八月、人が「好き」になる瞬間を見てしまった
僕があんな質問をしたから、彼女は夕立の中にいるのだ。
それが答えなのだろう、不本意だけど。
図書室で司書の先生との会話を見ていて、ある直感があった。それを訊いてしまったのは大きな誤りかもしれない。
それでも訊かずににはいられなかった。今思うと、不思議なくらい急に湧き出た、強い衝動だった。
雨の中に一歩も踏み出せず、取り残された僕はただそう思うしかなかった。
*
『八月四日、午後一時から図書室の大掃除を実施します。一、二年で手が空いている図書委員は学校図書館に集合してください。以下に詳しい説明を載せていますーー』
「流石さすがにこれじゃあ集まりませんよねぇ」
夏休み直前という時に図書委員を対象に配られたプリントを眺め、ため息混じりの一言を口にする。本校の図書館司書であり、このプリント制作者である宇治川先生の目の前で。
それを受け、目に見えてしょんぼりしている。そしておずおずと口を開く。
「すみません。クリエイティブな仕事は少々苦手で……」
「これはクリエイティブ云々うんぬんの話ではないと思いますが」
「そうですか。そうですよね……」
私が読んでいたプリントを、先生は横からじっくりと再度眺める。私はあまり良くないと思った言葉を指差す。はあ、と理解と反省が混じったため息をついている。
「なんというか全体的に文章がお堅いですね。連絡なんでこんなものかもしれないですが」
「はあ」
「あんまり良くないのは『手が空いている』っていう緩い条件だと私は思います」
「ああ、そこですか」
利口な子供のように先生はさっきからこくこくと頷いている。自らの責任の重さを痛感したのかもしれない。
折角の夏休み、青春を謳歌せんとする高校生なら一日も無駄にはしたくないだろう。そんな中で強制ではなく、任意の委員会活動。どう考えてもサボり案件だ。私も宇治川先生がいないなら、恐らくサボっている。
けれど少し手厳しい言葉の一つくらい言いたくなる。大掃除への参加人数如何で、作業の大変さが変わるからだ。去年はまだ一年生ということもあり、このような味気ないプリントでホイホイと当日に図書室まで来てしまったものの、本当に作業が大変だった。それはもう翌年は遠慮したいぐらいに。
「強制にしておけば良かったんですかね」
先生がポツリと反省の言葉を口にする。先生も生徒が手伝いに来ない状況は同じように憂いているようだ。
「少なくとも今の悩みは解消してたかもしれないですね」
それくらいしか言うことがない。もはや八月四日、大掃除の当日になってしまったのだから。後悔先に立たずだ。
ざっと図書室内を見渡す。生徒の何人かが手持ち無沙汰そうに佇んでいる。男子の紀章、女子のリボンの色を見ると大半が一年生。哀れな子羊が生贄に差し出されたということだ。
一年生が多い理由は決まっている。単純に事前情報がないからだ。図書館の大掃除とは何か、それはどのくらい大変なのか。それを理解している二年生はサボるが、理解していない一年生はまさかサボろうとは思わない。今は先生の無意識な詐欺で人を集めている状況に近い。
「ま、落ち込んでも仕方ないですよ。来年からは上手くやりましょう」
「頑張ります。岸辺さんは来年手伝ってくれませんから、人を集めるしかありませんしね」
私のフォローに先生がこくこくと頷きながら、そう反応する。
来年は確かに手伝えないかもしれない。というのも来年は私が三年生になるからだ。言うまでもなく受験が控えているし、それに配慮して委員会活動もハードではなくなる。今回の大掃除で一、二年しか召集されないのもその一環だ。そんなことは前々から分かりきっている。
「……別に多少忙しくても手伝いますが」
しかしそんな言葉を呟く。それには先生は無言で佇んでいる。ちゃんと聞いた上で聞こえないフリをしているのか、本当に聞こえてないかは分からない。私としてはそれ自体、分からなくていいと思う。
「さて作業を始めますか」
