成績がどうなのかも知らないので、役に立たないと思いますけど……。◯◯大学です」
◯◯大学って旧帝国大学じゃん……。先生って頭もいいのか。ダメだ、行きたいというやる気とか以前に学力が全然足りていない。あまりの違いに急な脱力感に襲われ、ついでに笑いまで込み上げてくる。
「すみません。あんまり参考になりませんでした」
「正直ですね。それでいいと思います。……そういえば私が教育学部だったのは前に言いましたね」
「はい」
確かクリスマス前にそう言っていただろうか。冬の図書館、チョコレートの甘い匂いが想起される。思い出に浸ひたっている間にも先生は言葉を続けている。
「そういう学部から考えるのは悪くないと思いますよ。大学は一つしかありませんが、同じ学部ならいくつもありますし」
「なるほど……」
はっきりと将来が決まった訳ではないが、そのための道筋は少し見えた気がする。大学決めだとまず自分の成績で行けるかどうか考えてしまうが、学部から選べば勉強したいという純粋な興味から選べるかもしれない。
「それこそ教育学部なんてどうです。少し前、友人に勉強を教えたり、向いてるんじゃないですか?」
それもクリスマス前の出来事だ。確かに勉強は教えたが、教育に結び付くなんて思っていなかった。
「いやっ。あれは雛乃を放ほうっておけなかっただけで。それに私の教え方どうこうよりも彼女がやる気を出したことが大きいと思うので」
「やる気を引き出すのも教師の役割ですけどね。まあ大事な将来なので無理強いはできません」
「……でも教師も案外悪くないかもしれませんね」
先生に勧められるとあまり悪い気はしない。そもそも彼女は学校で仕事をしている人だ。就職後ひょっとしたら……という想像もできる。それにこの不景気な世の中で安定した公務員というのも高ポイントだ。
私の返答は彼女にとって悪くないものだったのか、ニコニコと笑顔を浮かべている。いや? 案外この時間が楽しいだけなのかも。私としてはどっちにしろ嬉しいが。
その後はしばし歓談の時間。そこに小一時間くらいいただろうか。そろそろお開きというタイミングで私はお礼の言葉を口にする。
「あの、今日はありがとうございました。休日なのに進路指導みたいなこともさせてしまって」
「こうして生徒とデートみたいなことができて楽しかったですよ。こちらこそありがとうございます」
「そんなっ、デートだなんてっ。あ、いえ、私も楽しかったです、はい」
最後の最後でなんとまあ嬉しい言葉をかけてくれるのだ。見栄みえのためにギリギリ保たせていた冷静さを完全に今失っていた。口角が自然と吊り上がる。
しかしこう先生が言ったということは、今日のことはもう先生公認本屋デートってことでいいですよね? ね?
ひらひらと先生は軽く手を振っている。私もそれに手を振り返す。
「ではまた学校で」
「はい! さよなら」
実家がこの周辺と言った通り、先生は歩いて帰るようだ。家の方向は私と違うみたい。私は自転車で帰ることにする。
本屋を去る姿を見送りながら思う。先生は私に新世界を見せてくれると考えていた。それはあくまで教養と言われる類の話で、まさか大切な将来でも新たな地平を示してくれるとは。とりあえず帰ったら学部調べからしてみようか。
この恩は返し切れないな。今までのことを考えると尚更。ならばせめて先生が望む人に私はなりたい。そんなあるかも分からない未来に思いを馳せた。
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