時計を見ると、ちょうど十三時になった。先生は腕時計を一瞥しながら、私を含めた図書委員に声を掛ける。
そこからは先生が大掃除についての事前ミーティングを始める。作業内容や時間配分、掃除用具は何でどこにあるか、誰が何を担当するか等、詳しい説明がなされている。それに私や他の図書委員は黙って聞いていた。おそらく理路整然なそれに、思わず口を噤んだに違いない。
やれば出来るじゃん、先生。淀みない説明を聞きながら、そんな感想を抱く。あのプリントのことは帳消しだね。
「……最後に書庫の方の掃除を、私と岸辺さんと檜木くんでやろうと思います。もし私に質問があったら、書庫へ来てください。はい、作業開始」
ぱん、と一つ手を叩く。作業開始の合図。今日の図書室は一般利用が出来ないようになっているので、その音はいつもの声よりも図書室によく響いた。
「さて行きましょうか」
「はい!」
「檜木くんも行きますよ」
「分かりました」
「檜木くん」と呼ばれる人の方を見る。第一感、小動物という言葉を連想する。髪は地毛かは分からないが亜麻色、男子にしては長めで、身長は170センチメートルほどありそうで、とにかく痩せている男子だった。小動物、もっといえば草食動物という方がイメージに合ってそうである。学ランの紀章を見る限り、一年生のようだ。
まあ、だから何なのだという話だが。今回こっきりの仕事だ。特に親しくしようとかいう気持ちはない。
先生についていって、やがて書庫へ入っていく。最近は頻繁に入っているので、もうすっかり見慣れた場所だ。
「へえ」
隣にいる檜木くんが嘆息している。初めて入ったらそうなるよね。私もそうだった。
まず書庫の寒さにびっくりする。うちの学校図書館は広大であるため、エアコンの効ききがあまり良くない。にも関わらず一度、書庫に入れば夏とは思えない涼しい空間がそこには広がっている。理由は本の保存のためだが、それを知らないと面食らうだろう。
次に書庫の広さ。図書館が広大ということは、それを所蔵するための書庫も広いはずだが、それはもう尋常ではない広さなのだ。本当ならとても三人では掃除がどうにかなる広さではないが、如何せん全体的に人手が足りない。
「さ、始めますよ」
先生は持ってきたモップでさっそく床を拭き始める。私もすぐに作業に取り掛かる。何しろ広さが広さだ。さっさとやってしまわないと、すぐに陽が暮れてしまう。檜木くんも後れ馳せながらも、作業を始めたようだ。
しばらくは各々がバラバラの場所で掃除する。本当なら先生と喋りながらでも作業したい所だが、真面目にやらないと時間までに作業は終わらないし、檜木くんに疎外感を与えるのも憚られた。
しかしそんな沈黙を破ったのは結果的に彼であった。だいたい書庫の半分くらいの掃除が終わった所で、彼が私に話し掛けてくる。
「すんません。掃除してたら本が落ちてたんですけど、どうすればいいっすか」
「は?」
彼がびくっと肩を揺す。どうやら威圧してしまったらしい。全く怒っていないのだが。ただ質問するなら先生に、という事前連絡があったからおかしいなと思っただけ。
まあ、先生には話し掛けづらいのかもしれない。美人だし。男子高校生なら何か思わずにはいられないだろう。例えば淡い恋心。
なら私に、というのも納得だ。先輩らしくちゃんと対応することとしよう。
「ああ、ごめんごめん。その本を見せてくれる?」
「あ、はい」
渡されたのは『ポエニ戦争とは何だったのか? ~二人の英雄の視点から~』という本。なるほど。分類番号は232か。ラベルを見ると更に詳しい分類が分かる。このくらいなら私でも十分対応できるな。
まずいつも胸ポケットに入れてある学生手帳を取り出す。その最後の方のページは自由に書き込みができるメモのようになっている。そこに、……しまった。
「あ、檜木くん。シャーペンとか何か書くもの持ってる? 私、忘れちゃって」「……へ? あ、ああ、はい。持ってますよ」
ポカンと毒気でも抜かれたような顔をしている。どこかだらしない表情だった。シャキッとしていれば、イケメンにもギリギリ見えなくない顔なのに。
そういう訳で始めは反応が鈍いかと思ったが、俊敏に学生ズボンの右ポケットに入っていたらしいシャーペンを渡してくる。なんでこんなもの、すぐに出せるんだ。まあ、ポケットに学生手帳が入っている私も大概だが。
「ん、ありがと」
お礼を言ってすらすらと書名、著者名、図書分類番号のラベルを記録する。これは後々の確認用だ。
「えっーと、この番号だからあっちか」
行くよ、と檜木くんに声を掛ける。彼はうぃ、とよく分からない返事をした。
「岸辺先輩って下の名前、何て言うんすか?」
「えー」
本を元の位置に戻すための書庫内の移動中、そんなことを訊かれる。思わず嫌そうな声が出てしまう。これは先程のように声と感情が合っていない訳ではない。本気で嫌なのだ。
しかしここで名前を名乗らないのもおかしい気もする。ため息混じりにやむなく口にする。
「涼。涼しいの涼ね」
「へぇ、読みだけ聞くと男っぽいですね」
「はっ」
思わず悪態をつく。これだから言いたくないのだ。男っぽい名前なのは別に気にしていない。これはこれで私なりに気に入っているからだ。けど今の言葉を何回言われたことか。流石に辟易としてしまう。
あとこれはあれか。狙ってんのか。別に図書委員会なんてただの委員会で、委員同士に深い関わりなどない。他のクラスの図書委員を知らないのは当然のことながら、同じクラスの図書委員の人とも仲がいい訳でもない。
それが悪いことではない。そもそもその程度の委員会だということ。そんな中で彼が先輩である私に下の名前を尋ねる行為はそうとしか思えないのだ。
「檜木くんは下の名前何で言うの?」
「あ、爽太です。爽やかに太郎」
「ふぅん」
笑顔で質問に返答する檜木爽太くんに、せいぜい興味がなさそうに答えてやる。これは意趣返しも含まれている。訊いた下の名前が特に変わったものではなく、反応に困ったのもあるが。
それっきり会話が切れる。目論見通り……なのだが、会話が途切れたら途切れたで、どこか気まずいものがある。何より先輩の私が会話を切ることは少し大人げない気がした。
「あー……、檜木くんって何か趣味とかある?」
「趣味っすか?」
「うん、まあ趣味。別にそうじゃなくてもいいけど」
思わず言っていることが支離滅裂になる。初対面に話を振るなんて、慣れないことをするものじゃないな。
檜木くんはうーん、と顔の下半分を覆おおい隠すように口に手を当てている。その悩む仕草は返答を考えているのか、それとも私の質問の意図を図りかねているのかは分からない。
「趣味かあ。ロックを聴くことですかねぇ」
「ロックかあ」
「はい、パンク・ロックです」
「パンク・ロック……」
やばい。全然知識がないし、興味もない。有名なパンクロッカーの一人も思い付かない。これは私が悪いのだろうか。話の振りを間違えたかなと焦るところで、とある記憶と繋がるものがあった。それをそのまま口に出す。
「あれ、君って前に『1980年代のパンク・ロック』って本、借りてなかった?」
「借りましたけど、どうしてそれを」
「やっぱり? イメージ強かったから覚えてたんだよね」
図書当番の仕事をしながら、ここまで覚えていた記憶力に得意になる。ひょっとしたら饒舌になっていたかもしれない。仕切り直すように、コホンと咳をする。
「図書室はよく利用するの?」
「うーん、あんまっすかねー。あの本は授業資料探してる最中に興味を持ったんでたまたまです」
「ほー」
相槌を打つが、次のやばいが早々に訪れる。これでも話が続かない。どうすれば。
頭を抱えかけた所で、今度は檜木くんの方が口を開く。場が温まって、話しやすくなったのかな。
「……岸辺先輩はよく利用するんすか?」
「私? まあ人並み以上には通ってるかな」
「へぇ、流石図書委員ですね」
「君だって図書委員じゃん」
あまりにも他人事のような言い方にくすりと笑う。そして気づく。もしかしたら今、ちょっと楽しいかもしれない。
「いやあ、僕は別になりたくてなった訳じゃないですから」
「委員会決めのじゃんけんに負けた感じ?」
「そういう感じです。じゃんけんじゃなくて、アッチ向いてホイですけど」
「どうしてそれで……」
なぜアッチ向いてホイで決めるのか。謎だ。プロセス増やして、煩わしくなっていることは気にしないらしい。
「それはそうと大変じゃない? 意外と図書委員って」
「思ったよりもそっすね。大掃除なんてあるとは思いもしませんでした。部活との両立もあるんで大変です」
「部活かあ。そりゃ大変だね」
私にはその大変さは分からないという風に、呑気な声が漏れる。私は入学早々に先生と出会い、部活に入らず委員会活動に専念することを決めた。両立の辛さは分かるはずもない。
「部活は何? ロックを聴くのが趣味なら軽音部とか?」
「軽音部っすね。たまに吹奏楽部を手伝ったりもしますが」
「あ、吹奏楽部。私の友達がいるよ」
「へぇ」
興味がありげな声を出しているが、その一言で終わったので多分、本当に興味があるわけでないのだろうと察して話を切る。その時ちょうど、目的の棚に到着する。
「ここらへんだね」
「どうして分かるんすか?」
「ラベルを見れば分かる」
「へぇ」
『ポエニ戦争とは何だったのか? ~二人の英雄の視点から~』の背表紙のラベルを指差す。対して檜木くんは先ほどと同じ返答。しかしその声には先ほどと違い、少し興味の色があったように思う。
「えっと、この番号だと……四段目か」
独り言で自分に確認する。おそらく今、彼は何も理解していないだろうから。さっさとこの作業を済ませてしまおう。本来メインの作業は書庫の掃除だし。
自分の身長よりも少し高い段へ、腕を伸ばし本を入れようとする。が、あと少しが足りない。背伸びでギリギリいけるか……?
「よっ、と」
本は無事、棚の奥まで入った。しかし私は無事ではなかった。つま先立ちをしていたせいか、本を入れた途端にバランスを崩す。
あ、やばい。転ーー。
「あっ」
目を瞑る。目を開く。痛みはなかった。感触はあったけど。
「おっと。大丈夫っすか?」
檜木くんが私の肩を両手でがっしりと掴んでいた。相手も咄嗟のことだったと思うので、力加減が上手くいっていない。痕がつきそうなくらい力強く掴んでいた。やっぱり男子だなあ。
しかしその瞬間、どうしてか身の毛がよだつ。すんでの所で支えられた安心感よりも、黒い煙のようにパッとしない不安感が心の中に巻き起こる。
意識せず、言ってしまっていた。
「いやっ」
ばっ、と素早く彼の手から離れていた。まだ掴まれた感触は残っている。自分はすぐにやってしまったと気づく。
恐る恐る、というより早く逃げ去りたいと思いながら、彼の表情をちらりと見る。感覚的には怖いもの見たさに近かった。
明らかに傷ついた表情をしていた。一気に至る所の体温が流れ出た感覚に陥る。
「ご、ごめん」
何を言っても無駄だと思いながらも謝る。本当に悪いことをした。彼は私への純粋な親切心だけで助けた。その『コウイ』を我慢できなかった私がなにもかも悪いのだ。
最悪だ。資格がないと分かりつつも、泣きそうになってしまう。
「……いや、全然いいっすよ。僕も出しゃばっちゃいました」
はは、と笑い飛ばそうとする檜木くん。このどんよりした空気を打破しようとする気持ちが見て取れた。ただ優しい嘘を吐くには、その痛ましい表情が戻っていないよ。
「あれ、二人とも掃除は?」
「あっ」
気まずい、というか最悪な空気感になったところで、先生が私たちを見つけ、話しかけている。これは助け船だ、いやノアの方舟だ! と直感する。思わず早口で捲し立てる。
「いや、実は檜木くんが床に落ちていた本を拾ったらしくて、それを元の場所に戻そうと。あ、落ちてた本のデータはこれです。後で本当に書庫の本なのか、調べておいてくれますか?」
そうして私はさっき記入した生徒手帳のメモ欄を先生に見せる。
「ああ、はい」
先生はただ一言そう返す。情報過多で処理が追い付いてない感じの反応だ。檜木くんとの会話を切るのが狙いなので、一応目的は達成した。
ただ今ある問題を先送りにしたせいか、心の中のわだかまりは一向に消えない。檜木くんの顔を見るだけで、ずっと胸がチクチクしていた。
「大掃除、ご苦労様でした。人手が足りなかったので、とても助かりました。新学期からも普通に委員会活動がありますので、参加してくれると嬉しいです。それでは解散」
先生が始めに説明を行った場所で再び図書委員が集まる。そこで作業終了の合図をする先生。時計を見ると四時を過ぎたくらいになっていた。三時間以上掃除をしていたことになる。流石に体も心も疲れていた。
それでも終わった途端、先生に駆け寄る。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様です。今年も参加してくれて、本当に助かりました」
「いえいえ」
先生の頼み事なら断りませんよ。続く言葉はそれだが、言わずもがなだろう。
「あと一つ頼み事があるのですが……後期の図書委員長をやってくれませんか?」
「やります」
即答だった。先生の頼み事なら、うんたらかんたらだ。先生は即答に驚きながらも、ありがとうございます、と笑顔でお礼を言っていた。委員長の打診よりも先生の笑顔の方が私には幸せを感じられた。
ふぅ、と一息つきながら、学校の生徒玄関まで辿たどり着く。そこでついさっき覚えた顔を見かける。檜木くんだ。
「あ、先輩」
「……待ってたの?」
「はは、まさか。夕立です」
檜木くんが指を指した方を見ると、確かにざあざあと雨が降り出している。全く夏は空が不安定で嫌になるね。天気予報では一日中、晴れだったはずなのに。
「相合い傘は無理よ。私も傘持ってないし」
「頼みませんよ、傘があったとしても。ここにいたのは本当に雨宿りのためっすよ」
「ふぅん」
どちらも無言になる。当然だ。今日の大掃除まで仲が良かったわけでもなく、さっきはあんな気まずいこともあった。何よりただの雨宿りだ。荒波を立てるつもりもなーー。
そう思った私に反して、彼は再び沈黙を破る。
「あの先輩。一つ訊いていいっすか?」
「ん?」
あくまでも聞き返す。了承した訳ではない。それを彼は了承と捉えたのか、それとも聞き返しただけと理解した上で無視したのかは分からない。そのまま言葉を続けている。
「先輩って宇治川先生のこと、好きなんすか?」
檜木くんは何の気なしに言い放つ。ともすればただの雑談だと勘違いし、適当に応答してしまいそうになるほどに。
目をかっと見開く。ただただ驚いて、全く言葉が出てこない。それだけではなく、ジェスチャーで否定しようにも体が動かない。金縛りにあったみたいだ。体温がぐっ、と上がることだけ感じていた。
深呼吸。とにかく落ち着こう。
「そうじゃない」
まずその言葉を捻り出す。先ほどの不義理の後だ。誠実に言葉を紡ごうとするため、考えに考え抜く。
「宇治川先生のことは『好き』じゃないよ」
確実に分かっていることだけを言い残して、夕立の中に駆け出した。
この際、雨でびちょびちょになることは仕方ない。ここから逃げ出すことが先決だ。けど檜木くんを置いていくことだけは仕方ない、と割り切るには葛藤があった。私だけ雨の中なのはずるいなあ。
けど最後に嘘だけは吐かなかった。確信があった彼にしてみれば、言葉の意味は分からないだろうが。
宇治川先生のことは『好き』ではない。そんなもので括られていいものではない。好きを文面通りそのまま理解する人には分からないこだわりだろう。でも私にとっては全ての核なのだ。
分かってくれるといいな。まあ、理解できないならそれまでだ。訊いても全て無駄だったと言えるのだから。
ただ一人取り残した彼のことを思いながら、土砂降りの雨の中を駆け抜ける。
一気に体温が上がり、火照っていた体は再び、冷えきっていた。
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